契約印
コンコン、といつもより控えめに扉が叩かれた。
ベッドの縁に座りシルティの寝顔を見つめていたセドリックは、彼女の額にかかる前髪をサラリとさらったのち、鷹揚とした足取りで扉へと向かった。
内鍵を開けて扉を開いた先に立っていたのは、先ほど密かに仕事を任せた、シルティの専属侍女であるノナリアだった。
「ご指示通り、湯浴み用のお湯と果実水、軽食をお持ちいたしました」
規則通り、貴族の顔を直接見ることなく、綺麗に揃えたつま先の数歩先に視線を落として頭を下げるノナリアに、「ご苦労だった」と告げ、下がるように命令した。
しかしいつもなら表情を変えることなく仕事をこなす彼女には珍しく、ぴくりと肩を震わせるたあと、視線を彷徨わせながら口を開いた。
「あの、無礼を承知でお尋ねします」
「なんだ」
「お嬢様は……シルティ様のご様子はいかがでしょうか」
「大事ない。今は眠っている」
「左様で、ございますか」
「……まだなにかあるのか?」
「……いえ。また御用がおありでしたら、お声がけください。では、御前を失礼致します」
「ああ。シルねぇさまのことは心配しなくていい」
ノナリアが聞きたかったであろうシルティの話題を話すと、彼女は強張った表情をようやく緩め、今度こそ静かに下がって行った。
セドリックは、樽の中にお湯と水を入れて適温にすると、手ぬぐいを濡らして固く絞った。温かい手ぬぐいで、シルティの身体を清めていく。さっぱりしたからか、シルティの寝顔が穏やかなものになった。セドリックはホッとし、コップを手に持ったまま、シルティの上体を支えて起こした。
「シル、シルティ。のどが渇いたでしょう。果実水を用意しましたからこれを飲んで眠ってください」
支えた身体を軽く揺すりながら優しく声をかけるが、シルティからの反応はない。グラスの飲み口を唇に当ててみても飲む気配がないので、セドリックは仕方なく果実水を口に含むと口移しでシルティののどを潤した。同じ行為を2度、3度と繰り返して彼女の身体を横たえると、身体がさっぱりして乾きも癒えたからか、先程より幾分か顔色が良くなり気持ちよさそうな寝息も聞こえてきた。
ホッと息を吐いたセドリックは、余った湯で自身も身を清めたあと、カウチソファに放ってあったガウンを手に取り、クローゼットの脇にある全身鏡の前に立った。
チェストの上のロウソクに火を灯す、暗闇に浮かび上がった左胸には綺麗に半分だけ消えた契約印が残っていた。
「どうして……」
シルティはエドガーじゃなくセドリックを選んだ。彼女の瞳の奥には、言葉にしなくてもわかるほどの深い愛情が灯っていた。
盟約の通りにシルティから「愛している」と告げられ、口づけを交わした。そして計画通り、愛するシルティの乙女の証は自分が散らした。彼女の
(これでシルティは僕のものになったと思ったのに)
はぁ、とため息を
しかし、“真実の愛”の口づけを交わしたはずなのに、契約印は、身体が結ばれた分のみ解除されている。この事実が示すのは……、
(……シルティは僕のことを愛していなかった?)
いや、それはないと、自分の考えを否定するように
それとは正反対に、セドリックは嘘もつくし、目的のためなら偽ることも厭わない。度が過ぎないような手段を考えるのはなかなかに骨が折れるが、今回のように、エドガーという邪魔者を排除し潰したあとは、形容しがたいほどの達成感と愉悦に浸ることができる。
こんな歪んだ性格なのは、生まれのせいでも育った場所が劣悪な環境だったからではない。セドリックは生まれたときから今のセドリックだった。ただそれだけが真実だった。
人として欠けた部分があったからだろうか。真実はわからないが、そのおかげでクロードに気に入られることができた。それに、養子縁組が成功したのも、伯爵がセドリックの性質を見抜いていたからだといえる。
(あのひとは善人に見えて、裏では相当あくどいこともやっている。……まぁ、そんなことでもしなけりゃ、こんなに長い間、歴史ある家門を守っていけるわけがないだろうが……)
だからこそ、伯爵はセドリックを後継者に選んだのだ。そして契約印で縛りながらも、最終的にはセドリックとシルティに領地を守っていってほしいと思っている。
盟約自体に命を奪う効果はないし、それほど強い契約の印ではないと、クロードは言っていた。
「はぁ……。またあの店に行ってみるしかないか……」
できればもう2度と世話になりたくなかったが、契約印が消えきらなかったのだから、その道の専門職に聞いた方が解決策も浮かぶだろうというものだ。
セドリックはガウンを羽織り腰紐を締めた。今までは衣類の合わせ目から覗いていた印章が、表から見える位置に浮かんでいた場所から消えていた。これは、セドリックがシルティと愛し合った証といっても過言ではなかった。
問題が解決したわけではないが、悪い気はしない。
エドガーはもう二度と、シルティを自分のものにすることはできない。
(わざわざ自分を犠牲にして、薬までつかって操ったかいがあったというものだ)
もしセドリックが居なければ、シルティはエドガーと結婚していただろう。想像するだけでエドガーを絞め殺してやりたくなるが、あの男がシルティの夫になることは生涯ない。
ただやはり気になるのは……、
「真実の愛の口づけ、か」
正直、はじめてこの話を聞いたときも馬鹿馬鹿しいと思ったのを覚えている。
人の気持ちを可視化して確かめることはできないし、人間の数の分、愛の形はさまざまだ。
伯爵がなにをもって“真実の愛”としたのか……。それを突き止めなければ、シルティとセドリックの関係は中途半端なもので、婚姻することはできないだろう。
「次の休みにでも、シルティと2人でクロードの店に行ってみるか……」
呪いをかけた魔法使いはクロードではないが、なにかしらの助けにはなるだろう。そう結論付けたセドリックは、すやすやと眠るシルティのそばにひざまずくと、
「初めて出会ったその日から、あなたは僕の太陽です。愛しています、心から。あなたのためならば、命をも差し出せるほどに……」
眠り姫のように深い眠りにつくシルティのそばに顔を寄せると、体温の低い彼女の手のひらに頬をすり寄せた。
「……あなたが好きです。愛しています、シルティ。だからあなたも、僕なしでは生きられなくなるくらい、僕を愛してください」
セドリックの切実な思いに対する答えは、返ってくることがなかった。
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