実る

 お互いの呼吸が整う頃。セドリックは、戸惑いと期待の混ざった上ずった声で「シルティ」と呼んだ。


(セドリック……美しく愛しい、私の天使……)


 シルティは覚悟を決めた。ゆっくり瞳を閉じ、深く呼吸をして、次に瞳を開けた時にはもう迷いはなかった。


「セディ。私、エルヴィル小伯爵と口づけをしたわ。それも何度も」


 熱に浮かされ潤んでいた瞳が、一瞬にして凍りついたように見えた。


「でも、あのひとのことが好きだったから口づけを許したのかはわからない。ただ求められたから。私はあのひとの婚約者だから。……そういう思いで、身を委ねるべきだと判断したの」


 セドリックは拳を握る。


「……あいつのこと、どう思ってたの」


 かつて渡した、すみれの香りを移した勿忘草が脳裏をよぎったが、その記憶を封じ込めるように瞳を閉じた。


「……好きだったわ。ひとりの人間として。それに尊敬もしていた、領民を愛し、領地をよくしていこうとする同志として。でも、男性として好いていたかと聞かれたら、正直のところよくわからないわ。たぶん、私は未熟で、恋とか愛とかそういうものをよく理解できていないのだと思う。そのくせに、ただ請われるまま唇を許した私を……汚いと思って?」


 セドリックは、頭を振った。


「思わない。ぜったいに」


 シルティをじっと見つめるその視線が本心だと伝えていた。心臓がとくんとはねて、ぎゅっと締め付けられた。


(ああ、かわいいセドリック。そして、私のかわいそうなセディ……)


 大切にしたい、傷ついた心を慰めてあげたい。けれどそれ以上に、もっと快楽に溺れ、シルティのことしか考えられなくなってしまえばいい、と、浅ましい考えが浮かんだ。


「……セディ。あなたを慰めてあげたい……愛してあげたいって言ったら、私のこと、嫌いになってしまう……?」


「――え?」


 何を言われたかわからないといった様子からいくばくかの間をあけて、セドリックは首から上を真っ赤に染めた。まさかこんな突拍子もないことを言われるとは思っていなかったのだろう。いつも柔和な笑みか怜悧な表情を浮かべている彼の、初めて目にする年相応の反応に、素直にかわいいと思った。


 ふと、目の前のセドリックに、幼い頃のセドリックの姿が垣間見え、先ほどよりも早くなった鼓動に内心首をかしげた。そして、


(まさか、私が愛しているのは――)


 頭をよぎった疑問の答えは、力強い腕に抱きしめられたことにより、彼方へと消え去った。シルティよりも頭ひとつ分高いセドリックの肩口に、頬を寄せたまま押し黙る。右耳に聞こえる彼の鼓動の速さが、先の質問の答えを如実に物語っていた。


「……いやじゃない、シルティ。僕を、慰めて」


「セ、」


 発しようとしていた言葉は、温かな口内へ飲み込まれて消えた。ぎゅうっと抱き込まれた格好で、首だけを上向かせられて性急に口腔内をむさぼられていく。


「ん、んぅ、はぁ……っ、ぁ、んん……!」


 唇を擦り合わせ、差し入れた舌をからませてつついて、唾液と一緒に吸い付く。激しい口づけに、酸素を求めて喘げば、息つぎなど許さないとばかりに、敏感な粘膜や、舌先をいじくり回された。


 飲みきれなかったお互いの唾液が口角から顎先までを濡らして、息苦しさと気持ちよさで朦朧とする頭の片隅に残っていた理性で、セドリックの薄い胸板を叩いた。


「っは……!」


 そうしてようやく開放されたシルティの顔は、涙と鼻水と唾液でぐちゃぐちゃになっていた。時折むせながら、全身で呼吸を繰り返すシルティの姿を、セドリックはじっと見つめていた。


(美しい顔は、どんなに汚れても美しい……)


 シルティならば、ベッドの上で乱れ、喘ぎ、何度気をやり果てたとしても、変わらず美しく、いとおしく想えるだろう。


 セドリックは呼吸を整えることに忙しいシルティの顔を汚す液体すべてを舐め取り、時にはすすった。彼女から流れ出たものは、すべて甘美だった。

 

「シル、シルティ、行きましょう」


「どこに……?」


 意識をもうろうとさせているシルティに“天使”と愛でられてきたセドリックは、イブをそそのかした悪魔へびのように蠱惑的な笑みを浮かべ、なんなく彼女を抱き上げると迷いのない足取りで居室までの距離を歩いた。



*****



 シワひとつなく整えられていたベッドのうえに、そっと優しくおろされた。これから自分の身に起こるであろうことを想像して、シルティの身体がぶるりと震えた。


(やだ、私ったら、今更怖くなるなんて)


 じっと見おろしてくるセドリックに気づかれまいと、精一杯虚勢を張る。


 しかし、落ち着こうとすればするほど震えは酷くなり、誤魔化すことができなくなった。


「……シルティ」


 息を吐くように名を呼ばれ、どきりと息を詰める。まさか、本当は嫌がっているのだと誤解されていたらどうしようと、焦ってセドリックを仰ぎ見た。けれどシルティの瞳に映ったのは、泣いた子どもを前にして途方にくれたような、どうしたらいいかわからないといった表情だった。


(……よかった。失望されたわけじゃない)


 ホッと胸をなでおろしたシルティは、震える腕を持ち上げて、大好きな稲穂色の金髪をサラリとさらった。するとセドリックの体がぴくりと揺れ、一拍あけてからシルティの手を取り、白く柔らかいそれにほほを擦り寄せた。


 金のまつ毛に縁取られた瞳が、瞬きするたびに隠れては現れるのをじっと見つめる。そうしていると、焦れた様子のセドリックが、ほんの少し赤く充血した目を向けてきて、シルティの手を口もとにすべらせると、ちゅっちゅっとキスをし始めた。その頃には身体の震えは止まり、手のひらに口づけをしながらじっと見つめてくる瞳を、どこか夢をみているような心地でうっとりと見つめ返していた。


 大好きな空色の瞳の奥に、情欲の炎が浮かんで見える。時折、雲間からのぞく月の光を吸収して、空色から春の若葉のような優しい黄緑色に変化するのを観察した。


「わたし、セディの瞳の色が大好き」


 舌っ足らずにそう呟くと、セドリックは瞳を細めながら「うん、しってる」と答えた。


 手のひらへのキスは、次第に指への愛撫に変わっていった。細い小指の根元をちろちろと舐め、そのまま下から上にべろりと甜め上げたあと、指を咥え込まれてじゅっと吸い上げられる。そうして唇で挟んだまま上下にしごかれて、最後に爪の先をかり、と咬まれると、ぞくぞくと背筋が泡立った。


「んっ」


 しなやかな肢体がびくんと跳ね反らされた顎に、細く長い首筋が「食べてください」と言わんばかりに差し出された。セドリックは欲望のままそこに吸い付き、軽い口づけを落としながら胸もとへと移動していく。


「初めての性交は女性の体に負担がかかるらしいんだ。ボクはシルティに痛みを与えたくない。だから、多少ねちっこくても許してくれる?」


 「お願い、シルねぇさま」とシルティの指先に口づけると、シルティは「いいわ」と微笑んだ。


「私のことを気遣ってくれてありがとう。愛してる。愛しているわ、セディ」


 頬を赤く染めて、精一杯自分の気持ちを伝えようとする姿が愛しくて、早く拍動する心臓が破裂してしまいそうだった。


「……シルティ、シル……愛してる」


 そう何度も名を呼び愛を囁やき、シルティの顔中に口づけを落とすと最後に唇を重ねた。

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