第2話

「ねえ、直希。皮膚むしり症って知ってる?」

「知らないけど、それがどうかしたの?」弟はゲームする手を止めないまま、口だけで返事した。

「いや、何でもない。」

「ふうん、そんなことはいいからさ、姉ちゃんもゲームしようぜ。」

「いやよ。」

 弟の部屋を去ろうとしたとき、もう一つ聞いてみようと思った。一息おいて、私はそれを恐る恐る声に出す。

「あとさ、一応きいておきたいんだけど、あんたは姉ちゃんの名前知ってるわよね?」

「知ってるに決まってるだろ。みずきだろ。」

「漢字で書ける?」

「無理だよ。希の字は書けるけどさ、瑞は習ってねえもん。」

じゃああんたが姉ちゃんの名前を書くときは「みず希」って書くわけね。

「「みず」は平仮名で、希だけ漢字? 字面キモイでしょ。」

「別にいいだろ。

 てかさ、なんでそんなこと聞くわけ?」

 これは適当にごまかすしかない。直希も今や小学5年生になり、知恵がついてきた。しかし、姉の名を漢字で書くことはできない。

「えっと、なんていうか、あのね。

 子供って、案外家族の名前書けないんだって、今日学校で話題になったのよ。お前はどうかなって思って、一応確認してみただけ。」

 二時間目の家庭科の授業中、話が逸れて、先生が延々と雑談していた。その時の内容が、小学生の娘が自分の名前を書けなかったことにショックを受けた、というものだった。

 クラスメイトの反応は、人それぞれだった。小さい弟や妹がいる子は、「うちの弟大丈夫かな」などと近くの席の子たちで盛り上がっている。興味のない子は、首を九十度に折り曲げて俯き、寝息を立てている。私は誰とも交流せず、でも顔は前を向いていた。

「あっそ。ゲームしないならさっさとあっち行って。」

 冷たい。親の愛情を一身に受けているくせに、姉には冷淡な対応。わがまま野郎。

 弟の悪口だったらいくらでも言える。

 あいつはこの家の邪魔ものだ。母親は、ダイニングテーブルに「お姉ちゃん」宛てに手紙を残し、いつもパートに行ってしまう。父は私に無関心。私の興味を持っている家族はいない。こんなの、家族じゃないと思う。いうなれば、仮面家族?仮面夫婦というのはよく聞くから、こういう言い方が一番しっくりくる。

 こんな言い方、まるで家族を求めているみたいで恥ずかしい。でも、これが本心だから、心の中だけで声に出す。

 私を見て。

 お願いだから、私を見て。

 それはいくら大声で叫ぼうと、誰にも聞こえない。家に居場所がなくて、学校ではみんなが自分と違ってしあわせそうに見える。みんな、誰一人として、私をわかってくれる人はいない。

 この世の中には、信じられる人はいない。

 私はそう思う。


 自分の部屋に戻った私は、ベッドに転がり込んだ。右手人差し指の爪を、皮膚が剥がれかけたところにひっかける。そして親指と人差し指で皮膚を挟み込み、左に引っ張った。

 ペリペリ ペリペリ

 私の皮膚は剥ける。地肌が露出して、唇の動きを遮るものはもうない。そっと舌で剥いたところを舐めると、血の味がした。表皮だけでなく、皮下組織も傷つけてしまったようだ。痛い。でも、気持ちいい。

 だからどうしてもやめられない。何度やめようとしてもやめられない。このペリッと剥いたときの、解放感? なんて言えばいいのかわからないけど、これが良くも悪くもクセになる。

 今度は左手人差し指をめくれた部分に引っかけ、皮膚を剥いた。ペリペリ。ペリペリ。気持ちいい。気持ちいい。

 そして、向ける唇の皮膚がなくなると、私はまつ毛に手を伸ばす。親指を人差し指で毛を挟んで、グイっと引っ張る。すると、プチっと毛根が私から分離して、さらにゆっくり引き出すと、一本の立派なまつ毛が取れる。

 私は無我夢中で、毛を抜き続けた。


「お姉ちゃん、ご飯よ!」

「はーい。」階下まで聞こえるように、大声で返事をする。

音を立てずに移動して、リビングの扉を開けると、びっくりされた。

「うおっ! 姉ちゃんもっと気配出してよ。」

 直希だ。

「なあ、今日調子悪いの?」

「あら、そうなの? お姉ちゃん。」

 母も直希の発言に乗っかる。

「別に。」

 会話は途切れた。

 両親は、私を「お姉ちゃん」と呼ぶ。違う、あんたの姉なんかじゃない。私はあんたの娘だよ。瑞希だよ。

「お姉ちゃん、また唇あれてるわね。ワセリン塗っときなさいよ。」

「わかってるよ」

「直希はそんなことないのにねえ。お姉ちゃんだけ荒れるん、なんでかね。」

「姉ちゃんよく口触ってるじゃん。それでしょ。」

「お姉ちゃん、あんま触っちゃいかんよ。」

「わかったわかった。」

 母も弟も、私の唇に気付いているくせに、何もわからない。私の気持ちなんてわからない。だから私も、家族なんて信じない。信じる価値なんてないの、家族なんかに価値なんかないの!

「ところでさ、お母さん、私の名前漢字で書ける?」

「何言ってんの? 娘の名前くらい当然書けるわよ。」

「だよね。よかった。

 だけど直希は、姉ちゃんの名前書けないってさ。今日家庭科の先生がさ、家族の名前を全員分漢字で書けるかって授業で話題にしたんだよ。まさか書けないわけがないと思ったけどさ、直希に聞いてみたら案外そうじゃないのね。お母さんはさすがに大丈夫でしょ。」

「そんなの、当たり前よ。」

 母は唐揚げを口いっぱいに頬張った。

「うーん、この唐揚げ美味いわ。自分で作っといて変な感じだけど、本当においしい。」

 お母さん、もう私の話に興味ないんだな。

 お母さんは、私の話より、自分が作った唐揚げの自慢にしか興味がないらしい。

 ああ、イライラする。こんなやつの子供に生まれたから、唇がボロボロになった。まつ毛も、抜きすぎてかなり少なくなってる。こんなの、全部、家族のせいだ。

「お母さん、私の話、まだ途中なんだけど。ねえ、私のことにも興味もってよ。」

「お姉ちゃんの話だって聞いてるわよ。」

「お母さん、皮膚むしり症って知ってる?」

 今しかない。私がこんなにも家での居場所に困ってて、小さいころから蔑ろにされてきて、それで今、こんなに唇が汚くなって、目も汚くなって……。すべての不満をぶつけてやる。直希が生まれたからだ。直希が生まれて以来、私は邪魔者になったんだから。除け者にされ続けてきたんだから。

「ワセリンを塗ったところで、私の唇は良くならないよ。だって自分で自分の皮膚剥いてるんだもん。お母さんは知らないだろうけど、知ってると思ってないけど、ワセリン塗れ塗れ言われて、もうほんと、ウザい。どうしてこんなことに……。」

「皮膚、むしり症……。」

 母は小さく呟く。

「私は直希が生まれたから、いらなくなったんでしょ。そんなこと百も承知よ。ずっと、誰も、私に興味もってくれない。小学校の授業参観だってお母さんは直希のほうばっかりだったし、子供のころ、一緒に折り紙やりたくても直希が優先だった。私より直希が大事なんでしょ。私なんてどうせいらないのよ!」

 私は何もかもぶちまける。弟は不審者を見つけたような目で姉を見つめていた。

「あなた、変よ。何があったの?」

 心配そうに母は私を見つめる。直希とお母さんの二人の視線を一身に浴びているうち、私の目はいうことを聞かなくなった。喉に空気の塊が詰まる。何とか飲み込んでも、またすぐにせりあがってくる。

 右目から、小さな雫が零れ落ちた。

「病院に行くなら、皮膚科じゃなくて精神科のほうがいいよ。

 自分で皮膚を剥くのがやめられないのは、自傷行為がやめられないのと一緒なんだって。」

「お姉ちゃん、何かあったの? 辛かったらなんでも言うのよ。お母さんが嫌ならお父さんでもいいわ。」

 はあ⁉ お前の口が何を言うか。お前のせいで、私はボロボロになったのに。お前たちのせいで‼

「誰があんたなんかに悩み相談するのよ。お父さんは飲み会ばっかりで全然帰ってこないじゃない。私を! ずっと! 除け者にし続けてるじゃない‼」

 お母さんは、弟の顔を見つめた。

 突然壊れた娘が怖いのか、それとも本気で心配してくれているのか。火を見るよりも明らかだった。

「お母さんとお父さんに、何か原因があるのね。ごめんね。本当にごめんなさい。」

 お母さんは頭を下げる。

 頭頂部では、頭皮がうっすら見えているのが気になった。

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