ひとつ屋根の下で
第1話
ぺりっぺりっ
私は唇の皮膚を剥く。
「痛いよ」とか、「荒れるよ」とか、そんな忠告はもう聞かない。私にとっては、唇の皮膚はいらないもので、少しでも分厚い箇所があれば取り去ってしまう。
悪い癖だという自覚はある。でも、剥いたあとに作られる新しい皮膚は分厚くて、唇の動きが制限される。ものを食べるときも、誰かと話すときも、何もかもを封じ込められているみたいだ。
仕方ないじゃない。私に注意するあなただって、口癖があるでしょ?私にとっては、そういうものと、何ら変わりないのよ、この悪癖は。
それに、ぷちっぷちっ
私は睫毛を抜く。
皮膚むしり症とか
私自身は、病院にかかる必要はないと思う。リップクリームを塗れば一時的にでも荒れは収まるし、睫毛だったなくても困らない。まあ、人に知られたくはないけど。
初めて皮膚を剥いたのは、忘れもしない、五歳の頃の、晴れた日だった。今はもう十四歳。周りの子はメイクをし始めて、コンプレックスを感じるようになってきた。でも、やめられない。どうしても、やめられない。
「瑞希、ママが帰ってきたぞ。お利口に留守番できたか。」
「ほら、赤ちゃん。瑞希の弟だよ。かわいいでしょ。」
「うん!」
ママのおなかのなかにはあかちゃんがいて、ちょっとまえにうまれたんだけど、ママのちょうしがわるくって、なんにちもおうちにかえってこなかった。やっとママはかえってきた。わたしのおとうとといっしょに。わたしはおねえちゃんになったんだ。
「瑞希、お姉ちゃんなんだからいい子にするんだよ。できる?」
「できるよ!ねえママ、あかちゃんのなまえは?」
「直希っていうんだよ。」
「なおきくん!」
「漢字で書くとね、瑞希の希と直希の希は同じ字なんだ。一文字お揃いだよ。」
「いいね!かわいいなまえだね!」
あした、ようちえんでじまんしよう。おとうととわたしは、かんじにすると、ひともじおそろいなんだよって。おとうとができたってママにいわれたひ、ようちえんでみんなにはなしたら、みんなわたしをうらやましいっていっていた。
でも、みうちゃんだけはちがった。
みうちゃんにもちいさいおとうとがいて、みうちゃんは、おうちにかえっても、ひとりであそんでいるんだって。おかあさんにおねがいがあっても、おとうとのことでいっぱいいっぱいだから、じぶんでやりなさいっていわれちゃうんだって。みうちゃんは、おとうとなんていらないっていっていた。
らいねん、いちねんせいになったら、ひとりでおでかけできるようになるから、みうちゃんちにあそびにいくやくそくをしてるんだ。みうちゃんのおとうとに、あいにいくんだ。
かわいいけどかわいくないって、みうちゃんはいっているおとうと。
「あのね、おかあさんは、わたしよりあかちゃんのほうがだいじなんだよ。」
きょうは、ようちえんからかえってきて、ママといっしょにおりがみをするやくそくだ。
つるのつくりかたを、おしえてもらうんだ。でも、ママはなんだかたいへんそう。
もうまちきれないから、わたしだけで、さきにはじめちゃった。
パンダ、ロケット、きりん。つくりかたをおぼえているやつを、ひとりでおる。ぜんぶで5つかんせいしたら、もうかみがなくなった。
「ねえママ」
「ちょっと待って。」
「ねえ」
「だから少し待って。」
「ねえ」
「静かにしなさい。」
ママ、おこってる。おりがみがもうなくなったよって、いおうとしただけなんだけどな。
「直希、ミルク飲もうね。」
なおきは「あぅ」とか「うぅ」しかいわない。こんなじかんにのむんだ。よるごはんのじかんはまだなのに。なおきは、もうおなかすいたのかな。
「おりがみ……」
「本を読んで自分で作りなさい。ママは、今忙しいから。」
「ちがうの。もうないの。」
「そこの棚に新しいの入ってるから、自分で出しなさい。お姉ちゃんなんだから、できるでしょ?」
じぶんでやりなさい。じぶんでやりなさい。
あたまのなかだけで、なんかいもきこえる。みうちゃんがいっていた、おかあさんのこと。それって、もしかして、こういうこと?
なおきがうまれてから、わたしはじゃまになっちゃった。
おねえちゃんより、あかちゃんのほうがだいじなんだって、それはとってもよくわかった。みうちゃんがいっていたことが、わたしにもわかる。
おとうとなんて、いらない。
ぺろり、とくちびるをなめたら、ちいさくあたるものがあった。
これは、なに?
ゆびでひっぱってみたら、ペリペリ、ととれた。
これは、かわ?かわがむけちゃった。
もういちど、さわってみる。
さっきむいたところは、ちょっとヒリヒリしたけど、いやなかんじはしなかった。むしろ、おもしろい。つめがひっかかるところをみつけて、またひっぱる。こんどは、もっとたくさんとれた。
(なにこれ……!)
おおきいのがとれると、うれしい。
たのしい!
「瑞希、おまたせ。鶴折ろっか。」
「ママは何色?」
「うーん、赤がいいな。」
「はい、ママ!」
あかいろのおりがみをふくろからだして、ママにわたした。そしたら、ママはわたしのかおをみて、いった。
「ねえ、唇どうしたの?」
「え?えっと……」
「上の右側、すごい赤くなってるけど。痛くない?大丈夫?」さっきむいたところをゆびさした。
「ぜんぜん、へいき」
「そう。それならいいんだけど……」
なにしたのかばれたら、きっとおこられる。かくさなきゃ。もうやめなきゃ。
「ねえ、はやくおしえてよ。」
「ごめんごめん。
瑞希、まずは、三角に折ってね。」
「できた」
「次は、もう一回、三角に折ってね。」
「できた」
ママがつくったかっこいいつると、わたしがはじめてつくりあげた、つる。むずかしかったけど、なんとかわたしもかんせいした。パパがかえってきたら、この2つをみせて、びっくりさせてやろう。きっと、すごいって、いってくれる。
あ、でも、なおきがいるから。さきになおきのところにいって、いないいないばあするかもな。もしそうだったら、わたしはじゃまになる。
いっぱいれんしゅうして、もっとじょうずにできたら、ママとパパにあげたいんだ。なおきは、おもちゃがあるから、いらないよね。
あの日、初めての日。直希がうちにやってきた時から、私の居場所はなくなった。家族は、両親は、親戚縁者は、みんな直希をちやほやする。年増の女なんて必要ない。
小学生の時も、私はいつも、皮を剥いていた。
あの頃はまだ、睫毛を抜いてはいなかった。
「みずきちゃん、口から血が出てるよ。」
田中くんがわたしにこえをかけた。
わかってる、そんなこと。またやっちゃったから、ちょっと深くむきすぎたから、ただそれだけ。
まわりの子はみんな、ちょっと口が切れただけでおおさわぎする。なかには先生にいう子だっている。口が切れていることはわるいことで、このクセは恥ずかしいものなんだ。
むいてはなめる。むいたところペロペロのなめてごまかす。できるだけ、人に口をみられないようにしなくちゃ。
今日はしっぱいした。田中くんには、これからはようちゅういだ。
けさ、ママが私の顔を見て言った。
「唇荒れてるね。皮膚科行ったほうがいいかな。」
ダメだ、ぜったい、それはやめさせなくちゃ。私が自分で自分のくちびるをきずつけているなんて、そんなことがバレたらおこられる。ぜったい、ぜったい、おこられる。
私は、きっとこのクセをなおしてやる。
今日からはもうむかない。
そうして決意を固めても、結局私は剥いてしまった。ワセリンを処方されて、毎日塗って、それでも良くならない私の皮膚を、母はずいぶん心配していた。
そんなこと、無駄だよ。だって、私が私を傷付けてるんだから。
「ええ、嘘……。」
いつも通り、ベッドでゴロゴロしながらTwitterを見ていた。トレンドとして画面に映し出されるそのワードに、私は目を疑った。
「皮膚むしり症」
字面を見るだけで、これが私の癖に当てはまっているということはわかる。
皮膚をむしる。皮膚を剥く。
それって、同じことだよね。
私は、病気だったんだ。
「変な癖」に説明がついて安心すると同時に、私は怖くなった。子供のころから、自分には自傷癖があったということ。それを、記事は証明してしまっていた。こんなこと、誰にも言えない。
このことは、いったい誰のせい?
決まってる。直希が産まれて以来、私は邪魔者になったから。私は要らなくなったから。両親にとって。間違いなく、これは親のせいだ。
あの毒親め。
私は親ガチャという言葉を知っている。親は自分では選べない。だからガチャガチャと一緒だっていうこと。私はハズレを引いてしまったんだ。私は親ガチャに外れた。
いや、逆にいえば、親からすれば子ガチャに外れたということ。子供は自分では選べない。私みたいな、まだ子供の直希よりも要らないこんな奴が、小学生の直希より劣る中学生があなたの子供で、申し訳ない。私は、要らない存在だ。
だったら、美しい唇を取り戻すしかない。今までのことをなかったことにして、そうすれば、私はきっと要る人間になれるから。
誰か、お願いします。私に、綺麗な唇をください。
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