第一幕

第一場

 俺はあの日から、俳優を志した。いつかは俺が、舞台の上から、客席を寒くしたいと思った。

 俳優という仕事について、あの日以前の俺は勘違いしていたと思う。ただ単に、フィクションなら架空の、ノンフィクションなら実在の人物になりきって見せるだけ。そうじゃない。本を読み解く読解力や身体の使い方など、技術を持たない者には務まらない。頭の使い方も声の出し方も動き方も、何もかもを全ての役に合わせてつくっていく。文字だけのヒントしかない人間を自分にする。あたかもその人間が存在しているように見えて、伝わってくるものがあると、観客の心は動く。

 コンコンコン、と楽屋の扉がノックされて「はい」と返すと、椿が入ってきた。

「おっす、ヘンリー!」

「いよいよ初日だな。」

「そうね、緊張してる?」

「まあ、少し。」

「してねえよって言わないんだ。」

「俺も年取ったんだよ。」

「もうずいぶん経つもんね。お客さんの中で私と晶の再共演が目当ての人いるかな?」

「あんな昔の映画を知ってる人なんてマニアだけだ。舞台の固定ファンと各キャストのファン、あとはこの作品だから観に来たってところだろ。」

「"雨街"でヒロインを演じた椿深冬って結構言われたことあったよ?」

「俺はなかった。演技も心構えも良くなかった。」

「演技はともかく優しかったって。ま、昔話がしたいんじゃなくてさ、」

 微妙な褒め方だが、嬉しいものは嬉しい。

「千晴から連絡来てて、福岡公演なら来れるってさ。せっかくだし終わったらどこか食べに行かない?」

「ああ、分かった。」

「あと、今日この後ご飯どう? ルーシーと行くつもりで予約してあったんだけど、別件入っちゃったらしくて。」

「ふ、二人?」

「そう。」

「お、おう。」

「じゃ、決まりね。ごめん、ギリギリに押しかけて。この大きなホールの中の全員を惹き込んで、」

「プレッシャーやめろ、余計胃が痛くなる。」

「なんでそんなに緊張するのよ。舞台経験豊富なのに。」

「お前がリラックスしすぎなんだよ。」

 衣装もメイクもまるで違うのに、椿が役に入れば何をやってもしっくりくる。かつてのセーラー服も、十八世紀のロンドンの女性も。ただ、なぜかいつも「ヘンリー、苦しかったね。」だけはエマではなく椿に言われている気がする。それは椿が演じているからであろうか。青ではなく純白を着ているからであろうか。

 出演者は揃っているが、第一場面の途中から主要な人物は登場する。最初はヘンリー、つまり俺。ライトで照らされて熱いステージでは、理事たちが怒りを含めた口調で議論している。ああ、いよいよだ。観に来てくださった全てのお客様を、物語の中へといざなおう。

 舞台へ一歩踏み込んだ。いつものように、この眩しいくらいの明るさは、アドレナリンを分泌させる。薬の人体実験をする許可を求める。

 病院の理事会では散々ディスられ、父についても滅茶苦茶に言ってやがる。しかし、ここはヘンリーではなく、あくまでもジキル博士として俺は振る舞う。父のために、さらには未来の患者のために有用な研究を認めないくせに、理想論ばかりを掲げる偽善者たち。こんな奴ら、ゴミクズだ。ゴミクズは捨てられて然るべき。彼らへの激しくて醜い憎悪はひた隠しにして、でもエマと一緒にいる時は癒されて落ち着く。エマは一途に信じてくれる。そうだ、君がいれば何も怖くないんだ。君が好きだ、僕は君を愛している。君は僕の希望だ。


 友人のジョンと共に夜の街へ。理事たちへの愚痴をぶち撒ける。そんなところに娼婦のルーシーがやってきて、俺を誘惑する。この娘はどこか空虚で、欠けているものは大きくて、いつも満たされていない。それでも男を相手に稼いでいるのだから、ぽっかりと開いた大きな穴を隠して生活しているということのはず。隠しているという意味では、俺とどこか似ているのかもしれない。

「自分で(私を)試してみれば?」

「そうだな……

 そうか! 自分で試せばいいんだ! 恩に着るよ、ルーシー。」

 闇を抜け、今こそ、光目指し歩き出そう。

 これまでの毎日は無駄ではない。

 迷いはない。

 今夜こそ、今こそ、運命が動き出す時。

 積み上げた全てが報われる今、一つになる──



 ヘンリーが歌っているはずなのに、私はエマなのに、婚約者を、応援できない──



 今こそ、二度とない、果てしない時だ。

 今こそ、見果てぬ夢、手に入れる時だ。

 この胸、この命が、生きる意味を見つけた。生きる意味を。

 今こそ最後だぞ。運命の試練。

 振り返ることはもはやない。

 この日を忘れないぞ。

 この時に全て賭け、素晴らしい時へ──



 違う。全然違う。振り返っていい。全てなんて賭けなくていいし、生きる意味なんて不変じゃないし、今が最後なんかじゃない──



 神よ、今がその時。

 力与えて、導きたまえ!

「生きるぞ、永遠に。悪魔を従え、世界に見せつけてやるぞ。覚えてろ。俺の名は、エドワード・ハイド──



 あなたは部屋で何をしているの。どうして何も言ってくれないの。

「『愛に抱かれた二人の世界、あれは夢。』」

 かつては私が、あなたの瞳の中にいたのに。あの頃のことは、全部夢なのかもしれない。でも私は、あなたを愛している。それは簡単には変わらなくて、確実なこと。あなたは私の、特別な人なの、だから。

「『すべて許すわ。』」

 あなただから許せるのよ。

「『生きがいそこにある、その目に。』」

 何があろうと、すべて受け入れる。覚悟はできてるわ。


 殺される役で参加した作品ですら、ここまで苦しくなることはなかった。「雨が降れば街は輝く」はかなりこたえた作品だったけど、抱えたものが大きすぎたけど、それでもここまでじゃなかった。和凛は大切な美和ちゃんを騙って、大切な人たちを守っていただけ。和凛は美和ちゃんになるために、自分を押し殺していたけど、もう嫌になって、そこで晶が背中を押してくれて、前へ進んで見つけた純粋な人間愛。"君"を、晶は教えてくれたね。

 二つの名前があることは同じだけど、別人が自分の体の中にいるということとは違う、でも共通している部分はあるはず。二つの名前で生きることは、一人分の体で二人分生きることなのかもしれないって思うから。夏目愛実だって、かつてこの体の中にいたんだよ。


 ああ、エマ・カルーの心を椿深冬が侵食しているのは明らかだから、何としても追い出さなければ。私はエマだから大丈夫、問題なのは最後だけ、のはず。


 ずっと飼われていた私に新たな世界を教えてくれたのは、あなただった。

 憧憬のせいでずいぶん苦しい思いもしたけど、今は「あなたのおかげ」って、胸を張って言えるよ。

 この感情こそが、愛、だよね?


 理事たちは何人も殺された。ルーシーも血塗れになって、今にも死んでしまう。あの子と私は全く違って、正反対なくらい。でも、ヘンリーの燃え盛る心に暖められたことは、きっと同じよね。

 舞台では一つの体の中で二人が対決していて、スポットが当たっている上に観客の視線も集中する。さぞ苦しいだろう。一人で考えるだけでも気が滅入りそうな、いや、気が滅入る内容で、骨肉の争いを繰り広げている。体は確かに一つ、でもそこには確かに二人いた。片方の中からもう片方が出てきたって、私はわかってる。理事たちを心から嫌っていたことくらい、言われなくても知ってたから、察することくらいできる。二人とも、私が愛する人だってことよ。私は"あなた"を愛しているわ。


 今も生きている者は、エマとジョンくらい。私を生き延びさせるために、あなたはジョンに自分を撃たせる。ジョンは大きな傷を抱えて生きてゆかなければならないだろうし、あなたは今にも息絶えそう。結婚相手として、私は自信を持ってあなたを選んだ。エマ・カルーは北極星よ。いつだって私はあなたの希望の星であり、年中夜空で輝くから、私はずっとあなたのそばにいる。

 純愛ものと言ってもいいかもしれない、そんな物語の結末は、今ここで迎える。私の言葉で幕を閉じる。

 息は止まっても、一番最後まで、聴覚は機能するらしい。声ならまだ伝わる。

 ねえ、きこえているんでしょ?

「苦しかったよね。」

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