群青頌歌
紫田 夏来
序幕
黙劇
あの日は季節外れに寒かった。北風の音と役者たちの歌声が織り成すハーモニーは、まるでひとつの狂詩曲のようだった。
俺は音楽が嫌いだった、はずだった。
オーケストラと俳優の歌声をいっぺんに聴くことができる機会は滅多にない。少なくとも、俺は15年前が初めてだった。ストリングス、金管、木管、打楽器、そして歌声。最高だった。音のシャワーの雫たち、それは力強く、そして老いぼれた父を元の父に戻したいという想いや苦しみを、現していた。すべてが初めて体験するもので、俺は、音楽を聴いているというより、演劇を鑑賞しているというより、浴びているような感覚に襲われた。それだけではない。寒気を感じた。普通は感動したら暑くなるものだろうと俺は考えていたが、それすら通り越すと寒くなるのか、と思った。
ジキル博士は、父のため、人間の心に潜む善悪2つの人格について研究し、完全な善意をもってすれば完全なる悪意を消し去ることができるという研究成果を得た。そして、善意と悪意を分離する薬を創り出す。その薬の人体実験をしようと、とある病院の理事会に出席したが、理事たちはこれを却下。失意のジキルを励まそうと、ジキルの友人であるアターソンは夜の街へジキルを連れ出す。そこで、ジキルは、エマという婚約者がいながらにして、娼婦のルーシー・ハリスと知り合った。
ルーシーはジキルに甘く囁いた。「自分で試してみれば?」と。ルーシーにとって、この発言は下ネタ的な意味合いが強いのであろうが、ジキルはその言葉からひらめいた。薬を自分で試そう。ここで、ジキルは歌う。男性ならではの奥深い声。決意を高らかに歌い上げる声。
そしてジキルは研究室に戻り、薬を一気に飲み込む。すると間もなく、体に異変が起こった。彼の悪意の化身、エドワード・ハイドの出現だった。
ハイドは、人体実験を許さなかった病院の理事会のメンバーを次々と手にかけていく。そしてその後、大切なルーシーをも死なせてしまった。ジキルは、ハイドを制御できなくなってきていることを感じていた。
ハイドは、ジキルの悪意の化身ではなく、元気な父を失い、実験に身を捧げ、婚約者エマとの幸せな生活をも失ったジキルの、自分を制御することができず、ハイドとして次々と人を殺してしまう、人を愛すことができなくなった悲しみの化身のような気がした。兎にも角にも、苦しい場面ばかりだった。
やがて、ジキルはエマとの結婚式を迎える。その幸せの象徴のような場でも、ハイドは現れた。また人を殺そうとするハイドを止めるため、アターソンはジキル/ハイドを銃撃する。撃たれたジキル/ハイドは、エマの腕の中で最期を迎えた。その時、エマは言った。
「ヘンリー、苦しかったね」
本当なら、エマと幸せになるはずだった。エマと素敵な家庭を築き、研究を役立てて父を救うはずだった。しかし、父を救うために始まった人間の善悪の研究は、皮肉にもその幸せを奪った。俺は、どうしようもない絶望を感じた。エマの優しさに、人間の愛を見出すとともに。これは、愛と絶望の物語だ。
あの舞台に立っていた者はみな、芸術家だ。アーティストだ。コンサートマスターレベルのヴァイオリニストさながら、卓越した技術を持つ。自分もラプソディを奏でられたら……なんて素晴らしいんだ! 存在しない人間も、あたかもその人間が存在しているように見えれば、その人間から伝わってくるものがあれば、観衆の心は、いいや、たとえ作り話でも出来事をその目で見ているから、目撃者だ。目撃者の心は動く。舞台の上に立てば、誰だっていい、俺なんかでも、感動を奏でることができるんだ。このステージの上で、俺も、やってやるよ。
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