第1章 麒麟の透明人間(29)
「どうなってる?!あたしのイメージが不完全だった?めちゃくちゃ過ぎたか?!?てかなんでその子が見えてんだ!?」
肩を並べ共に逃げる綾多華は、今この瞬間に生まれた疑問を全てぶつけてきた。とはいえどの問いに対しても与謝は答えをお持ち合わせていないのが現状であった。
「てかおい、お前その足元どうなってる?!」
綾多華の声を聞いて与謝は自分の足元に視線を落とすと、そこには驚きの光景が広がっていた。
与謝の足元を中心に半径30センチほどの地面が、透けて見えていたのだ。その穴から見上げるような生徒たちの顔が見える。与謝が触れた扉が透明に見えたように。
「な、なんだ?!どうなってんの?!」
初めて目にした透明化の現象に、与謝は興奮を隠せなかった。しかし、すぐに抱きかかえている美優のことが頭をよぎった。透明になっているものが与謝自身には見えないというのが、これまでの常だったはずだ。ところが今は、どういうわけか自分の足元が透明になってしまっている。一方で、与謝に触れている美優は透明化していない。やはり、これまでは成り立っていたルールが破綻してきているようだ。
「やべ!」
階段を降りようとした矢先、下からさらなる追っ手が迫ってきているのが見えた。
与謝たちは方向を変え、3階へと向かって足を進めた。与謝の足が階段を駆け上がるたびに、踏んだ段が次々と透明に変わっていく。綾多華はちらりと横目でそれを見つめた。
「…このまま3階の渡り廊下まで行くぞ!」
言われるがままに与謝は綾多華の後ろについて階段を駆け上がった。
3階の廊下に到着すると、2人は全速力で走り出し、背後から迫る追手の足音を振り切ろうとした。必死の走りで距離を稼ぎ、3階渡り廊下の中ほどまでたどり着くことはできた。
しかし、佐原の手下たちは反対側からも回り込んできていた。
「…賭けるしかなさそうだ」
綾多華は足を止めて迫りくる佐原たちの方を見た。
「はぁはぁ、賭けるって、何にだ?」
息を切らしながら与謝は尋ねた。
「お前の力でここ一帯、渡り廊下全部透明にしてくれ」
綾多華からの唐突の指示に与謝は困惑の声を上げる。
「無理に決まってんだろ!」
「どうして!さっき地面消してただろ?!」
「俺の意思じゃない勝手に消えたんだ!」
「ここが全部透明になったら追ってきてるやつらも正気ではいられねぇはずだ!高所恐怖症なら尚更な!最悪あたしが高さ1万kmくらいにかかってるつり橋からの眺めに書き換えてやる!だから消せ!」
「そんなつり橋ないだろ!てかそもそもそんなんできねぇんだって!」
そんな話をしているうちにも、両サイドから迫りくる佐原たちの足音は大きくなってきていた。
「だー!じゃああたしもやる!」
焦った綾多華は地面に手をついた。
「あたしもやるから、お前も死ぬ気でやれ!」
「本当、無茶苦茶すぎんだろ!」
与謝も美優を下ろし、綾多華と同じように地面に手をついた。しかし、手をつくだけでは床は透明にならなかった。
ふと気づくと、与謝の足元も透明ではなくなっている。自分の力がバグってしまったのだろうか。それとも、透明化の力そのものが消えてしまったのか。
隣にいる綾多華の必死の表情を見ていると、そんなことを考えている余裕はない。何としてでも、この床を透明化させなければ状況を打開することはできないのだ。
地面に手をつき、2人は1体となって力強く「消えろ!」と叫んだ。その声はまるで響き渡るような魔法の言葉のように、空気を震わせ、渡り廊下一帯に響き渡った。
一瞬の出来事であった。
渡り廊下一帯が急に光り輝き、そこにいる者たちの視界を覆った。
消えろという2人の掛け声とともに、まるで魔法がかかったかのように、渡り廊下は一瞬で姿を変え、彼らを未知の世界へと連れ去っていった。
光り輝く山々の景色、清らかな空気、そして爽やかな風の音だけが聞こえる静寂の中に佇む2人。驚きと興奮が彼らの心を包み込む中、未知の山々の光景だけが情報として与えられていた。目に見えるものはそれだけ。どこかの山奥なのは間違いない。しかし一切見覚えのないその景色に、与謝はただただ困惑していた。
「……え?」
驚くべきことは、目の前の光景だけではなかった。その光景を眺め、与謝は小さく声を漏らした。
与謝たちは一瞬のうちに、何百メートルもの高さにある空に放り出されていたのだ。
足が地面についている感覚から透明化、あるいは書き換えの力でこうなっていることはわかるが、巻き込まれている佐原の手下たちはまるで無重力の中で宙に放り出されたような絶望感を感じていることだろう。
正面を向くと、彼らの何人かはその光景に足を震わせ、気絶して倒れているものも奥に見えた。
「な、なんだ、これは…」
足を震わせながらも、佐原はその状況に耐えていた。彼らは虚空に浮かぶような状態で、今にも身体が自由落下していくような恐怖に怯えている。
「どうなってんだこれ…」
綾多華は目を見開いて、その光景を見つめていた。ただただその光景に圧倒されていた。
「これ、綾多華が書き換えたんじゃないのか?!」
「急にこんな幻想的な世界思い浮かべるかよ!お前の力じゃないのか?!」
「俺にこんな力ないって!たぶん!」
宙に浮きながら2人は言い争いを繰り広げていた。透明化ができないという不具合に加えて、あらゆる能力がオーバーフローしてしまっているのかもしれない。ここに至って、透明化の力が制御不能になってしまったことに2人は混乱していた。
佐原は戸惑いながらも、自分の足元にある確かな感覚を確かめていた。踏みしめている感触はある。何がどうなっているのかわからないが、地面は間違いなく存在する。であれば、この景色は何かしら特殊な映像のようなものだろう。まさか現実とは考えられない。峯という生徒の評判は知っている。きっと廊下に何らかの仕掛けを施していたに違いない。
佐原は目の前の状況をそう整理して自分を納得させた。そして意を決して地面を力強く蹴り、綾多華たちに向かって走り出した。
「な!あいつ来やがった!」
「守れ!」
与謝は美優の前に立ち塞がり、綾多華は佐原の姿を目で捉えながらぎゅっと美優の体を抱きしめた。
突如、龍の雄たけびのような轟音が響き渡った。
その咆哮はまるで自然の力が覚醒したかような威厳に満ちており、そこにいる者たちの間に恐れと驚きが広がった。
そしてもう一度聞こえてきた咆哮、その余韻がまだ残る中、急に大風が与謝たちを襲った。
その風はまるで自然の怒りや期待が凝縮され、一瞬にして空気が生き生きと躍動し始めたのを感じた。
その風と共に現れた偉大なる存在の姿に、そこにいるものたちは皆心を奪われていた。
美しい毛並みは金色に輝き、風になびく度にその輝きが空気中にキラキラと広がる。
その存在の偉大さを表しているかのような立派な角は太陽の光を受けてまばゆく輝いており、まるで自然の中で生きる生命の象徴そのものであるかのようであった。
「……麒麟だ」
綾多華はぼそっと、そう呟いた。
優しい風はその生物の美しい毛を撫で、キラキラと輝く微粒子が宙を舞うような様子は、まるで奇跡の一瞬のように感じられた。
麒麟が、来た。
「…麒麟が来た!」
綾多華の喜びの声が合図となり、麒麟はその喜びの感情に応えるかのように、勢いよく駆け出した。空を駆ける足跡はまるで舞台を飾る花弁のように美しく残されていた。
天翔ける麒麟は佐原の手下たちに向かって走り出した。その美しい体が一瞬にして迫り来る姿は、それだけで自然そのものの力が激しく奮い立ち襲い掛かかってきたかのように思われ、ある者は大嵐に襲われたかのように、ある者は雪崩に襲われたかのような錯覚を覚えた。それは錯覚だったのか、実際に目の前で起きたのか。真実は定かではないが、それを見たものたちは次々に倒れていった。
「何が、どうなっている...!」
次々と倒れていく中でただ1人、佐原だけは麒麟の奇跡に抗い意識を保っていた。宙に漂う麒麟の姿をキッとにらみつけ、膝を震わせながらもなんとか倒れることなく立ち続けていた。
その佐原に向かって、キラリと輝く赤髪を揺らし宙を駆けていく女子生徒の姿は、まるで小さな麒麟かのようであった。
「さっきのリベンジだ。あたしの世界を食らいな!」
その言葉を合図に、共に駆けていった与謝は佐原の目の前におなじみの段ボールを差し向けた。
「コント、くしゃみで全てを破壊するおっさん!」
綾多華の宣言と同時に、与謝の掲げた段ボールはどこかの電車の中の光景を映し出して佐原を飲み込んだ。
特別などこかというわけではない。
席は埋まっているが特に混んでいる様子もなく、いたって普通の電車の風景。
土曜日の午前10時、出かけるには少し早めの上野駅周辺を通る電車の中の光景といったところだろうか。
座席に座る人々は、本を読んだり、音楽を聴いたり、窓外の景色を見つめながらほんのりと微笑んでいる。
もしこの光景をゴッホが描いたら、平和とタイトルをつけるであろう。ゴヤが描いても、マグリットが描いても、同様に平和と名付けるだろう。
モネなら、水面とでも呼ぶかもしれない。
揺れる電車の中で、人々は疲れを癒やし、日常の喧騒から解放されたひとときを楽しみ、それぞれの心には、思い出深い風景や大切な人への思いが広がっていた。この光景が永遠と続けばよいと、その場にいる者たち皆がそう願っていた。佐原でさえもその光景に心奪われ、そう願っていた。
その光景は1人の無神経な男によって全て破壊された。
爆発音だろうか、衝突音だろうか、その男性の口辺りから聞こえてきたとても口から出たとは思えない音の暴力は波動となって電車内を破壊し、その場にいる者たちの美しき心を鼻水で覆った。
その爆裂の波動は佐原に重く襲い掛かり、その重い体を吹っ飛ばした。そのまま後ろに倒れ頭を打ち、あの遠く儚い幻想郷に思いはせながら気を失った。
気絶した佐原の姿を見て、綾多華はふふんと得意げに鼻を鳴らした後、静かに拳を与謝の方に向けた。
その手に与謝は軽く自分の拳を合わせ「割と、嫌いじゃない」と、コントの感想を述べた。
上機嫌に腕を組み、綾多華は倒れる佐原を見下ろした。
そしてすぐ振り向いて麒麟の姿を再度仰ぎ見ようと試みたが、既に麒麟の姿はなくなっていた。渡り廊下も元に戻り、立ちすくんでいた美優はペタリと、腰を抜かしたように地面に座り込んだ。
「…麒麟はいたろ?」
「…ああ」
綾多華は再度拳を握り、お疲れ様の意味も込めて軽く与謝の肩を小突いた。
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