第1章 麒麟の透明人間(28)

「あそこの窓から入ってきたんだけど、多分上るのは難しいよね?」

 与謝は、自分が入ってきた窓の方向を指差した。しかし、透明な指では何も伝わらないことに気づき、「あの、壁際左上にある小窓みたいなやつ」と言葉を添えた。


「た、たぶん…」

 美優は小窓を見上げて小さく呟く。


「…早く逃げないと外にいる奴らが動き出すかもしれない。それまでになんとかしないと…」


 与謝はそう考えながら、ふと一つの策を思いついた。


 こちらから堂々と扉を開けて抜け出すのは、彼らが正面で待機している以上難しいだろう。


 であれば、彼女を透明化させた状態で、逆に彼らに扉を開けさせてしまえばいいのではないか。


 扉を開けて向田美優の姿がなければ、彼らは行方をくらました彼女を探すために慌てて中に入ってくるはずだ。その隙を突いて後ろから抜け出せば、誰にも気づかれずに脱出できるかもしれない。与謝はその考えを伝えるため美優の方を向いた。


「…ちょっと考えがある。よくわからない状況になるとは思うんだけど、俺を信じて、絶対に声を出さずじっとしててほしい」

 美優は与謝の指示を聞いてゆっくりと頷いた。


 与謝は美優が寄りかかっていた壁側に付いている窓を開け放つと、外の風が英語準備室に吹き込み、カーテンが大きく揺れ動いた。そして美優の手を取って立ち上がらせ、入り口付近の物陰へと移動する。


 一瞬だけ美優の手を離した与謝は、近くにあった段ボール箱を手に取り、開け放たれた窓のある壁側めがけて投げつけた。箱の中にはガラス製の物も入っていたらしく、壁に当たった後地面に叩きつけられた瞬間、大きな音を立てて粉々に砕け散った。


 急いで与謝は美優の腕を掴んで透明化し、息を潜めて部屋の入り口付近の片隅から様子を窺った。


 英語準備室内で発生した大きな物音に釣られ、佐原たちが扉を開けて中に入ってくる。そこにいるはずだった美優の姿がないこと、そして窓が開け放たれている状況を目の当たりにし、彼らの顔色がみるみる青ざめていった。


「まさか…!」

 佐原たちは窓まで駆け寄り、窓の外、地面を確認した。飛び降りても死ぬほどの高さではないが、下には向田美優らしき人物の姿は見当たらなかった。

 どこからどう逃げだのかわからず、佐原は混乱し状況が掴めずにいた。


 与謝と美優は窓に駆け寄る男たちの背中を眺めながら、開け放たれた扉の方をちらりと横目で見やった。逃げ出すチャンスは今しかない。緊張しつつも、二人は一歩を踏み出した。慎重に、音を立てないようゆっくりと扉に向かって足を進める。引きずる足に埃が付きまとうが、その埃すら落ちないほどの慎重さで歩みを進めていく。


 音を立てずに扉までたどり着いた、そのときだった。


 全員が部屋に入ったものと思っていたが、外にまだ見張りの生徒が残っていたのだ。その生徒が、ちょうど同じタイミングで部屋に入ろうと動き出していた。まさに与謝たちとぶつかるようなタイミングだった。


 部屋の中の危険ばかりに意識が向いていた与謝は、外にも脅威が潜んでいることに全く気づいていなかった。中に入ろうとしていた生徒と、正面からまともにぶつかってしまった。


「いった!」

 ぶつかられた生徒は大きな声を上げ、勢いよく後ろに吹き飛ばされて尻もちをついた。


 その声に反応し、部屋の中にいた佐原たちが振り向いて扉の方を見やる。


 彼らの視線を恐れるように、美優はぎゅっと与謝の腕を握りしめた。与謝もそれを感じ取り、小さく彼女を自分の体の方に引き寄せる。


 与謝たちの姿は見えていないはずだった。しかし、どことなく彼らの視線は倒れた生徒ではなく、美優の方に向けられているような気がしてならなかった。与謝に触れ、透明になっているはずの彼女の姿に、彼らの目が釘付けになっているかのようだった。


「…どこに行くつもりだ、女」

 佐原は美優に向けてはっきりとそう告げた。美優は怯え、さらに強く与謝にしがみ付いた。


「どうやって拘束を解いたんだ?」

 倉田は疑わしげな目で、美優の方をじっと観察した。彼女の腕と足につけられていた拘束具が、見事に外されていた。


「何か上で動きがあった、ということか…」


 与謝は慌てて美優を自分の後ろに隠す。しかしそれは何の意味も持たない。透明化されるのであれば別だが、今はその恩恵もない。


 まただ、一体どうしたというのか。透明化が上手くいかないのは警備室の時もあった。あの時と同じだ。確かに美優は与謝に触れているのに、透明化されずその姿がはっきりと見えてしまっている。ルールの分からない力の暴走に、与謝の頭は混乱を極めていた。


 しかし、その謎を解き明かす時間も余裕も、今はない。透明化して静かに抜け出すつもりが、そうもいかなくなってしまった。だが、そんな状態になってしまったとしても、逃げるチャンスは今しかないのだ。


 与謝は近くにあったテーブルを佐原たちに向かって蹴飛ばし、部屋の中をめちゃくちゃにして足止めを図った。そして美優の腕を掴むと、部屋から飛び出した。混乱して目の前で倒れている生徒を飛び越え、渡り廊下の方へ全速力で走り出した。


「待て!」

 佐原は叫びながら目の前の障害物をどけて進路を作り出す。


「なんか、失敗したっぽい!」

 与謝は美優の手を掴みながら必死に逃げる。

 後ろについてくる美優も必死に走っているが、透明人間に引っ張られながら走ることは難しく、足を縺れさせて倒れてしまった。


「ごめん、大丈夫?!」

 美優は足を抑えて痛みに顔をゆがませている。ここで止まれば必ず佐原達に捕まってしまう。しかし進行方向、渡り廊下の方からいくつもの足音が聞こえてきた。視線をそちらに移すと、金髪の警備員・陣内に率いられた5,6人のガラの悪い生徒が行く手を阻んでいた。


「逃がさないよーん」

 陣内は舌なめずりをしながら美優にじりじりと迫る。


「こいつ捕まえれば三原さんがボーナスくれるってよー」と陣内は後ろの生徒たちを雑に煽った。それを聞いて彼らもやる気を見せる。


 三原が今屋上でどうなっているかも知らず、陣内は適当な言葉で生徒を操っている。いや、もしかすると陣内は知っているのかもしれない。知っていながらわざとその情報を伏せて、三原に買収されている生徒たちのやる気を維持している。そう考えると、下品な笑みを浮かべる陣内の顔も、狡猾な蛇のように見えてくる。


 進路を阻むように立ちはだかる彼らの顔には、冷酷な微笑みが浮かんでいる。その姿を目にした美優は、心の中に恐怖が広がっていくのを感じ、まるで足元がすくんでいくような感覚に襲われた。


「大丈夫だ。絶対、助けるから」

 与謝は美優の手をしっかりと握り、彼女を励まそうとした。しかし、行く手を阻む彼らから不快な声が響き渡る。


「そんな足でどこ逃げようってのよ」

 冷たく、与謝の励ましを打ち消すような言葉が彼らの口から発せられた。与謝は庇うように彼女の前に立ちふさがった。


 もう一つ、急速に近づいてくる足音が聞こえてきた。渡り廊下を駆けてくるその音は、まるで救世主の到来を告げるようであった。

 次の瞬間、強烈な蹴りの音が轟いた。廊下中に響き渡る衝撃音とともに、蹴り飛ばされた陣内は、まるで空中を舞うかのように吹き飛ばされた。そして陣内と入れ替わるように、白髪の男子生徒が姿を現したのだった。


「あ、お前は!」

 与謝はその生徒の姿に見覚えがあった。演劇部の部室で寝ていた白髪の生徒だ。綾多華によれば、長らく起きているところを見たことがないというが、今はこんなに活発に動き回っているではないか。その事実に、与謝の頭の中に一瞬疑問符が浮かんだ。


 白髪の生徒は美優の前に立ちはだかると、さっさと行けと手で促した。


 状況の理解が追いつかないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。与謝は美優を抱きかかえると、そのまま反対方向に走り出した。


 英語準備室からの脱出を最優先に考えていたため、その後どこに向かうべきかまでは考えが及んでいなかった。


 自分は透明人間なのだ。触れたものも透明にできるのだから、抜け出すことも隠れることも簡単だろうと思い込んでいた。だからこそ、その先のことなど考えていなかったのだ。しかし、こうなった以上、足を止めるわけにはいかない。


 与謝が英語準備室を通り過ぎた直後、ようやく中の障害物を片付けた佐原たちが、美優を追いかけるために飛び出してきた。


「やべ!もう出てきた!」

 与謝は肩越しに佐原たちの様子を確認し、さらに全力で走り続けた。しかし、美優を抱きかかえながら走る与謝の足取りは重く、背後から聞こえる足音は徐々に近づいてくる。背中に突き刺さるような冷たい視線が、刻一刻と迫ってくるのを感じた。このままでは追いつかれてしまう。どこか撒けるような場所はないものか。そう考えていたその時、正面から突然、風を切るような音が聞こえてきた。


 一体何事かと前を向いた次の瞬間、与謝の目に飛び込んできたのは、宙を舞いながら飛んでくる段ボールの紙であった。


「受け取れ!やることはわかんだろ!」

 美優を下ろすのと同時に、与謝は何とか飛んできた段ボールを受け取った。


 その声を聞いた瞬間、与謝は全てを察した。


 VRヘッドセットが描かれたその段ボールの紙を手に持ち、振り向いて佐原たちの方に向けた。


「アホ共のオーケストラでも楽しみな!潰れやがれ耳!」


 後ろから聞こえてきた綾多華の声とともに、与謝が掲げた段ボールの表面はその姿を変え始め、やがてコンサートホールの一角を映し出すモニターへと変貌を遂げた。


 突如目の前に現れた謎の光景に、佐原たちは足を止めた。


 しかし映されたコンサートホールの光景は次第に歪んでいき、どんどん現実のものとはかけ離れていった。


 幼稚園児の書いたへたくそな落書き。まさにそんな歪んだ線で作り出されたような光景へと変貌してしまった。奏でられたオーケストラの音色も、初めて楽器を触った赤子が出したかのような珍妙な音を響かせ、聴くものをただただ困惑させるだけであった。


 綾多華のイメージは単純で『アホが演奏するオーケストラ』というものであった。聞く人のことなど一切考えていない爆音で繰り広げられるアホオーケストラ。その爆音で佐原達をひるませるつもりであった。


「…なにこれ?」

 与謝は小さく声を漏らした。一体、何が起こったのだろう。


 微妙な空気が漂う中、佐原は戸惑いながらも一歩足を踏み出した。それを合図とばかりに、彼らは一斉に美優に向かって駆け出してきた。


「…逃げるぞ!」

 綾多華はその場しのぎのため、どこに持ち合わせていたのか目の前に大量のねずみ花火をばらまいた。すぐに火が付いて暴れまわるネズミ花火は佐原達を驚かせその足を止めさせた。

 その隙に与謝は再び美優を抱えて走り始めた。

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