第1章 麒麟の透明人間(27)

「…静かに。冷静に聞いてほしい」


 どんなに優しい声色で話しかけたとしても、唐突に何もないところから声が聞こえてきたら驚くのが当然だった。

「ひっ!」と向田美優は小さな悲鳴を漏らした。その声に与謝は慌てて、彼女の口元をテープ越しに手で塞いだ。


「ごめん!そりゃそうだ!ごめん!でも落ち着いてくれ!お願い!ごめん!」

 与謝は小声で必死に美優を説得する。

 しかし、目に見えない手に口を塞がれたことで、美優はさらに恐怖に襲われ、声にならない悲鳴を上げながら暴れ始めた。


「君を助けに来た!助けに来たんだ!もちろん、信じるのは難しいと思う。そりゃ俺こんな感じだし、たぶんめっちゃ怖い存在のはずだ。今の君にとって、めちゃめちゃ怖い存在だと思うけど、信じてほしい。俺は君を助けに来たんだ」


 与謝の必死の説得が功を奏したのか、美優は怯えながらも声を上げるのをやめた。


 しかし、両目から溢れ出た大粒の涙を見て、与謝は彼女の恐怖が消え去ってはいないことを悟った。落ち着いたのではなく、もはや諦めてしまったというのが正しいのだろう。


 佐原に誘拐された時から、向田美優は様々な最悪の事態を覚悟していたに違いない。もうどうにでもなれと、全てを諦めてしまったのかもしれない。だからこそ、もう誰が、何が来ようとも抵抗する気力は失せ、自分の運命を受け入れるしかないと思い込んでしまったのかもしれない。そんな彼女の姿を目の当たりにし、与謝の胸は痛んだ。

 その恐怖の一端を自分が担ってしまっていることが、申し訳なかった。


 自分がどう思われるかなどどうでもよかった。怖がって泣き叫ばれたとしても、どんなアホなことをしてでもその警戒心を解くつもりでいた。もしこの特異な能力で彼女のふさぎ込んだ気持ちを少しでも晴らすことができるのなら、どんなピエロにでもなる覚悟であった。彼女にどう思われようと、彼女を助けるために自分はここに来たのだから。


 与謝は美優の手足の拘束を解き、そして口に貼られたテープを優しく剥がした。美優は声を発することもなく、ただ虚ろな目で地面を見つめていた。その姿を見て、与謝は彼女に語りかけることにした。今の彼女には、話をして、寄り添うことが必要だと感じたからだ。


 再び彼女が笑顔を取り戻せるように。与謝はそう心に誓い、美優の正面に座ると、優しく話し始めた。


「…俺さ、透明人間なんだ」


 与謝の突拍子もない言葉に、美優は弱々しくも驚きの表情を浮かべた。その反応を見て、与謝は微笑みを浮かべながら話を続けた。


「そりゃ信じてもらえないと思うんだけど、なぁちょっと聞いてくれる?入学式の前日でテンション上がってたところ、どういうわけかいきなり透明人間になっちまったんだ。マジふざけんなよって話だと思わない?」


 笑いながら話す与謝の暖かな雰囲気に釣られるように、強張っていた美優の表情も次第に穏やかになっていった。


「3か月前までは普通の人間だったんだぜ?それがいきなりこれよこれ!見てよ、この体!って見えないか。でこれまた聞いてくださいよ。3か月だよ?ただでさえ透明人間になっちゃったのに、俺3か月遅れで高校に入学だよ?みんなもう友達とかできててコミュニティー完璧に出来上がってるタイミングで初めましてだよ?俺透明人間だよ?めっちゃ厳しくない?」

 与謝は明るく笑いながら話を続けた。そんな与謝を照らすように、窓から夕日の光が差し込み始めた。

「こんなんだからさ、俺も色々辛いなぁって思ってて。この体じゃ、普通の人が簡単にできることすらできやしない。本当、何もできないよ。あいさつすらまともにできない。だから、もう何もかも無理になったんだって、人生を諦めそうになってた」


 与謝は美優と同じ目線で、ここに至るまでの経験を語り始める。


「俺さ、人気者になりたいんだよね。この学校で一番目立つかっこいい人気者に」


 美優は与謝の語った夢を聞いて、パチパチと目を見開いていた。


「俺こんなんだし、夢のまた夢だと思うでしょ?でも、とある人に出会って、自分にしかできないことがあることを知って、やらなきゃいけないことに全力で向き合ってもがいてたら、少しずつ道が開けてきたんだ。まだ本当にちょっとだけどね。でも、こんな俺でも、前を向いて全力で頑張れば希望は見えてくるんだって、今ならそう言えるんだ」


 美優は与謝の言葉に、かすかに頭を上げた。その瞳にはまだ不安ともとれる感情が宿っていた。そんな彼女の様子を見た与謝は、もう一度力強く、それでいて優しく話し始めた。


「俺みたいな透明人間でも、前向いたら希望の光があったんだ。だから君も、絶対に大丈夫。透明人間の俺が保証する。周りの人が君のことをどれだけ好き勝手に言ったとしても、君が困っている人を見過ごせない優しい心を持っていて、輝くような明るい笑顔を見せる女性だってことを俺は知ってる。何があっても、世界中の人が敵になったとしても、俺はそんな君の味方だ。透明で、頼りない、こんな俺で申し訳ないけど」


 与謝は小さく微笑みながらそう告げた。


 その暖かな空気を間近で感じ、美優の脳裏に今朝の出来事が思い浮かんだ。あの時も感じた、暖かな雰囲気であった。


「…もしかして、あなたは今朝、横断歩道で…」

 そして美優の視線は与謝の左手がある辺り、ポツリポツリと地面に垂れ続けている血の方に移った。


「ち、血が……」


「ああ、ごめん。これはなんていうか、ここに来るまでに色々あったんだけど、でも気にしないで、かすり傷程度だから」


 かすり傷程度で流れる血の量ではないことは、普段部活で怪我を目にする機会も多い美優にははっきりとわかっていた。本当に自分を助けるために、こんなに重傷を負ってまで駆けつけてくれたんだということ、それはどんな励ましの言葉よりも美優の心を打ち、固く閉ざされていた心の扉を溶かしていった。


「…向田さんはさ、麒麟って知ってる?」


「…麒麟?」

 美優は小さな声で聴き返した。


「そう。頑張った人の前にだけ姿を現してくれる神様で、麒麟の訪れは、良いことが起きる前触れでもあるんだってさ……ちょっと目を閉じて」


 美優は言われるがままに瞳を閉じた。数秒後、コンコンと床を叩く音が聞こえ、美優はゆっくりと目を開いた。目の前は先ほどと何も変わらない光景、美優は音のした方に目をやった。


 コトンと、美優の目の前の床に、約5センチほどの小さな麒麟のぬいぐるみが姿を現した。


「…あ!麒麟だ!これ、あぁ!麒麟だ!麒麟が来た!」


 与謝の大げさでわざとらしい言葉を聞いて、美優はただ呆然と困惑の表情を浮かべるばかりだった。


「…的な……」


 しばし、部屋に困惑の空気が漂った。


 その空気感に耐えられなかったのか、麒麟のぬいぐるみがコトンと横に倒れた。


 倒れた麒麟を見て、美優は小さく呟いた。


「……首が長い方じゃ、なかったんですね…」


 再び沈黙が流れる中、与謝は慌てて弁明を始めた。


「いやごめん、ごめんていうかなんというか、何て言ったらいいのかわからないんだけど、なんかこう励ましになればなぁと思って、あのー...!」


 与謝の慌てぶりは、姿が見えなくてもはっきりと伝わってきていた。不器用ながらも真っ直ぐな人柄。それは透明であっても透けて見えるようであった。その温かさに触れるたび、美優の心は少しずつ溶けていった。


 美優は自然と頬を緩めて微笑んでいた。そんな彼女の姿を見た与謝は、そっと麒麟のぬいぐるみを美優の手に握らせる。


「……心配しなくても、君は大丈夫だから。この先きっと、たくさんの楽しいことが待ってる。素晴らしい出来事や出会いに溢れてる。だって君の元にはもう、幸運を運ぶ麒麟が来たんだから」

 与謝は更に力強く美優の手をぎゅっと握りしめた。


「一緒に、ここから逃げよう」

 与謝は彼女に力強い眼差しを向けた。


 その瞳は美優には見えてはいなかったが、手を通して伝わる温かさは、しっかりと感じ取ることができた。美優はその思いを受け止め、一度だけコクリと頷くと、与謝の手を力強く握り返した。

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