第1章 麒麟の透明人間(26)
屋上から階段を降り、2階の渡り廊下を駆ける。
校舎を行き来する通路は他にもあるが、中庭を分断するかのように中央に設置されている渡り廊下は2階と3階にあるこの渡り廊下のみとなっている。先ほどまでいた屋上のある校舎とは別棟にあたるこちら側の校舎は、基本的には美術室や化学室など各授業で使用する専用の教室が集まっているようであった。また、職員室がこちら側の校舎1階にあるからなのか、こちら側の校舎のみエレベーターが設置されている。
竹内のスマホにあったチャットからの情報だと、向田美優は放課後に職員室に立ち寄っていたようだ。職員室をあとにし一度教室に向かおうとエレベーターに乗った際に佐原が相乗りしてきた。佐原は後方に構え2階のボタンを押し、着いた直後に背後から向田美優の口を塞ぎ、そのまま人気のない教室に連行した。
与謝は渡り廊下から静かに英語準備室周辺の様子を伺う。するとそこには佐原と倉田、そして数人の生徒の姿があった。全て三原の協力者であろう。別に堂々と正面に立って状況をつぶさに観察しても何も問題はないのだが、まだその勇気がない。そこまで透明な自分に慣れてはいなかった。
バレないよう静かに物陰に隠れながら彼らの様子を伺っていると、英語準備室の近くで佐原と倉田、そして4名ほどの生徒が話をしているのが聞こえてきた。とはいえ大した話ではない、ただの雑談であった。
渡り廊下にいてもその声が聞こえてくるほど、こちら側の校舎は静寂に包まれていた。こちらの校舎に用事のある生徒はこの時間もう少ないようで、彼ら以外に人気はなかった。
しかし、佐原含め彼等は談笑をしながらも周りに常に気を配って注意を怠っていなかった。少し向かいの校舎で誰かの動きがあるだけでそちらに注意が向くほどであった。誰か来たとわかればすぐにアクションを取れるように警戒している。
与謝はゆっくりと中腰の状態で英語準備室に近づいていく。そのまま音を立てずゆっくりと佐原の背後を通り抜け、英語準備室の扉の前に付いた。
そしてゆっくりと音を立てないように扉を開けてみようかと思ったが、もしこの場で触れてしまえば扉が透明化されてしまうことに気づいた。その説明不可能な謎の事象はもしかしたらよい方向に事態を転がすかもしれないが、今この状況で行うべき賭けではない気がした。
与謝は扉に触れるのを止め、その場を見渡した。どこか侵入できる場所はないだろうか。いったん英語準備室から離れ、右隣の教室を確認する。特に何も書かれていない教室であった。
与謝はその教室の扉に触れ、透明となった扉をスライドさせてみる。しかしやはり鍵がかかってたため扉は動かなかった。
扉から少し離れてみると、教室の壁の下部に小さな扉があることに気づいた。地窓だ。ここが開いていれば、潜って中に入れるかもしれない。
与謝はしゃがみ込み、その扉に触れて力を込めてみた。すると、小さなガタリという音とともに扉が左にスライドした。古びているため多少の音は避けられない。与謝は慎重に、できるだけ音を立てないよう注意しながら扉をずらしていった。やがて、人一人が通れるほどのスペースができた。
与謝は匍匐前進で空き教室の中に入っていく。しばらく人の出入りがなかったのだろう。入った瞬間、まるで侵入者を拒むかのように、むせかえりそうなほどの埃が襲ってきた。与謝は必死にむせるのを我慢し、口元を塞ぎながら辺りを見回した。
埃の量からして、かなり散らかっていて足の踏み場もないことを予想していたが、中は意外とすっきりとしていた。雑に使われているというより、本当に誰も使っていない空き部屋なのだろう。
与謝は口元を塞ぎながら室内を探索したが、残念ながら隣の英語準備室につながるドアは見当たらなかった。何か他の方法はないかと視線を巡らせていると、英語準備室と接する壁の上部にある小さな窓が目に入った。換気用なのだろうか、通ってきた地窓と同程度の大きさのガラス窓が部屋の境目に設けられていた。鍵をかける金具もこちら側から開閉可能だった。あそこを通れば、英語準備室に入ることができるはずだ。
与謝は壁に面して置かれたテーブルの上にある物品を横にずらしてスペースを確保し、上に乗っても大丈夫そうな段ボール箱を複数重ねて窓へ至る足場を作り上げた。やや不安定な足場を慎重に登り、バランスを崩さないようゆっくりと立ち上がると、窓越しに英語準備室の様子を窺った。
教室の後方、窓に面した壁にもたれかかるように座らされている向田美優の姿がそこにはあった。
手足は縛られ、口にはガムテープが貼られている。暗い表情で俯いた彼女の目は虚ろで充血しており、頬にはうっすらと涙の跡が残っていた。
与謝はその姿を見て、憤り、自然と拳に力が入っているのが分かった。ある日突然盗撮事件に巻き込まれ、警備員に襲われて拘束される。何も悪くない、何も関係のない彼女にとってそれがどれほどの恐怖だったことだろう。
彼女がここに捕らえられていると分かった時、気づくと既に体が動いていた。居場所がわかったらすぐに駆け出していた。この力は、あの場で誰よりも早くその一歩を踏み出すために与えられたものとすら思えた。もしそうだとすれば、この力は今このためにある。彼女を救い出すこの時のために。
与謝は音を立てないよう細心の注意を払いながら金具を開け、小窓を開けた。わずかに軋む音が漏れたが、外にいる佐原たちに届くほどの大きさではなかった。
しかし、その小さな物音に俯いていた向田美優が反応し、上方の小窓に顔を向けた。その拍子に、左目から一粒の涙がこぼれ落ちる。
与謝は小窓によじ登り、ゆっくりと窓を潜り抜けて英語準備室に侵入した。小窓に手をかけながら、近くの足場に足をかけ、音を立てないよう慎重に降り立つ。
大きな音は立てていないものの、物が消えたり現れたり、何かがごそごそと動いているような気配に、向田美優は身体を強張らせた。
与謝はゆっくりと彼女に近づき、できるだけ優しい声色で話しかけた。怖がらせないよう、精一杯の配慮を込めながら。
「…静かに。冷静に聞いてほしい」
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