第1章 麒麟の透明人間(25)
「全員動くな。一歩でも動けばこの子の首が飛ぶことになる」
亜希は両手を上げてごくりと息を飲む。そして促されるままに、配信を停止させた。
「お前、やめろ!」
海江田は三原を押さえつけながらも竹内に向かって叫んだ。だが竹内は冷ややかな目で海江田を見下ろし、亜希の首元に当てたナイフに力を込めた。鈍い悲鳴が亜希の口から漏れ出る。
「よ、よくやったぞ竹内!さあ!あの女を助けたければ俺を解放しろ!」
絶好の機会とばかりに、三原は声を荒げた。
「ここから逃げてもいずれ捕まるだけだぞ!」
海江田が諭すが、三原は聞く耳を持たない。
「逃げられればなんとでもなる!おい峯!彼女を助けたければ、さっきまでの映像は全て演劇部の練習配信だったとしてなかったことにしろ!」
周囲に緊張が走る中、三原は必死に助かる望みにすがっていた。狂気を帯びた笑みを浮かべ、言葉を紡ぐたびに場の空気が凍りついていく。
「…それはだめだ、あんたを助けるつもりはない。それに、もう用済みだ」
冷たく見下ろしながらあっさりと自分を切り捨てた竹内を見て、三原は呆然としていた。
「な、何言ってんだ、お前」三原は信じられないという表情で竹内を見つめた。
「この学校で自由に動き回れるのがあんたの強みだったのに、こうなっちまったあんたを助ける意味はない。俺らの目的は金稼ぎ、人身売買だ。現役の女子高生、しかも道を踏み外してない真っ当な女子高生は高く売れる。その機会がなくなった今、もうあんたと一緒にいるメリットはない。俺たちだけとんずらさせてもらうよ」竹内は冷酷に言い放つ。
「ふ、ふざけるな!何勝手なことを!おいお前ら!お、俺を助けろよ!」
三原は必死にもがきながら、後ろの仲間たちに助けを求めた。
しかし、彼らの視線は怯えたまま竹内に向けられている。捕まってしまった三原には見向きもせず、逃げ出せる算段がありそうな竹内につき従い、なんとかしてもらおうと必死の形相で目で訴えかけていた。
「わけもわからず金に釣られて。バカの集まりだな」
竹内は小さく呟いたのち、
「そいつはもう終わってるよ。何ももみ消せやしないし、お前らも守ってはくれない。わかったらさっさと逃げな」と不良生徒たちに声をかけた。
その言葉を合図に、怯えた顔をしていた不良生徒たちはそそくさと駆け足で屋上から逃げ出していってしまった。
「お、おい待て!」
海江田の制止の声も虚しく、三原の呼びかけに応じて集まっていた生徒たちは皆、姿を消してしまった。
この現実を、三原は簡単には認められなかった。床に押さえつけられた状態で、奥歯を噛みしめながら竹内を憎々しげに睨みつけている。
「あんたがそうやって捕まってくれてるから、その厄介そうな筋肉男はそこから離れられない。俺が逃げるまで、そこでそいつ抑えといてくださいよ」
竹内は悪意の満ちたさわやかな笑顔を三原に向けた。
三原は顔を真っ赤にし、声にならない声で怒りを訴える。その姿はまるで烈火のように燃え盛る怒りの権化のようであった。
「じゃあ俺は逃げるんで、誰もそこから動くなよ」
そう言い放つと、竹内は亜希を盾にして出口に向けて一歩踏み出した。
だがその時、ナイフを握る腕に違和感を覚える。女子生徒の首元につきつけているナイフが、その場から動かないのだ。まるで磁石が反発するように、引き寄せようとしても元の位置に戻ってしまう。
まるで『何者か』にナイフの刃を掴まれているかのようだった。
竹内はナイフを取り戻そうと、力を込めて引き抜こうとした。すると、赤い血が刃にまとわりつき始めた。ナイフから垂れる大量の血を目にして、亜希の顔は青ざめた。
「…制服に血がついちまうだろ。さっさと引っ込めろ」
与謝はナイフを素手で握りしめ、亜希の喉元から遠ざけた。そして素早く払いのけると、勢いのまま竹内に強烈な蹴りを放ち、亜希から引き剥がした。
竹内の体は宙を舞い、回転しながら地面に叩きつけられる。這い上がろうとした竹内を、斎藤雅人を筆頭とする数名の演劇部男子が一斉に取り押さえ、地面に押し付けた。
「お前、亜希ちゃんによくも!」
「は、離せ!!」
竹内は必死に抵抗を試みたが、文化部とはいえ複数の男子生徒に取り押さえられては、逃れることはできない。激しく身をよじっていた竹内の勢いも、徐々に衰えていった。
「く、くそ…!」
その光景を眺めながら、与謝は次第にズキズキと痛み始めた自分の手を押さえる。
「……いっっっってぇ!」
「無茶し過ぎだ、バカ」
綾多華は与謝に向けてハンカチを投げ渡した。血を拭うのに必要だと思ったからだ。しかし不思議なことに、周囲には血の気配が全く見当たらなかった。
与謝は「めっちゃ血が出てる感触がある」と言っていたが、与謝自身にも自分の血は見えていないようだった。先ほどまで竹内が持っていたナイフの刃からは確かに血が流れていたはずだが、今は床に転がるそのナイフにも血の痕跡は残っていない。一体、何が起こっているというのか。
ここ数分の間には、他にも不可解な出来事があった。三原が殴りかかってきた時、与謝はその拳を受け止めたが、三原の体は透明にはならなかったのだ。本来なら、与謝に触れた人物は透明化されるはずなのに、あの時はそうならなかった。そして今、先ほどまではっきりと見えていた血が、突然見えなくなってしまった。
計り知れない透明人間の力が再び「バグ」を引き起こし始めているのかもしれない。
「…とりあえずそれで縛って止血しとけ」
綾多華はそう忠告したが、どういうわけか与謝からの返答はなかった。
「こっちには、人質がいることを忘れてないか?……」
竹内は抑えつけられながらも、綾多華の方を向いてそう呟いた。
「彼女はどこだ?今どこにいる?!」
綾多華は竹内のもとへ急ぎ、向田美優の居場所を問いただした。
しかし竹内は皮肉げな笑みを浮かべるだけで、彼女のいる場所を明かそうとはしなかった。
「佐原さんは俺のことも信用してやいない。俺がしくじれば置いて逃げる算段でいる。彼女を連れてな」
「そうか。つまり彼女はまだこの学校にいるってことだな」
「だがそれもあと数分ってところだ。もしそれまでに俺が戻らなければ、佐原さんは彼女を連れてこの学校から消える。そのあとはもう、俺すら連絡も取れなくなるだろう」
「さっさと場所を言え」
「言うわけないだろ!彼女が人質である以上まだチャンスはある。彼女の無事を願うなら手当たり次第に探し回るのはやめときな。変な動きがあれば、彼女がただでは済まないからな!なによりお前らにはそんなことしてる時間もない!ゲームオーバーだ!」
綾多華は勝ち誇った笑顔を浮かべる竹内の頬を掴み、グッと顔を引き寄せた。
「……言いたいことはそれだけか」
「ああ。残念だったな。あの子の人生は、もう終わってんだよ!」
頬を掴まれながらも竹内はさらに笑った。その歪な笑顔を見下ろしながら、綾多華は小さく笑みを浮かべた。
「これ、なんだかわかる?」
綾多華は手に持っていた黒いスマホを竹内の目の前に突きつけた。スマホの画面には、誰かとのメッセージのやり取りが映し出されていた。
「は……え?」
竹内は抑えつけられながらもゴソゴソと無理やり自分のポケットを確認する。そこにあるはずのものが、今目の前に掲げられていた。
「お、俺のスマホ……どうして…?!」
「こういうのが得意な知り合いがいるんだよ」
「だが、顔認証がかかっていたはずだ!ハッキングするにも、こんな短期間では不可能だ!」
三原が透明人間の力の前に為す術もなく倒れたように、今度は竹内が同じ力に翻弄される様子を目の当たりにし、綾多華は改めてこの力の規格外の強さを思い知らされた。
「…そういうのも得意な知り合いなんだよ」
竹内のポケットからスマホを奪い、しれっと顔の前にかざしてロックを解除する。透明人間の手にかかれば造作もないことだ。与謝は竹内を吹き飛ばした直後に、素早くスマホを回収していたのだった。
「こんなやり取りスマホでしちゃだめだろ。こうやってすぐバレちまうぞ?」
綾多華は画面に映るメッセージの一覧を見ながら意地悪く笑った。
「2階の英語準備室。そこに彼女はいる」
「くっ...だが、もしお前らが押しかけたら向田って女がどうなるかわかんねぇぞ!佐原さんはやる男だ!」
竹内は全身びっしょりと汗をかきながら、苦し紛れに最後の力を振り絞るようにそう叫んだ。
本当のことを言っているのかどうかは定かではないが、その可能性がある以上、むやみに救出に向かうわけにはいかなかった。
この世界で唯一、誰の目にも留まることのないとある人物。
血を流すほどの大怪我を負っても気にも留めず、いの一番に走り出していたその男を除いては。
「…心配すんな。気づいたころには全部終わってる」
綾多華は周囲の重苦しい雰囲気に飲まれることなく、得意げに勝ち誇った笑みを浮かべた。まるで戦いに勝利し、栄光の瞬間を迎えた勇者のように、その笑顔は自信に満ち溢れていた。
「彼女の人生は終わってない。あいつなら必ず、彼女を救い出せる」
どんな敵が待ち構えていようとも、誰にも気づかれることなく向田美優を救出できる唯一無二の存在。
与謝はすでに屋上を飛び出し、一人で向田美優のもとに向かっていた。
その軌跡を示すかのように、地面にはポツポツと血の跡が残されていた。
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