第1章 麒麟の透明人間(20)

「思った以上に人が少ねぇな」

 綾多華は校舎に戻り、急ぎ足で2階に上った。授業を終えて続々と生徒たちが廊下にあふれ始めてはいたが、まばらに散っている程度だ。通り抜けられないくらいグチャグチャになっていればよかったのだが、それでも教室の中はまだ人で溢れていた。そこに紛れることができれば追っ手を撒くこともできるかもしれない。


「待て!」

 階段下から竹内の声が聞こえてきた。


 追いつかれたら面倒だ、綾多華は廊下を駆け出した。運悪くそのタイミングで教室から人が大量に出てきて思った通りに前に進めない。もう少し落ち着いたタイミングを狙うべきだったか。


「こら、おい!」

 竹内も2階に辿り着き、廊下を駆けていく綾多華の赤髪を追う。

 倉田も追いついてきた。

 2人して綾多華を追いかけるが、男性の体では綾多華以上に生徒が邪魔となって前に進めずにいた。


「お前は反対から行け!」

 竹内は倉田に反対側から回り込むよう指示した。


 倉田は頷き、振り返ってそのまま階段を下りていった。


「クソ…」

 綾多華は舌打ち混じりに呟いた。回り込まれたら挟み撃ちにされる。それまでに抜けるか、身を隠せる場所を探さなくてはいけない。

 辺りを見渡しながらどこか隠れられる場所はないかと物色していると、ふいに誰かに腕を掴まれた。


「おい綾多華...」

 力強く掴んだその腕、筋骨隆々なその腕だけで誰かは察しがついた。


「信之か…!」


「授業は出ろって言ったよな?」

 にこやかな笑顔の奥に密かな怒りを感じる。


「悪い、無駄話してる余裕はねぇんだ。そういうのはまた今度…」

 綾多華は苦笑いを浮かべながら適当に返事をしてその場から離れようとするが、海江田は一向に腕を離そうとはしなかった。

 背後に迫る竹内の姿が大きくなってきていることに焦りを覚える。


「そう言ってお前はすぐ逃げるからな。今日という今日は逃がさん。第一、お前が授業をサボるとどういうわけか俺のところに苦情が来るんだ。俺がそうするよう指示しているのではと言い始める教師もいて、その疑いを晴らすために俺は…」

 そもそもな?と、海江田の苦情が止まない。


 話に夢中になれば拘束も緩まるかと思ったが、流石の筋肉だ、少し緩まった気はしたが綾多華の腕力ではピクリとも動かなかった。


「…お話のところすみません」

 薄気味悪い紳士的な声が背後から聞こえてきた。与謝の身を挺した足止めも無意味に終わり、竹内がたどり着いてしまった。


「…お前、何したんだ?」

 海江田は警備員の顔を見た後、怪訝そうな顔で綾多華を睨んだ。


「ちょっとそちらの生徒さんとお話させていただきたく。ひとまず、こちらに」

 竹内は綾多華に向かって手を伸ばしてきた。


 ここで捕まれば終わりだ。綾多華は一縷の望みで海江田の顔を見上げて助けを求めた。しかし見下ろす海江田の視線は鋭く、期待はできそうになかった。

 綾多華は体を後ろに引いて竹内の腕を回避しようと試みるが、直前で竹内の腕が止まった。綾多華に向かって伸びる腕を、横から海江田が掴んで止めていたのだ。


「少し強引なのでは?」

 海江田は竹内の腕を掴みながら尋ねた。


「…ちょっと、緊急なものですから」

 何かをごまかしているような態度を見抜き、海江田は不審な目を竹内に向けた。


「であれば私が話を伺いましょう。緊急であれば、生徒だけで解決できる問題でもないでしょうし」

 海江田はさらに強く竹内を睨みつけた。それと同時に、海江田は真正面から警備員に向かい合うために、綾多華を掴んでいた腕を解いた。


 その隙を縫って、綾多華はこっそりと教室を通って逃げ出した。


「あ、こらお前!」

 海江田は逃げ出した綾多華に声をかけるが、すぐさま追いかけようとした竹内を止めるのに必死になっていた。


 綾多華は肩越しに竹内の姿を確認し、すぐさま教室から出て廊下を駆けて逃げ出した。


 竹内の足止めは成功したが、気がかりなのは回り込むよう指示されていた倉田だ。曲がり角でばったり出くわすなんてことになったら最悪だ。


 などと考えながら普通に廊下の曲がり角を曲がってしまった。そして運悪く思っていた通り、回り込んで階段を上ってきた倉田と鉢合わせしてしまった。


「まっず!」

 綾多華は急いで階段を駆け上がっていった。


 倉田も慌てて階段を駆け上がって追いかける。


 3階にたどり着いて廊下を曲がったところ、奥に陣内の姿が見えた。


 綾多華は急いで戻って4階へと向かう階段を駆け上がった。そしてそのままもう1つ階段を駆け上がる。その先は屋上に通じているが、南校舎の屋上は現在封鎖されており、屋上に通じる階段は物置と化していた。


 駆け上がる拍子に舞った埃が鼻の奥をくすぐる。


 綾多華は鼻と口を塞いで物陰に隠れた。階下から合流した2人の警備員の話し声が聞こえる。このまま4階の散策に向かってくれたらと期待したが、倉田と陣内は屋上に向かう階段を上ってきてしまった。


 コツコツと、階段を慎重に上がる音が聞こえてくる。辺りは薄暗く、物陰に隠れてはいるが目の前に来られたら流石に見つかってしまう。


 綾多華は息を止め、近づいてくる足音に耳を澄ませた。それ以外に音は聞こえない。もし何かトラブルが起きて遠ざかってくれたらと願ったがそういった奇跡も起きそうにない。


 ピタリと、足音が止まった。


 そして、辺りを照らすライトの光が現れた。暗がりに紛れることができればと考えていたが、全てにおいてついてない。


 もう1つ足音も聞こえてきた。竹内だ。


 一か八か飛び出して、相手が驚いている隙に脇を抜けるか。何もしなければ捕まるだけ、それしかない。ここは学校だ。人気のあるところに行けば手荒な真似なんてできない。


 綾多華は呼吸を整えた。


 目の前に見えるライトの光も濃く太くなっていく。彼らはもうすぐそこまで来ている。足音もどんどん近づいてきている。


 3歩だ。彼らのうちの誰かがあと3歩近づいてきたら飛び出そう。そう決意して精神を集中させる。


 1歩、誰かが足を踏み出した。


 2歩目も聞こえた。


 次の一歩だ。次の一歩が聞こえたら大声で叫んで相手を怯ませて抜け道を作る。


 そう決意し3歩目の足音が聞こえた瞬間、飛び出そうとしたところをぐっと腕を掴まれ何者かに止められ、そのまま口元を覆われてしまった。こんなにも近づいてきている者がいたことに気づかなかった。


 焦りと衝撃で気が遠くなる。


 その意識を呼び戻すようにライトの光が綾多華の姿を照らした。その光の眩しさで意識を取り戻す。取り戻し、キッと鋭い目つきで倉田の顔を睨みつけた。


 しかし、睨み返したその眼光は倉田には届いていないかった。ライトをあちこちに動かし、何かを探しているような素振を見せる。


「...静かに」

 耳元で呟かれたその声を聞いて、綾多華は張りつめていたものが全て解け、膝から崩れ落ちるかと思うほどの安堵を覚えた。それはそのまま態度に現れ、ぐったりと体を預ける綾多華を与謝は慌てて支えた。


「ここにはいないっす」

 倉田はそう言って階段上の捜索を打ち切り、階下のフロアへと消えていった。


 与謝はゆっくりと立ち上がって警備員たちが視界から消えたのを確認して、ほっと息をついた。


「死んだと思ったわ…」

 綾多華は弱々しく与謝の体を拳で小突いた。


「悪い。ギリギリ間に合ってよかった」


「助かったよ」

 綾多華は埃まみれの隅から立ち上がって咳をしながら呼吸を整え、階段の方に移動して腰を下ろした。


「透明化の力は、戻ったみたいだな」


「ああ。といってもなにがなんだかわかってないんだけど。てか警備室でのあれ、一体なんだったんだ?」

 一息ついて、与謝は先ほどの状況に関して尋ねた。


 警備室で起きた出来事。

 与謝の透明化を介して行う書き換えの力について、そして透明化が上手くいかなかったことについて、まだ与謝とも情報共有ができていなかった。


 書き換えの力については綾多華も本当のところはわかっていないが、わかっている範囲で説明を行った。


「透明化させた先の世界を書き換えられる?」

 見えてはいないが、その顔に?が浮かんでいるのは容易に想像できるリアクションが与謝から漏れた。


「ああ。詳しくはわかんねぇけど。あたしの周りを飛び跳ねるような空想の足音を聞いた後、それができるようになった」


「飛び跳ねるような足音?それってなんか、シャンシャンシャンって感じのやつか?」

 与謝の言葉に綾多華は驚きの表情を浮かべた。まさかその音について自分以外に知っている者がいるとは思わなかったからだ。


「お前も聞いたことあるのか?」


「入院してた時、夢の中で聞いたんだ。さっきも聞いたよ。花火運んでるお前とぶつかった時」


「…マジか。あたしだけに聞こえる音だと思ってたけど、まさかそんな共通点があたしらにあるとはな」


「なんなんだ?あの音。俺にはなんか、足音みたいに聞こえたけど」


「あたしも。なんていうか、妖精みたいな、神秘的な…」


 神秘的な足音。その音を生み出している神秘的な生物の存在を考えた時、2人の頭の中に浮かんだ生き物は一致していた。


「麒麟の、足音?」


 2人して、その可能性を口にした。


「綾多華のその力は、麒麟が授けた力ってこと?てかじゃあ俺が透明になっちまったのも、麒麟の力ってことか?」


「わかんねぇけど、信じたくはねぇな」


「いや本当だよ。もし俺が透明人間になったのが麒麟のせいだったら、俺は麒麟を恨むぞ」


「…まあ、そうだな」


 ずっと夢見ていた麒麟がもしかしたら悪神の類かもしれない可能性に、綾多華は苦い顔をした。「それは一旦置いておいて」と話を逸らす。


「透明化した先の世界を書き換えることはできるんだけど、多分そっちの世界に行ったりすることはできない。あくまで、見える景色を適当に捻じ曲げられるって感じだ」


「だとしても、相当やばいよな。なかなかエグイ力だ」


「…透明人間の時点でやべぇけどな」

 綾多華はポケットからスマホを取り出した。


「写真はなんとか撮れてるみたいだ」

 綾多華が先ほど警備室で撮った写真には扉が透明化されたロッカーが写されていた。透明化の力は写真に撮っても問題ないようであった。


 しかし肝心なロッカーの中身はというと、綾多華の影が邪魔をしたせいか向田美優の私物かどうかの判断はどうにも難しいものとなってしまっていた。


 本人が見ればわかるかもしれないが、これを確固たる証拠として突き出して学校や警察が動いてくれるかは正直怪しいものであった。


「この写真じゃ証拠としては微妙だな。撮った時に確認できなかったのが痛かった」

 スマホを持ったまま額に手を当てて、綾多華は天井を眺めている。


「これじゃああいつらを牽制できるかも怪しい。肝心の隠しカメラも回収できなかったし。まずったな」

 隠しカメラの回収があの場では最優先事項であった。それが達成できなかった以上、次点の向田美優の私物の証拠が何よりも重要となった。


 しかしそれも失敗。写真を撮ったことがバレてしまった以上、今頃どこかに場所を移してしまっていることだろう。


 超常の力を用いて警備室に忍び込み、彼らをギリギリまで追い詰めることはできたが、結果としては惨敗もいいところであった。


 綾多華が天井を眺めながらその結果に肩を落としていると、座っている綾多華の足元に、与謝が何かを置いた。


 置かれた物を見て、綾多華は目を丸くする。警備室で回収できなかった最優先事項の物が、そこに置かれていた。


「透明人間だし、これくらい楽勝だ」


「…お前!」

 綾多華は与謝の肩に手を回してグッと体を引き寄せ、笑顔でわしゃわしゃと頭を撫でた。もちろんちゃんと頭に触れられるわけもなく、広げた指は与謝の目を何度か突き刺した。


「痛い痛い痛っ!」


「最高すぎんだろ!」

 綾多華は笑みを浮かべながら、まるで犬に触れるかのようにわしゃわしゃと与謝の頭をこねくり回す。


「これがあれば警備員たちはあたしを犯人にはできねぇ。むしろ奴らに疑いを向けられる。あとは三原をどう追い詰めるかだ」


「この映像だけじゃ無理そうか?」


「三原が来たのがこの後だからな。そこまで撮れてりゃいけてたかもしれねぇけど」


 ここには警備員の映像しか残っていない。

 依然として三原明彦が事件と関係している物的証拠は得られていない状況だ。

 これだけでは事件の全ては解決しない、真犯人である三原に繋がる証拠を見つけなくては。


 しかしこの証拠が得られただけでも万人の味方を得た心持ちであった。これがあれば三原にたどり着くのも時間の問題だと、そう確信することができた。


 その時、綾多華のジャケットに入れてあったスマホが短く振動した。メールか何かだろうか、綾多華はスマホを取り出してその振動の正体を確認する。


 演劇部用で公開している綾多華のフリーアドレスにメールが届いていた。送り主は不明、メールアドレスにも見覚えはなかった。


「…マジか」

 メールに添付された写真を見て、綾多華は絶句した。


 添付されていた写真を開くと、そこには向田美優と思われる女生徒が薄暗い部屋で拘束され、困惑と苦しみの表情を浮かべていた。


 その写真を横から見て、与謝の心臓は瞬時に激しく鼓動し始めた。手に汗握る状況に、彼は冷静さを保つために深呼吸を重ねた。


 メッセージは一文だけ、『1人で来い』と記されていた。


「これ……向田さん、だよな?」


「ああ。彼女に危害を加えられたくなければ、持ってるもん全部渡せってことか。クソ、あの大男に命じてたのはこのことだったのか」

 綾多華は警備室でのやり取りを思い出した。


 保険として大男に命じていた『あれ』とは、向田美優を誘拐することであったのか。まさかそこまでの行動に出るとは思わなかった。


 2人の背中を大粒の冷や汗が伝った。


「いくらなんでもやりすぎだろあいつら……1人でいくのか?でもこのカメラ渡しちゃったら、綾多華が」


「ああ。だから渡せねぇ」


「…ああいやでも、それだと…」

 与謝は綾多華のスマホに映る向田美優の姿を見る。


「…言いなりになるつもりもない。あたしらを舐めるなよ」

 綾多華は額に汗を浮かべながらもにやりと笑って立ち上がった。


 まるで与謝がどこにいるかわかっているかのように与謝の肩に手を回し、そのまま連れて階段を下りていく。


「あたしたちはまだ三原に届いていなかった。三原を追い詰めるために最後の一手が欲しいって時に、あいつの方からコンタクトを取ってきた。あたしたちにとってもチャンスっつーことだ」


「待てよ、向田さんが捕まってるんだ。下手なことをすれば彼女が危険な目に遭うんだぞ?!」


「わかってる。んなことになればあたしの夢も終わりだ。彼女の笑顔を奪うようなやつのところに麒麟は来ねぇよ。あたしたちの目的は、三原の全てを暴き出し、彼女を助けることだ」


 その答えに、与謝は力強く頷いた。


 姿こそ見えないが腕に伝わるその感覚から、綾多華は与謝の決意を察した。


「あたしはこれから三原と会う。お前は向田美優の救出だ。全部終わらせるぞ」


 そう言って綾多華は与謝にとあることを耳打ちをした。

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