第1章 麒麟の透明人間(19)
「何が起きた…?」
綾多華は目の前の光景に目を疑った。先ほどまでは確実にスタンガンなどなかった。現実にはないから、頭の中で「イメージ」を描いていたのだ。あれば状況が変わるかもしれないと思い、頭の中で生み出したのだ。そして頭の中で生み出した光景が、その通りに目の前に現れた。与謝が透明化させているロッカーの向こう側の世界に。
ふと、とある疑問が頭に浮かんだ。
ロッカーを透けさせて見えた向こう側の世界。果たしてそれは、本当に真実の光景なのだろうかと。
与謝が透明だから扉も透明化したのだろうと考えていたが、実際その先がどうなっているかなんて誰にもわからない。このロッカーがそう、中身を見たことがない以上、いくら透けて見えたとしても実はブラックボックスである。ロッカーの中身を誰が保証できるというのか。与謝の透明の力もまだ不透明な部分が多い。もしかしたらその先の世界はでたらめなもの、誰かが『書き換えた』世界なのかもしれない。
その世界を『書き換える力』があるのかもしれない。
その疑惑にたどり着いたとき、綾多華はごくりと息を飲んだ。そして次の瞬間、綾多華の脳内をちくっと刺すような軽い頭痛が走った。
それが合図であったのか、気づくと目の前のロッカーの中からスタンガンが消えて元通りの姿に戻っていた。『イメージ』による書き換えの効力が切れたということか。
書き換えの効力が消えても透明化は行われているということは、完全なるブラックボックスというわけではないのかもしれない。与謝が触れたことによる透明化自体がまず先に行われ、その後任意でその先の世界を書き換えられるという力の順番があるということか。
「大人しくしろ!」
竹内は窓口から離れ入口に回り込み始めた。
まだ不透明なところが多い書き換えの力だが、これはこの窮地を脱するための唯一の武器である。何ができるかわからないが、ぶっつけ本番で度肝を抜くしかこの場を切り抜ける手立てはない。
綾多華はふっと息を吐いて気合を入れた。
「…来い!」
綾多華は与謝の手を掴んで引き寄せて急いで入り口付近に移動し、「この扉に触れろ!」と叫んだ。
「は、なに?!」
「いいから!早く!」
与謝は戸惑いながらも気圧され、言われるがままに警備室の扉に触れた。
触れるのと同時に一瞬で扉は透過されて、日の光が警備室に差し込んだ。
「な、扉が消えた?!」
陣内は何倍にも目を見開いて、まるで開け放たれたかのように急に消えた扉に驚愕していた。このままでは逃げられてしまうと、陣内は慌てて綾多華を捕まえるため手を伸ばしてきた。
目の前の扉が透明化されたのを見て、静かに冷静に、綾多華は頭の中をフル回転させた。
透明化や書き換えた先の世界は、あくまでそれを映し出しているだけ。
その世界に入り込んだり、そこから何かを取り出すことができないのは、先ほどスタンガンを出現させたときに感覚でわかった。
しかし、音は別だ。
先ほどスタンガンが荷物の山から落ちてきた時、その転げ落ちる音だけはこちら側にも聞こえてきた。音だけは、向こう側で発生したものであっても聞こえてくるのだ。
であれば、今この場をやり過ごすために最も爆発力があって効果的なものは、真後ろに迫る陣内を怖気づかせ、吹き飛ばしてしまうような迫力のある『音』だ。
もしこの扉の先の世界から、耳を塞ぎたくなるような大音量が聞こえてきたら、後ろに迫ってきている陣内の動きを止め、逃げ出す隙を生み出せるかもしれない。
音がおかしいという設定のコントを作ればいい。そんなものはいくらでも作ってきた。
想像するのは、『音量調節ミスった映画館』
綾多華はすぐさま目を閉じて耳を塞いだ。「耳塞いどけ」と小声で与謝にも伝え、脳内に意識を落とす。
突如として、警備室の中が薄暗くなった。扉から差し込む日差しがなくなったためだ。
陣内はその変化を怪しみ、扉の方を見ると、そこには真っ暗な空間が広がっていた。陣内は伸ばしかけた腕を止め、その先の世界にしばし目を奪われる。扉が消えたかと思えば、今度は一体なんだ?この真っ暗な世界はなんだというのだ。その世界に目を凝らす。目の前の女子生徒を捕らえなくてはならないが、この不可思議な現象に対する警戒心が勝り、覗かずにはいられなくなっていた。
その暗闇を裂くように、突如力任せに叩かれた銅鑼の如き轟音を響かせたクラシック音楽が襲い掛かってきた。音も割れ、静かな感じの曲調なのに爆音で響くその音楽はもはや鼓膜に届くかまいたちのようであり、陣内はよろめきながら急いで耳を塞いだ。
あと1秒耳を塞ぐのが遅れたら意識を持っていかれていたかもしれない。強く耳を塞ぎ、下を向いてゆっくりと呼吸を整える。しかしそれでも意識が飛ぶ寸前であった、目の前が霞んで仕方ない。
急遽目の前に暗闇が発生したかと思えば、突如鼓膜を破り去るかのような轟音が襲い掛かってきた。この数秒の間で発生したあらゆる奇想天外な出来事に頭が混乱し、ふらつく陣内の視界をさらにぼやけさせた。
「……うるさぁい!」
しばしの爆音の後、我慢できず与謝は扉から手を離して耳を塞いだ。
透明化が解除されたのと同時にその爆音も一瞬でかき消えた。唐突に耳を塞げと言われてわけもわからず片耳だけ塞いだが、片耳残っている与謝の鼓膜は破れる寸前であった。
どうして扉の外が映画館に?与謝自身も疑問だらけであったが、爆音にやられた頭ではまともな思考ができなかった。視界もふらふらとしている。
「今のうちに逃げるぞ!」
綾多華は爆音にダメージを受けてふらつく陣内を肩越しにちらりと見てドアノブに手をかけた。
「お、おい!」
奥にいた倉田は目の前で起きた様々な事象に目を丸くしながらも、綾多華を逃がすまいと追いかけてきた。
綾多華は急いで扉を開けて外に出るが、窓口から回り込んできていた竹内と遭遇する。
「い、今の音はなんだ?!」
「なんでもねぇよ」
綾多華は再び爆音で足止めをと思い、「もう一度やるぞ!」と与謝に声をかけたが、どういうわけか応答は返ってこなかった。
まるで与謝のいるはずの場所で、星々が舞い踊るように、くるくると何かが宙を舞っているように感じられた。そしてそのまま、与謝は目を回して倒れこんでしまった。あの爆音を一番近くで聞いていたのだから仕方ない。
「観念しろ」
竹内がじりじりと歩みを寄せてくる。警備室からは倉田も姿を見せた。一瞬の隙をついて陣内は退けることはできたが、この窮地からの脱出は容易ではないようだ。与謝が伸びてしまっている以上、今は透明化の力も頼りにできない。
「大人しく…」
警戒しながら近づいてきていた竹内であったが、その言葉を言い終わる直前で、突如姿を消した。
忽然と姿を消した竹内に綾多華は驚くが、その現象自体には覚えがあった。「うわ!」という言葉が聞こえた次の瞬間、態勢を崩した竹内が現れてそのまま地面に倒れこんだ。
「お、俺が足止めするから、逃げろ…」
ヘロヘロな声でそう告げる与謝の声が地面から聞こえてきた。這いつくばりながらも竹内の足を掴んで転ばせていたようだ。綾多華の目には一瞬竹内の姿が消えて見えた。透明化の力が元に戻ったかと思ったが、竹内はまだ足を掴まれているように見える。完全にはまだ戻っていないようであった。
とにかく今はこの場から逃げなくてはならない。
綾多華は「また後でな!」とだけ告げ、校舎の方へと走っていった。
竹内は待て!と言って立ち上がり再度綾多華を追いかけようとするが、再びその足を掴まれて態勢を崩す。
「な、え?」
警備室から出てきた陣内と倉田は、地面に倒れ込んでいる竹内の姿に困惑する。
しかし、逃げる綾多華の後ろ姿を見て「お、おい!」と叫び、2人は竹内の横を通って追いかけ始めた。
しかし、白目を剥いて今にも気絶しそうな透明人間がそれを許さない。今度は倉田と陣内の足を掴んで同様に転ばせた。
綾多華は走りながら振り返り、後ろの光景を確認した。理不尽なトラップに少しばかり同情の念が湧いたが、それもつかの間、竹内が起き上がって走り出す姿が視界に入った。どうやら与謝は力尽きてしまったようだ。ここからは透明人間の助けを借りることはできない。
6限目の授業が終わり、放課後を知らせるベルの音が鳴り響いた。
次第に学内は生徒で溢れかえるはず、紛れ込めばなんとか逃げ切れるかもしれない。綾多華は駆ける足を校舎の方に向けた。
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