第1章 麒麟の透明人間(18)

「あ」

 あまりにも間抜けなミスを犯したことに唖然とし、気の抜けた声が自然と2人から漏れた。


 急ぐあまり思考から抜け落ちていた致命的な問題点。それは完全に取返しのつかない事態を引き寄せた。


 テーブルの上のタイマーは3分になって小さく音を発し始める。


「…あ?」

 倉田はその音に一切気を止めず、雑誌から視線を外してゆっくりと横を向いた。


 シャッター音のした方向、忽然とそこに現れた女子生徒がいるその方向を。


 与謝は口をがばっと開けて白目で唖然としていた。しているが、そんな顔すら誰にも見られていない。


「な、お前どこから!」


 眠りから覚めた陣内は振り向き、目の前に突然現れた女子生徒の存在に驚き勢いよく立ち上がった。


「その赤髪、映像の女か…!」


 倉田も驚いて立ち上がる。タイマーがなっているがお構いなく、2人は綾多華の方を振り向いて身構える。


「やっばぁ…」

 綾多華は額を汗で濡らしながら苦笑いを浮かべる。


「おい、どうした…お前は?!」

 窓口から警備室の中にいる綾多華の姿を覗き見て、竹内が声を荒げた。部室の捜索を終えて戻ってきたようだ。綾多華を探しに外に出ていた竹内にとっては、まさに灯台下暗しというやつだろう。悔しさと疲労感から先ほどよりだいぶ老けたような気がする。


「どうすんだ?!」与謝は慌てながら尋ねた。


「ひとまず透明化してやり過ごすしかないだろ!」

 綾多華は手探りでロッカー辺りをまさぐって与謝に触れた。与謝の体に触れたのを確認した後ぐっとその体を引き寄せた。


「一旦これでやり過ごそう。あたしを探しにこいつらが外に出ていったタイミングでここを…」


「何こそこそ喋ってんだ?お前」

 陣内はじっと綾多華を目で捕えながらそう告げた。


 その視線に背筋が凍る。透明となっているはずなのに、その視線は確実に綾多華の姿を捕らえていた。その突き刺すような視線に驚き、綾多華は自分の手のひらの感触を確かめたが、確かに透明な何かに触れている。しかし透明化されていない。何か透明化できない新たなトリガーを引いてしまったのか、どういうわけか綾多華の姿は透明化されずその場に現れてしまっていた。


「まさか、消えてないのか…?」綾多華は目を丸くしながらそう呟いた。


「佐原さんの言ってたことが本当だったなんてな。あとで謝らねぇと」

 陣内は腰を落とし、今にも襲い掛かろうかという気配を漂わせている。恐怖心がその男の体を何倍にも大きく見せる。


 綾多華は与謝から手を離してみた。すると与謝が触れているロッカーの扉は再び消えてなくなった。


 ロッカーの透明化自体は健在のようであった。


 透明にならないのは綾多華だけという状況、どういうわけか人間の透明化が利かなくなってしまっているということだろうか。


 一番重要なタイミングでどうしてそうなってしまったのか。


 不条理の中に生まれた新たな不条理に、綾多華は自然と奥歯を噛みしめていた。


「どういうことだ?!俺に触ったら綾多華も透明になれるんだろ?!」

 与謝はその危機的状況に混乱し声を荒げる。


「知るかよ!ロッカーは変わらず透明化されてるし、なんかあたしだけ透明にならない!あたしだけ今、バグってるっぽい!」


 透明化ができない以上息をひそめてやり過ごすことはできなくなった。急いで逃げ出せば活路もあったかもしれないが、外には竹内がいる。このまま外に飛び出しても鉢合わせになって捕らえられるだけだ。

 戦うことも不可能、逃げることもできない。頼みの綱であった透明化も使えず、まさに絶体絶命の窮地に陥ってしまった。


 突然の事態に綾多華は頭を抱えた。このような窮地から脱出するにはどうすればいい。こんなとき、映画や漫画ではどんな展開が待っている。自分でも過去に逃走をテーマにした作品は色々と作ってきた経験がある。


 綾多華は頭の中の知識と経験をつなぎ合わせなんとか活路を見出そうと必死になっていた。


 昔読んだ怪盗漫画、脱獄がテーマの映画、殺人鬼に追われる主人公の活躍。


 様々な作品から得た知識が脳裏に浮かび、それらが入り組んで生み出される脱出策はひとつひとつ常識を逸脱したものばかりで、我ながらその発想力に恐れ入った。しかしその空想は目の前の現実には何の役にも立ちはしない。この場はフィクションではないのだから。


 頭をヘリコプターのプロペラのように全力で回転させ様々な策を試行していたとき、突如綾多華の脳内に小さな電流が走った。そしてすぐ、頭の中に聞き覚えのある音が鳴り響いた。


 シャンシャン、シャンシャン。


 耳馴染みのある、妖精が跳ね回っているようなあの音。


 子供の頃からよく聞いていた気がするが、いつ頃から聞こえていたのか、はっきりとは覚えていない。

 創作に耽る時には常にこの音とともにあった、『空想の足音』。

 空想の世界に足を踏み入れ、自分の世界に落ちた時によく鳴っていたあの音だ。

 この音は現実を離れて空想の世界に沈潜していると知らせる合図であり、そして同時に現実に引き戻されるアラームでもあった。

 この音が聞こえ始めるといつも現実に引き戻されていた。今も頭を回転させ過ぎて空想の世界に行ってしまっていたということか。いつもなら現実に引き戻されることに不服であったが、今はありがたかった。


 空想に思いを馳せている場合ではない。

 目の前の危機は、空想では救えないのだから。


 しかし、どういうわけかそれを自覚しても空想の足音が消えることはなかった。いつもはその音に気付くのと同時に現実に引き戻されていたというのに。


 シャンシャン、シャンシャン。


 妖精のような軽やかな足音が、綾多華の頭の中で鳴り響いていた。


 しばらくするとその音は、まるで小動物のように綾多華の周りを飛び回り始め、そして突然、彼女の目の前で足踏みをして、ロッカーの方へと飛んでいった。


 透明化されたロッカーの中で、依然その音は踊るように鳴り響いている。


 自分の頭の中以外で、この『空想の足音』が聞こえたのは、綾多華にとって初めての経験だった。


「な、なんだ…?」

 綾多華はビリっと電流が走ったこめかみ辺りを押さえる。


 この音はなんだ、どうしてロッカーで鳴っている?そのロッカーがなんだというのだ。今はフィクションを楽しむ余裕はない。そのロッカーの中にこの窮地を脱するようなアイテムがあるというのか。

 そんな希望に縋っても意味はない。

 そこには何もありはしない。拳銃があるわけでも、ナイフがあるわけでもないのだ。


 まあ、スタンガンくらいならロッカーの中に隠されている可能性もあるかもしれない。


 と思うのと同時に、ロッカーの中にある向田美優の私物の上に不自然にもスタンガンが置かれている姿を思い浮かべていた。

 不自然に上に置かれていた理由は単純に取りやすくするためだ。そして隙を縫ってそれを取り、目の前の陣内、後陣の倉田を次々と無力化して脱出。

 そんな都合の良いシナリオを頭の中で描いてしまっていた。また空想の世界に行ってしまっていた。


 現実はマンガでも映画でもない、ただの女子高生が絶体絶命の危機に陥った時にそんな都合の良いことが起きるはずがない。

 ロッカーの中にもしスタンガンがあったらなどといった希望はもはや空想だ。

 そんな空想をどれだけ現実に重ねてみようとしても現実逃避にもなりはしない。


 再び、綾多華の頭の中に電流が走った。


 その一瞬の衝撃は、例えるなら写真のフラッシュがたかれたような感覚であった。


 まるで綾多華の頭の中に浮かんだ光景を写し取ったかのような、その衝撃に綾多華はぎゅっと目をつむる。


 ロッカーで鳴っていた空想の足音もいつの間にか止まっていた。


 頭の中を盗み取られたような奇妙な感覚、ロッカーで鳴り出した空想の足音、こんな窮地に一体何が起きているんだと疑問に思いながら綾多華がゆっくりと目を開けると、目の前には驚くべき光景が広がっていた。


 そこに感じる違和感は、おそらく今、綾多華だけが感じているものだろう。

 ロッカーの中に見えるスタンガンをどう思うかと聞かれた時、綾多華だけが異なる感想を持つに違いない。


 頭の中で思い浮かべていた『イメージ』の通りに、向田美優の私物の上にスタンガンが置かれていたのだ。

 頭の中で作り上げた空想が、そのまま目の前の現実を『書き換えた』かのように。


 そして荷物の山の上に置かれていたスタンガンはバランスを崩し、音を立てて荷物の山から転げ落ちた。

 本当にロッカーの中にあるといわんばかりに、自然に。

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