第1章 麒麟の透明人間(16)
正面から倉田が近づいてきている。上手い事横を通ってすれ違うなど不可能だ。かといって右側には陣内がいる。この狭い警備室の中で逃げ道など残されていなかった。
倉田はロッカーに近づき、ゆっくりと右手を綾多華の顔の方に伸ばした。
綾多華もそれに合わせてゆっくりと頭を右にずらして体を低くし、なんとか倉田の手を回避する。
倉田はロッカーにつけられたダイヤルを回して右上の扉を開けた。
開かれた扉が綾多華の左頬をかすった。
「あれ、ここじゃなかったっすか?」
中を物色する倉田はガサガサと書類を出してはしまってを繰り返している。
「あー、そこは去年までのだ。今年のはこっち」
そう言って陣内もロッカーの方に近づいてきた。陣内は与謝の右足辺りにあるロッカーの扉に手を伸ばし、ダイヤルを回して扉を開けた。
与謝は目を見開きながらグッと右足を上げ、重心も左にずらして陣内の邪魔にならないよう努めた。
「ん、この上だったか」
陣内はさらにその1つ上のロッカーに手を伸ばした。
おいおいおい!と心の中で呟きながら、与謝は目をもう一段階大きく見開き、奥歯を噛みしめながら右足を振り上げた。まさに必死という顔、この顔が誰の目にも見えていないというのはなんとももったいないというほど真っ赤な顔でその場をしのいだ。
「ほら、これこれ」
ロッカーからファイルを取った陣内はそれをそのまま倉田に渡した。
「あざーす」
ファイルを受け取った倉田は、勢いよく目の前のロッカーの扉を閉めた。
その音にびくりと綾多華は体を震わせる。
「用が済んだら戻しておけよ」
「ういーす」
その後倉田は再び作業に戻り、陣内も同様に腕を組んで寝始めたのを確認した後、溶けるように与謝と綾多華はその場に座り込んだ。
「寿命が3年は縮んだ」
「ああ。体も痛ぇ」
綾多華はほっと息をついてゆっくりと立ち上がった。
与謝もその動きに連なって立ち上がる。
綾多華たちの目の前には椅子に座って眠る陣内の後ろ姿。
そしてその奥、窓口近くのテーブルでは倉田が何か作業をしている。
カメラは陣内の目の前のテーブルの上だ。先ほど陣内が鞄から取り出して確認した後、そのままテーブルの上に雑に置かれたままになっていた。
警備室はいたって穏やかで、陣内も眠っている。
目の前のカメラを奪うことくらい透明人間であれば造作もない状況だ。しかも触れるだけでよい、触ってしまえばカメラも透明となるのだから、あとは持って逃げるだけだ。
「ゆっくり行くぞ」
綾多華はゆっくりと足を踏み出した。合わせて与謝もゆっくりと足を前に運ぶ。
音を立ててはいけない。
その緊張感がさらに警備室に静寂をもたらしているように感じられた。空気が揺れる音すら鳴ってしまうんじゃないかと思うくらいの静けさは、踏み出す一歩一歩にまとわりついてその動きを重たくしていた。
与謝たちは地面に転がる段ボールなどを避けながらなんとか静かに移動し、手を伸ばせばカメラに届くくらいまで近づくことに成功した。その状況に2人して小さく安堵の息を漏らす。
「あたしが奥のスマホの方取るから、お前は手前のカメラを頼む」
綾多華は自分に言い聞かせるくらいの小さな声でそう呟いた。
「おっけ」
与謝は小声で応答し、2人は空いている手をカメラの方に伸ばした。
横を見れば、すぐ目の前に陣内の顔があった。ゆっくりと、陣内の目の前を2人の手が通り過ぎていく。
緊張感が伸ばす手を震わせる。
もしもこの状態で透明化が解除されてしまったら、そんなことばかり脳裏に過る。
伸ばす手に不安もまとわりついて震えが止まらないが、それを乗り越えてなんとか与謝はカメラを掴んだ。
綾多華の手も、あとわずかの距離を残すのみであった。
ピンと指先を伸ばし、中指がスマホに触れた。あともう少し。中指に力を込めてゆっくりと近づけ、持ち上げられれば作戦は成功となる。
音を立てぬよう細心の注意を払いながら、少しずつ指を動かしスマホをこちら側に引き寄せていく。親指もついに届いた。あとは持ち上げるだけになった。
その瞬間、まるで静止していたかのように見えたこの緊迫した空間を破壊するかのように、眠っていた陣内はいきなり予備動作もなく大きなくしゃみをした。
こんな状態じゃなくても驚く声量。
ほとんど目の前でその衝撃的なくしゃみを受けた綾多華は、驚いて手を引っ込めてしまった。
それだけならよかったが、与謝は既にカメラを手に持っていた。綾多華ほどではないにしろその衝撃は与謝の体を震わせ、その手からカメラを引き離した。
ゆっくりと、カメラは与謝の手から滑り落ちていった。
ゆっくり、ゆっくりと、まるで時が永遠に停止したかのようにゆったりとした動きで、カメラがテーブルに落下していった。
ガタンと太く重い音が警備室に鳴り響く。その驚愕の衝撃音に、うとうとと眠りに落ちかけていた陣内の目が見開かれた。
「なんだ?!」
陣内は突如として立てた大きな物音の方を見る。2つのカメラは変わらずテーブルの上にあったが、どこか位置が変わっているような気がした。
与謝と綾多華は震える手を恐る恐る引っ込め、陣内の表情を伺っていた。
「…寝ながら机を蹴っちまったか?」
陣内はぽりぽりと頭を掻いた後、「しまっておこう」と言って2つのカメラを持って雑に鞄に詰め込んで、右手側にあるロッカーの中に放り投げて扉を閉めた。
与謝と綾多華はその光景を惜しみながら、バレないよう静かに入口付近へと退避した。
振り出しに戻ってしまった。いや、むしろマイナスになってしまったのかもしれない。
「やっちまった…」
「バレてないだけマシだ。つってもあれはもう無理かもな…」
綾多華は唇をとんがらせながら陣内の隣にあるロッカーを睨んだ。
陣内がどこかに行かない限りあのロッカーを漁るのは不可能となってしまった。時間も限られている。
綾多華は口元に手をやって警備室を見渡した。カメラの回収が不可能とはいえ、このまま手ぶらで帰るわけにはいかない。
彼らの罪を暴き出せるものが他にないだろうか。そう考えた時、少し前に彼らがしていた会話を思い出した。
向田美優の私物がロッカーにあるということ。
運よく倉田が指し示したロッカーは綾多華達の背後にある。それをどうにか、証拠として押さえることはできないだろうか。
「こっちのロッカー、ここに向田美優の私物があるはずだ」
綾多華は振り返って目の前にあるロッカーに手を置いた。先ほどファイルを探している時に開けた扉が3つ。それ以外の9個のロッカーのどれかに向田美優の私物が入れられているはずだ。だが、全てのロッカーには当然のごとく鍵がかけられている。
「でも全部鍵がかかってる。番号もわからないし、回収するのは無理だろ?」
「…そうだよな」
与謝からの当然の疑問に、綾多華は言葉を濁すしかなかった。
頼みの綱はもはやこれだけだ。何か、何かできることはないだろうか。綾多華は思考を巡らせた。
こちらには透明人間という規格外の武器がある。パスワード一覧みたいな書類がどこかにないか探してみるか?すぐ見つかればよいが、そんな時間はない。
では無理やり扉をこじ開ける?不可能だ。それにただでさえ音を立てるのは厳禁。どこにしまわれているかもわからない状況で一か八かの勝負に出るのはリスクが高すぎる。
パスワードを使わず、扉も開けずに中身を回収する。
どれだけ理不尽な条件、というより不可能だ。いくら透明人間がいたとしてもできるはずがない。
せめて中身の確認だけでもできればと、歯痒さに奥歯を噛み締めていた時、ふと今のこの非現実的な状況が綾多華の思考を捕らえた。
与謝に触れることで透明となっているという今のこの状況。花火の時も、与謝が触れたものは透明となっていた。
もし与謝がこのロッカーの扉に触れたら、その扉だけ透明化されるという可能性はないだろうか。
「…このロッカー、触ってみたらどうなる?」
綾多華はロッカーの扉に触れながらそう伝えた。
「なんかあったのか?」
「いいから。ここ触ってみてくれ」
与謝は疑問に思いながらも言われた通り綾多華の目の前のロッカーを触った。ひんやりと冷たく、剥がれかけた塗装が指にこびりついたような気がした。とはいえ見えないから事実はわからない。
「…触ってるぞ?」
「…ダメか」
綾多華は与謝が触れたロッカーを凝視し、首を傾げながらぼそっと呟いた。透明どころか、何一つ変化も起きていなかった。
「お前が触ったものは透明になる。だからロッカーの扉に触れたら透視みたいなことができるかと思ったんだが、何も起きなかった。どういう理屈だ?」
扉に触れるだけでは透明にならない。綾多華の透明化と目の前のロッカーに一体どういった差異があるのだろう。そう考えた時、扉とは別に与謝に触れているのに透明になっていないものが1つあることに気づいた。
何を隠そう、綾多華自身である。具体的に言うと、綾多華から見た綾多華自身の姿だ。
部室のときも同様、警備員たちから綾多華の姿は見えていなかったが、綾多華自身には自分の姿がなんの違和感もなく見えていた。自分の認識の上では、透明化されていないのだ。
「まさか…」
その謎に思考を巡らせるうちに、1つの仮説が生まれた。それを実証するために、綾多華はポケットにしまっていたスマホを与謝に差し出した。
「これ、持ってみて」
「スマホ?なにか撮るのか?」
与謝はスマホを受け取った。
思った通り、綾多華からは与謝の持っているスマホが変わらず見えた状態であった。与謝自身は透明のため、まるで宙に浮かんだような状態で見えている。
そして、立てた仮説を証明するために、綾多華はもう1つ行動に移す。
綾多華はパッと、与謝の肩から手を離した。その瞬間、宙に浮いて見えていた綾多華のスマホ、その不可思議な現象を巻き起こしていたスマホはその不可思議な特性を変化させ、一瞬で消えてなくなった。端から消えていった、などと説明できるような消え方ではない。自分は今何かを見ていたのかと思考を疑ってしまうほど、気づかぬうちに消えてしまった。
手を離していたのは一瞬、すぐに綾多華は与謝の肩に手を戻す。
「何してんだ?!」与謝は急いで綾多華の腕を掴んで小声で叱責する。与謝から離れた一瞬、その一瞬は間違いなく綾多華の透明化は解除されていた。
「お前に触れて透明になっている間は、お前の触ってるもんが透明に見えなくなるらしい。つまりこの扉が透明にならなかったわけじゃない。あたしにはそう見えなかっただけだったんだ」
綾多華はロッカーを指差してそう説明した。そして、このロッカーを透明化させて中身を覗き見るためには、綾多華の透明化を解除する必要があるということも。
「危なすぎるだろそれは」
「中身を確認したらすぐ戻る。1秒もない、ほんの一瞬離れるだけだ」
「とはいえこんな状況で姿を現したら」
「カメラが回収できない以上、こいつを盾に駆け引きするしか道はない」
「駆け引きって、これも場所移すって話じゃねぇか。無くなっちまったら証拠も何も意味ないだろ」
「扉を透明化させて写真を撮る。たぶんできる。あいつらからしたらこれは誰も知らない秘密のはずだ。それがばっちり映った写真があれば、例え場所を移したとしても安心できない。どうしてこいつらはこのことを知ってる、どうして写真があるんだ。他にも何か証拠を握られてるんじゃないかと思うに違いない。確実にあいつらを牽制できる。それにこの写真があれば警察も動いてくれるかもしれねぇ。やつらに調査の目が向けばそれでチェックメイトの可能性もある」
綾多華は与謝の肩を力強く掴んだ。
「今のあたしたちが状況をひっくり返すには、もうこういうチャンスをものにするしかねぇんだ」
どうにか止めたいところであったが、それ以外にどうすればよいか、適切な方法が与謝の頭に思い浮かぶことはなかった。じっくり考える余裕もない状況。与謝は決断を胸に抱いた。
「…わかった。少しでもこいつらが動いたら腕掴むからな」
「あんがと」
2人は危険と隣り合わせの作戦を実行するため、ロッカーに向き合った。
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