第1章 麒麟の透明人間(9)

 屋上から見える景色はとても美しく、空の青さも相まって与謝は一瞬で心を奪われた。都会にある学校のため見晴らしは完璧とは言えないが、それでもそこそこ高い建物の頂上にある開放的なスペースは息をのむ美しさを持っていた。疎外感や閉塞感から一気に解放されたかのようで、その開放感は何倍にも感じられた。


 屋上の入り口付近に設置されているはしごを上り、峯と与謝は街並みを見下ろしながら簡単にお互いのことを話し始めた。


「峯...アヤタカ?」


 峯から生徒手帳を渡され、その顔写真と本人を見比べながら尋ねた。


 峯綾多華。


 読み間違い聞き間違いかと思ったが、『みね・あやたか』と振り仮名まで振ってあったので間違いないようだ。随分と特徴的な名前をしている。


 峯という生徒がこの学校でも有名な問題児だということは、今朝の出来事と先ほど教師に追われていたのを見て何となく理解した。これから張り合っていくことになるかもしれない人物、みたいなことを昨日までの自分であったら考えて身構えていたことだろう。いや、今朝であればまだ考えていたか。そんな有名人が一体どんな人物なのか探りを入れてみたいところだが、今は自分について話したいという欲が抑えられなかった。ようやく、自分のことをしっかりと話すチャンスを得たのだから。


 与謝は峯に自分のことを説明した。名前などは早々に済ませ、誰にも話せなかった自分という存在のことを。


 謎の高熱で倒れ、目覚めたら透明人間となっていたこと。

 それで高校デビューに失敗したこと。

 やっとの思いで学校に来てみたら盗撮騒ぎでコソコソしなくてはいけなくなってしまったこと。

 人気者になりたいこと目立ちたいということ変わりたかったということ。


 ちゃんと話ができたのが久しぶりであったため、色々と溜め込んでいた愚痴までありとあらゆることを話した。


 峯はそれにちゃんと耳を傾けて聞いてくれていた。


 先ほどあったばかりの女性であるが、今の与謝にはそれがただただ嬉しかった。


「透明人間なんて信じられねぇけど、現に目の前にいるから信じるしかないか」


 峯は頭をかきながらじっと与謝のほうを見る。


「目の前にいるのかわかんねぇけど」


「いる。目の前っていうか横だけど。今朝のことも全部本当だ。朝来てみたら盗撮がなんだって。俺もわけわからないんだよ」


「だろうな」


 峯は手を叩いてケタケタと笑っている。

「学校で天下取ってやる!って息巻いてたら盗撮事件が起きてて、透明人間なのに姿隠さなきゃいけなくなったとか!矛盾すぎんだろ!」


「わ、笑うなよ!」


 大爆笑をする峯に照れながらツッコミを入れる与謝であった。その状況が、なんとも普通のやり取りのような気がして心地よかった。


「峯は、疑わないのか?俺が盗撮犯かもって」


「綾多華でいいよ。三原がそう話してたんだろ?あいつからはなんというか、綺麗なとこしか見えない不自然さがあった。だからそういうことやってると言われて、逆にその不自然さに納得がいった。それにカメラ仕掛けて盗撮なんてやり口が普通すぎる。透明人間ならもっと斬新なやり方がいくらでもあんだろ。にしても透明人間に出会えるとは、この学校もまだまだ捨てたもんじゃねぇな」


 綾多華は悪だくみする少年のような笑顔でそう呟いた。


「面白がるなって……ところで今朝の花火は綾多華、がやったんだろ?何者なんだ?」


「未来の超有名映画監督ってとこだ。今は演劇部で脚本とか演出とか、裏方全般をやらしてもらってる」


 綾多華は演劇部にて主に裏方メインで活動をしているとのことであった。裏方なのに見た目も派手で学校の有名人とは、今の与謝にとっては皮肉な話である。


「学校に彩りを加えるのは生徒の務めだろ」


「やりすぎでしょ」


「やりすぎたっていう結果は、望まなきゃ絶対に手に入らない。見ることができる景色は全部見てみたいんだ。それで得たもん全部活かして、あたしは世界中の人間を笑顔にする作品を生み出すんだ。俯いてる人も泣いてる人も、笑ってる人すら大いに楽しませて、この世を笑顔で溢れる世界に変えたい」


 町の喧騒、遠くに見えるビル群を眺めながら綾多華はそう話した。空に浮かぶ大きな雲にそっと手を伸ばしながら、

「そうすればきっと、麒麟が来る」と呟いた。


「…麒麟?」


「こいつだよ、知らない?」


 綾多華は胸ポケットに描かれている黄色の龍のような生物を指さした。


 よく見ると背中にもその龍のような生物が描かれたスカジャンを身にまとっていた。髪型以上に全体的に派手さを感じていた正体はこの服装のせいか。


「すげぇ善いことすると、麒麟がやってくるらしい」


「なんか、随分雑な伝承だな」与謝は肩透かしを食らったように感じそう呟いた。


「伝承っつうか、死んだくそじじいの口癖ってだけだ。善いことをすれば、幸運を運ぶ麒麟が来てくれるぞって。善いってのがなんなのかはさっぱりわかんねぇし、麒麟が何のために来るのかもわかんねぇけど、きっと毎日楽しそうに笑ってたじじいの元には、じじいの人生には麒麟が来たと思うんだ。だからあたしも麒麟を連れてくる。世界中の人を笑顔にするレベルのことしたら、くそじじいのとこに来た麒麟よりももっとすげぇ麒麟が来るに決まってる。そいつを天国のじじいに見せてやるんだ」


 両手を広げて麒麟の大きさを表現する綾多華があまりに無邪気で、自然と頬が緩んだ。与謝はパタリと倒れて空を仰ぎ見た。


 口癖。同じような人間がいるものだなと、少しおかしくなった。


「…いいな、そういうの。もし麒麟がいるなら、サンタとかもいるのかもな」


「いやサンタはいるだろ。あたし会ったことあるもん、夢で」


「夢だろそれ」


 バカなやり取りに2人して笑い合った。屋上で生まれた小さな笑い声は、次第に静かに溶けて消えた。


 何も憂うことなく笑えたのはいつぶりだろう。綾多華と話していると、ふさぎ込んでいた気持ちが晴れていくのを感じた。どこか不安に感じていた空の広さも、包み込む暖かなものに感じてくる。


「要は、麒麟が来るような人生を歩みたいってことか」


「透明人間がいたんだ、麒麟も絶対いる!」


「それ言われたら何も言えないけど」


 与謝は小さく笑い、空を眺めながらぼそっとつぶやいた。


「善いことをすれば、幸運を運ぶ麒麟が来るか」


 では自分は、何をすればよいのだろうか。


 自分にとって、善いこととはなんだろうか。


 謂れのない犯罪の容疑者にされかけている与謝にとって、自分が善いことをしているというビジョンが全く想像できなかった。


 思考がどんどん悪い方向に傾いていった時に、ふと教室で泣いている向田美優の姿が頭に浮かんだ。そして、今朝横断歩道で見せた彼女の明るい笑顔を思って心が痛くなった。教室や廊下で彼女に向けられていた陰湿な視線の数々に、今更ながらに苛立ちを覚えた。好き勝手に彼女のことを決めつけ、陰口を叩く姿に納得がいかなかった。


 あの時一言注意することができなかったことが、申し訳なかった。


 その時の後悔が、まるで魚の骨のようにずっと喉につっかえている。与謝は勢いよく体を起こした。


「…俺は、あの子を助けたい。ただでさえ辛い状況なのに勝手に誤解されて悪口言われて。そういうのは、俺だけで十分だ」


 向田美優を救うこと、それが今できる自分にとっての『善い』ことだと思った。


 今しなくてはならないことだと思った。


 あの時何もしてあげられなかったからこそ動かなくてはいけないと、心がそう叫んでいた。


「…あたしの作る作品には、ずっと何かが足りてないって思ってたんだ」


 綾多華は横目で与謝を見ながら「お前といれば、その答えがわかるかもしれない」と呟いた。


 そして立ち上がって一度大きく伸びをし、「よし、それじゃまずは何から始めるようか」と高らかに宣言した。


「え?何からって?」


「向田って子助けるんだろ?お前のその状況もなんとしなくちゃいけねぇし」


 綾多華は手のひらを拳で突いてやる気を見せた。


「協力してくれるのか?」


「透明人間を傍で見れるチャンスを逃す手はねぇ。まあ、見えはしねぇけど」


 カカカと綾多華は上機嫌に笑った。


「三原が本当にそんなことやってんならなんとかしねぇと。待ってろ変態野郎、その気持ち悪い化けの皮剥いでやるからな」


 綾多華はさらに口角を上げ、悪魔のような笑みを浮かべた。敵軍に立ち向かう際の武者震いと似たようなものだろうか、綾多華からは与謝以上のやる気を感じた。


「なんか、ワクワクしてないか?」


「そりゃするって。映画監督を志す身としてこの上ない経験だ。仮初の姿で人を欺く悪人を透明人間が追い詰める、そんな場面を間近で見れて、そのディレクションまでできるなんてな。とはいえ透明人間が好き勝手し出したら学校中がパニックになっちまう。三原を追い詰めた際にワンチャンヒーローになれるかもって目がくらんで、透明人間参上!なんて叫ぶなよ?」


「叫ぶかよ。誰にもバレないよう慎重に動くって」


 まるで面白そうな映画を見る前のようなテンションで話す綾多華に対して、他人事だと思ってという感情を覚えはしたが、それ以上に味方が出来たことが嬉しかった。それだけで、何でもできるような万能感を覚えたほどであった。


 急に綾多華は与謝の方に手を伸ばし、輪郭を確かめた後首に腕を回して引き寄せた。


「それにこれは噂なんだけど」と言って綾多華はふふふと笑った後、


「三原の親父は相当な金持ちらしい。もし弱みでも握れたらスタジオやらスタッフやら公演会場やら莫大な資金やら、色々と捗りそうってもんじゃねぇか」


 クククと悪魔のような笑いが漏れ聞こえてきた。数分前まで世界中の人を笑顔にしたいと言っていた人間とは思えない悪意に満ち溢れた笑顔であった。性格は、そこまで良くないのかもしれない。


「…できるだけ、穏便にやってこう」


 穏便、この言葉の尺度の調整が今後の課題となりそうだ。

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