第1章 麒麟の透明人間(8)

 行先もなく、行く末もわからず進める足がこれほど重たいとは思わなかった。


 与謝はまさに足を引きづるように動かしながら校舎へと戻った。


 廊下の突き当たりを曲がると、そこには階段が現れた。2階へと続く階段だ。この足で階段を上がるのかとため息が漏れたが、足を止めることだけはしたくなかった。行くべきところなどないのだが、足は動かしていたかった。立ち止まってしまったら、もうこの足を動かすことはできない気がしたからだ。


 自分の声はもう、誰にも届かなくなってしまったのだろうか。もしかしたらもう、幽霊的な存在になってしまったのかもしれない。そんな思いにとらわれるほどどんどん足が重たくなっていった。重たくなるほど足の感覚ははっきりと伝わってくる。足があるのだから、まだ生きてるんだなと、独り言を呟いては乾いた笑いを浮かべてみる。無理やりでも笑ってみると、いくばくか気分が晴れたような気がした。


 呼吸を整えて、再び重たい足を引きづりながら階段を一歩一歩と上がっていく。一段足を上げて上るたびに、これからどうすべきなのかと不安の気持ちが募っていった。


 幽霊でなかったとしても問題は山積みだ。誰にも透明人間だと明かせず、自分がここにいることも伏せなくてはならない。どうにかさっき聞いた話を誰かに打ち明けたいが、友達どころか知り合いすらいやしない。今となってはもう、作ることもできない。


 まるで空気のような自分は、文字通りこの学校で息をすることくらいしか許されない存在となってしまった。その虚しさを考えれば考えるほど、胸が痛くなった。


 階段の中間にある踊り場にたどり着いたころには息が切れていた。これしきで息が切れるほど体力がないわけではないはずだが、重い人生に思いを馳せながら階段を上るとこうも体が悲鳴を上げるのか。与謝は膝に手をついて呼吸をし、一度体をそらせて大きく深呼吸をした。


 残りの階段は上ってきた段数よりも多い気がしてくる。その先にある2階のフロアを遠い目で眺めていると、突如赤髪の女子生徒がフロアから飛び出してきた。


 その女子生徒は颯爽と階段を駆け下り、与謝が億劫に感じていた段数全てを一歩で飛び下りてきた。


 宙を舞うその姿に呆気にとられていた与謝であったが、その姿に目を奪われている場合ではなかった。与謝は急いで一歩後ろに下がって彼女の落下地点からズレてぶつからないように避けた。


 しかし、その避けた方向が悪かった。下がって避けた方向は、依然階段を下ろうとする彼女の進行方向上にあった。飛び降りてくる彼女を避けることはできたが、その後走り始める彼女の進行方向から外れてはいなかったのだ。再びどこかに避けるような余裕はない。


 万事休す。


 走り出した彼女と正面から思いっきりぶつかってしまった。


「ぐあっ!」


「いてっ!」


 2人は思いっきり額をぶつけて衝突し、お互い後ろに吹っ飛ばされた。


 彼女が肩にかけていたハンドバックも宙に放り出され、中から未使用の花火が大量に飛び出して階段に散らばった。


 与謝はぶつかった瞬間、何か不可思議な次元に迷い込んだような錯覚を覚えた。


 気を失ってしまったのだろうか。暗闇の中、何かが自分の周りを駆けまわっているような気がする。


 シャン、シャン。


 真っ暗な視界の中、幻想的な音だけが響き渡る。


 鈴の音のような音だが、どうしてか与謝にはそれが足音のように感じられた。誰の足音かはわからない、何の足音なのかも定かではない。


 その音は与謝の辺りを漂って、目の前で止まった。そしてぼんやりと、ゆっくりと暖かな光が出現した。その光景には覚えがあった。病室で見た夢幻の光であった。それが音の正体なのだろうか。


 与謝はゆっくりと、夢の時と同じように再び光に手を伸ばした。しかし触れることはできない。目の前にあるようで、まるで何千光年も離れているかのような。さらに手を伸ばすとその光は一気に膨れ上がり、その空間を一瞬で満たした。あまりのまぶしさに透明な手をかざして視界を塞ごうとしたが意味はなく、その光に飲み込まれ、ゆっくりと何かに引き戻されるような感覚が体を襲った。


 気づいたときには、与謝の視界には先ほど見ていた階段の風景が広がっていた。そしてまるで世界が反転したかのように目の前の景色が回転し始め、ガツンと後頭部に激痛が走った。どうやら地面に倒れて頭を打ったようだ。先ほど見ていたのは本当に一瞬の出来事であったようだと、頭を押さえながら理解した。


「いってぇ…」


 赤髪の女子生徒は額に手を当てながら体を起こす。


 ショートヘアーのきれいな赤髪に、左側だけ編み込みが入っているのが見えた。そこから見える左耳にはいくつものピアスが見え、窓から差し込む光を反射させてキラキラと輝いている。


「なんだってんだ…」


 女子生徒は頭を抑えながら辺りを見渡す。そして階段に散らばる花火を見て、慌てて回収し始める。

「やべぇ。おい、テメェも手伝え!」

 女子生徒は花火を集めながらそう声をかけた。


 与謝はその慌てた声に反応し、「あ、ああ。ごめん」と答えて言われるがままに花火の回収をし始めた。自分が透明人間だということを忘れて。


「……ん?」


 与謝が手に持つ度に次々と消えていく花火を見て、女子生徒は眉を顰める。そしてすぐに、まるで幽霊でも見たような驚きの声を上げた。


「な、なんだお前?!」


 適当な生徒とぶつかったもんだと思っていた女子生徒は、次々と花火を飲み込んでいくかのような謎の物体とぶつかったんだと気づき驚愕していた。


 与謝はそこでようやく自分が透明人間であったことを思い出した。


 そしてそんな自分が今、目の前の女子生徒に見つかってしまったということ。


 自分の置かれている状況を振り返り、一気にその現実が重くのしかかってきた。与謝の顔が見る見る青ざめていく。誰にも見えてはいないが。


「……話をしよう」


「ななななんだ?!喋った?!」


 女子生徒は後ずさって与謝から距離を取った。


「ちょっと待って!話をしよう!?俺悪者じゃないから!ほら、手伝うし!」


 与謝は大慌てで散らばる花火をかき集めた。ひとまず自分が悪い存在ではないことを示すために手っ取り早い行動がそれしか思い浮かばなかったからだ。


「なんか消えてくんだけど!こわ!」


「怖くない!怖くないよぉ!」


 必死に反論するが、女子生徒目線からは花火が次々と姿を消していく様にしか見えなかった。


 どうにも与謝には、触れた物を与謝と同じように透明化させてしまう力があるようだが、テンパっている与謝はそのことに一才気付いていなかった。というよりも、気づきようがなかった。与謝自身には手に持っている花火がはっきりと見えていたからだ。与謝の透明にした物は与謝自身には透明に見えない。だとすれば、与謝がそのことに気づくことは不可能であった。誰かがいて初めて気づくその認識のずれは、これまでも常に孤独であった与謝とは無縁のものでもあったからだ。


 次々消えていく花火に驚きの表情を浮かべていた女子生徒であったが、何かを思いついたのか目を見開いて与謝に話しかけた。


「……お前、ちょっとこの花火持っててくれ!全部!」


 そう言って女子生徒は手に持っていた花火を与謝の方に差し出した。


「な、なに?」


「いいから!これ持ってて!」


 階段の上から「待てぇ!」という男性の声が聞こえてきた。それを聞き、女子生徒は大慌てで花火をかき集めた。それに釣られるように、与謝も大急ぎで花火を回収する。


 全ての花火の回収が終わり、与謝は適当に渡された大量の花火をなんとか落とさないようバランスを取って立っていた。そのタイミングで、階段の上から息を切らした男性が現れた。どこか見覚えがある。そうだ、今朝掲示板で声を荒げていた教師だ。


「峯ぇ……大人しくしろぉ……」


 ボロボロになりながら、その教師は震える指で階下にいる赤髪の女子生徒を指差した。


「……峯?」


 与謝は小さく呟いた。今朝、花火やら校門の装飾やらド派手なことを行っていた生徒の名前が確か峯だったはずだ。相当な問題児だと踏んでいたのでてっきり男子生徒かと思っていたのだが、まさか彼女だったとは。あの時はこいつを超えて有名人になってやるなんて意気込んでいたが、こんな状況になって出会うとは。運命とは何とも難しいものだ。


「お前が、今朝の花火、の、犯人だろ……さっき、花火を持ち運んでいるのを見たんだ…証拠が見つかれば、今度こそ停学は免れんぞ……」


 息を切らしながらも、ゆっくりと教師は要件を伝えた。


 なるほど、だからこの峯という女子生徒は花火を持って慌てて逃げてたわけか。証拠隠滅の最中に見つかったと、おおよそそう言ったところだろう。ということは、さっき廊下で襲い掛かってきたロケット花火もこの峯がぶっぱなしたせいだろうか。おい、と言いたいところだが今はこの花火をなんとか保つだけで精いっぱいであった。あとで文句を言ってやると与謝は心に誓った。


「何言ってるかわかんねぇっすよ、矢代先生。どこに花火持ってるって言うんすか?」


 峯はわざとらしく両手を広げて見せた。


「そんなはずはない……どこに隠したか、答えなさい…」


「何のことだかさっぱり。花火なんて知らねーっすよ」


 峯は不敵に笑いながら答えた。


 見つからないのも当然、与謝が全ての花火を必死に隠しているのだから。


 何もない階段の踊り場で突如として花火が消えるはずがない。教師としても証拠が何もなければそれ以上の追及はできない。息を切らした教師は不満を露わにしながらも「次は絶対とっちめてやる……」と呟いてそのまま消えていった。


「……わたたたっ!」


 与謝は何とかバランスを保って大量の花火を持ち続けていたわけだが、教師がいなくなって気が緩んだのかバランスを崩し、そのまま全てを階段に落としてしまった。


 与謝もそのまま倒れ込み、軽くなった腕は痺れと共に開放感を感じた。


「助かったわ、ありがと」


 感謝の意を伝えながらも、峯は怪訝な表情を浮かべて与謝の方を眺めていた。


「……とりあえず、自己紹介をさせてください」


 地面に倒れ込みながら、与謝はそのチャンスを求めた。


 峯はその目に見えない存在を不審に思いながらも、与謝を落ち着いて話ができる場所に案内した。

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