第1章 麒麟の透明人間(7)

 居心地の悪さから教室を飛び出したわけであるが、特に行く場所などなかった。


 既に他の教室では授業が始まっており、自分がいなくても当たり前のように回っている世界を目の当たりにして少し悲しい気持ちになった。


 フラフラと宛もなく彷徨い、ほとんど初めて見る学校の中は新鮮さと共に教室で感じたものとは別の居心地の悪さで溢れていて気味が悪かった。どこまでもアウェーで、疎外感を感じずにはいられなかった。


 ふと渡り廊下から中庭を見下ろしたところ、先ほど教室で見かけた三原という生徒を見かけた。


 端正な顔立ちに加え他学年にも知られている人気、まるで自分が思い描いていたような人気者そのものであった。


 あんな風に学校生活を送れたら楽しいだろうなと、与謝は彼に向かって手を伸ばし、その透明な手越しに彼の姿を目で追っていた。


 どうして自分は透明なんだろうと、考えないようにしていたどうしようもない疑問が頭をよぎって仕方がなかった。


 三原の姿が見えなくなったのを確認し、与謝は再びトボトボと宛てもない放浪を再開した。



 ふらついているうち、体育館の方に来ていた。


 授業は行われておらず、風の音が聞こえるだけで閑散としている。覗いてみると館内はかなり大きく、ここでスポーツができたら楽しいだろうなとぼんやりと考えていた。そこでバスケをして友人達に囲まれている自分の姿を想像して、また悲しくなった。

 ここにいたら永遠とその悲しい理想が映し出されてしまうような気がしたため、与謝は再び校舎の方に戻ることにした。


 とぼとぼ歩いていると、校舎裏へと続く通路の方に人影を見つけた。1人は男子生徒で、もう1人は警備員のようだ。会話は聞こえないが、なにやら隠れて話し込んでいるように見える。


 本来そういったところに近づくべきではないのだが、与謝は自分が透明人間だということを思い出した。


 これくらいしてもいいだろうと、与謝はそっと近寄って会話の盗み聞きをしてみようと画策した。抜き足差し足、ゆっくりと2人に近づいていく。


「終わったかと思ったけどなんとかなったな」


 男子生徒の話す内容が聞き取れた。


 会話の内容に与謝は悪い予感を感じ、さらに聞き耳を立てた。注意深く聞いてみると、その声はどこか聞き覚えのあるものだとわかった。


 さらにゆっくりと近づいていき、その男子生徒の正面に移動した。


 見惚れるような甘いマスク、きれいな茶色の髪。


 先ほど渡り廊下から羨望の眼差しで眺めていた人気者、三原の姿がそこにはあった。


「明彦さん、自分で仕掛けたんですか?」


 鼻で笑いながら、タバコを手に持つ警備員の男性が三原に声をかけた。20代半ばほどだろう、彼の首からぶら下がる社員証には「竹内」という名前が明記されていた。どこかチャラけた雰囲気を漂わせ、ただの警備員とは思えない風貌をしていた。


「そんな危険なことしないよ。倉田にやらせた。あいつしくじりやがって」


「なるほど、あいつなら納得です。すいませんね、うちの奴ら仕事が雑で」


 警備員の言葉に、三原は苦笑いを浮かべながら頷いた。


「気にしないでよ。手足として動いてくれるお前らには感謝してんだからさ。つっても、カメラ仕掛けるのは任せろってあいつが言ってきたのに。信じるんじゃなかった」


「今回の盗撮映像はいつも以上に高値で売れると思ったから率先してやったんだと思いますよ。取り分多めにしてもらうために。まあしくじりましたけど」


「そういうことね。まあ確かに美優レベルの女の映像は高値で売れるだろうな。俺は映像さえもらえればどうでもいいけど」


 目の前で繰り広げられる会話に与謝は目を丸くし、ゴクリと息を呑んだ。


 盗撮?高値で売れる?向田美優の彼氏とも噂されていたはずの男が、一体何の話をしているんだ。今朝向田美優に寄り添っていたあの優しそうな姿、その人となりから出てくるとは思えない言葉の数々に与謝は面食らっていた。


「三原さんの伝手でこうやって学校に入りこめてるんです。取り分欲しければ分配しますよ?」


「いいよ。別に金には困ってない。それに言ったでしょ?俺は盗撮した映像が手に入ればそれでいいんだ。お前らはそれを請け負ってくれてる。俺の取り分は、その依頼料ってことで」


「盗撮映像なんてもらってどうすんすか?」


 その言葉を聞いて、三原は口角を上げてにやりと笑みを浮かべた。


「盗撮ってのは、芸術なんだよ。そこにしか生まれないエナジーがあるんだ。誰にも見せたことのない素の姿、見られてるとは思わないから見せる表情……最高に興奮と思わない?」


 さわやかな笑顔を醜く崩した三原の表情は、これまでの笑顔が作りものであることを物語るには十分なほど自然に生み出されたようなものに見えた。


「ド変態ですね、本当」


 竹内は忖度することなく、笑顔でそう返答した。その笑顔に対し、三原は怒るでもなくただ鼻で笑って「カメラ仕掛けてるお前らも同罪だ」とだけ返した。


「とはいえ今朝は肝が冷えたよ。俺の唯一の楽しみが失われるところだった」


 三原は乾いた笑みを浮かべる。


「彼女を落とせてたら楽だったんすけどね。そうすれば家やホテル連れてってやりたい放題だったのに」


 警備員はそう言って三原をからかった。三原も不満の表情を浮かべて言葉を紡ぐ。


「あの女ガード固すぎ。実質付き合ってるレベルまで外堀埋めたのに一向に振り向かなかった」


「明彦さんでも落とせない女なんて久々っすね」


「ああ。あの女舐めやがって。だがそういう難しい女ほど興奮するってもんだ。見てろ?絶対あの女落として、俺の作品に加えてやるから」


 2人して意地悪く笑い合い、警備員の男はタバコを地面に落として踏みつけた。


「でも本当バレなくてよかったですね。まあ明彦さんが関わってるなんて誰も思わないと思いますけど」


 意地悪く笑う警備員に三原も微笑み返す。


「スポーツも勉強もできて、イケメンで、学校1の人気者であるこの俺がこんなことしてるわけがない。多分俺が部室でカメラ仕掛けてるところを見られたとしても、傍にいた無関係の学生に罪を擦り付ければそっちに疑いが向くんじゃないかな?そういう周りからの印象ってのは真実よりも人の考えに影響を与えるもんなんだ。それに美優とはベストカップルも同然の間柄。そんな俺が美優を盗撮して、その映像をコレクションしようとしてるなんて誰も思わない」


 悪意の充満した空間で、いまだ2人は会話を続けている。


 その会話に、与謝は耳を疑った。


 そして無意識のうちに2人の方へと足を進め、震える拳を強く握りしめながら、楽しげに話す2人の正面に立ちはだかった。今にも掴みかかろうとするこの怒りを制御できそうになかった。


 そんなことをしたら透明人間の存在がばれてしまうかもしれない。最悪の場合、彼らのやってきたことの濡れ衣を着せられかねない。直接的な行動に出るのは得策ではないことはわかっていた。


 しかし、何か一言でも彼らに言い渡さずにはいられなかった。はやる気持ちを抑えるため、与謝は目をつぶって一度大きく深呼吸をした後、ゆっくりと目を開いて彼らの姿を視界に収めた。


「……おい」


 与謝ははっきりと、彼らに向かってそう声をかけた。しかし彼らは談笑を続け、与謝の声に気づいてはいないようであった。


「おいって言ってんだろ!」


 苛立ちが頂点に達した与謝は大声をあげた。するとようやく、2人は与謝の呼びかけに気づいたのか、会話を中断して与謝の方に顔を向けた。


「…なんか声聞こえなかった?」


「そうですか?風の音とかじゃ?」


 目の前で大声をあげたはずなのに、2人は平然とした態度を崩さなかった。まるで気づいてすらいないかのような様子に、与謝の苛立ちは一層高まった。しかし同時に、疑問の念も芽生えた。この距離にいて聞こえないはずがない。まさかとうとう、声も届かなくなってしまったのだろうか。自分はついに、消えてなくなってしまったのだろうか。


 その疑いを確かめるために、与謝は手を伸ばして三原の肩に触れようとした。すると、2人の視線がある一点に集まった。


「やべ、誰かこっち来てる」


 反対側から何者かが歩いてきているのが見えた。それを見て、三原達は慌ててそそくさと立ち去って行ってしまった。


 待て!と声を上げて止めようとしたが、その言葉が彼らに届くのだろうかと思うと、つい声を呑み込んでしまった。


 結局、ただ逃げていく2人の後姿を見とどけるしかできなかった。


 自分の存在が、もはや視認できない何かになってしまったのではないか。


 そんな恐ろしい疑念が、与謝の心を覆った。

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