第1章 麒麟の透明人間(3)
母親から眠っていた3か月の間の出来事を聞いた。
といっても、学校は休学扱いになっているとか、そういう事務的な話しかなかった。
見舞いには、誰も来なかったらしい。当然だ。高校で初めて友達ができるとワクワクしていたくらいだ。そんな友人など、いるはずもなかった。
次第に喉の痛みも取れて体調は元通りとなった。どうやら声は届くらしい。
はじめ声が聞こえていないようだったので不安に思っていたが、会話における意思疎通は問題なく行えるようであった。そのことに与謝は安堵した。
母親はどんな状態であれ息子が目覚めたということが嬉しいらしく、泣きながら医者に息子のことを話していた。
状況を知らず母親の話を聞いていた医者は、困惑したような、同情するような悲しい顔をしていた。
そんな顔されるのも与謝としては心苦しかった。母親は正常のはずだ。異常なのは、自分の方なのだ。
医者もはじめは信じていなかったが、目の前の現実がある以上受け入れるしかなかった。もちろんどうしてそうなったかなどは医者もわからず、過剰労働によるストレスで幻覚を見てしまっているのだと自分たちの非を考え始め、職場環境の改善を行うらしい。
それはそれで良いことだとは思うが、患者の症状を幻覚として片づけるというのは医者としてどうなのだろうと与謝は複雑な気持ちであった。調べたところでわからないのだとは思うが。
透明になっていること以外特に問題はなさそうということで、まあそれはそれでどうなのかというところではあるが、来週には退院、学校にも行けるとのことだった。
しかし、学校のことを考えれば考えるほど気が滅入って仕方なかった。
3か月遅れで知り合いもいない高校に初めて行く。想像するだけで恐ろしい。それに加えて透明人間。一体どんな罰ゲームだ。せっかく印象を変えるために明るくした髪型も全くもって意味がない。
透明人間でなくても確実に高校デビューに失敗している状態だというのにあまりに状況が悪すぎる。
百歩譲って学校に行ったとしよう。出席していることをどう伝える?そもそも学校に来たということをどう伝える?毎回「与謝証明、学校に来ました!」と叫んで確認してもらう?全員と毎朝ハイタッチして回るか?できるわけないのは言うまでもないことだ。現実的にも、性格的にも。これからそういう陽キャでお調子者で人気者っぽい人間に生まれ変わろうと思っていたんだんだ。その気構えがあるわけがない。
変わるために努力していたというのに、どうして一歩目がこんなに重たくなってしまったのか。
考えれば考えるほど、もう学校生活が詰んでしまっているとしか思えなかった。
気分はどんどん暗くなり、億劫で、憂鬱で、暗い出来事しか頭に浮かばなかった。
「...マジか」
ベッドに横たわりながら、窓の外に広がる景色を眺める。
生徒会長になってやろうと思っていた。
サッカー部に入ってエースになって、できればアディショナルタイムで決勝弾を決められたらなと考えていた。手っ取り早く目立ちそうでモテそうで、人気になりそうだったから。
兼部して軽音部に入ることも考えていた。
歌はそこそこうまいと思っているので、ボーカルとしてバンドに入って学園祭のヒーローになりたかった。あらゆるイベントで主人公になってとことん目立ち、学校中の人が知っているような有名人、そういう人になりたかった。
「...俺が?」
想像の中の自信にあふれた自分の姿を思い浮かべながら、与謝は自虐交じりに弱弱しく、小さく、ぼそっと呟いた。
誰よりも目立つ学校1の有名人になってやろうと意気込んでいる人間を、誰の目にも留まらない透明人間にするなんて、いくら神でも達が悪い。
「...マジかよ」
大きなため息の後に再びそう呟き、雲ひとつない透き通った夜空を眺めることしかできなかった。
などといった感じで落ち込んでいた昨夜とは打って変わって、今朝の与謝のテンションは高かった。
この日ほど睡眠の重要性を実感した日はない。
あれほど落ち込んでいたメンタルが随分と回復したのだ。
様々な暗い現実を目の当たりにはしたが、3か月も意識が戻らなかったのに無事生きていたのは運が良かったのではないか、そう思う心の余裕が生まれていた。
寝て起きても透明人間という現実は変わらなかった。ならもうこういうものとして戦っていかなくてはならない。
それに透明人間になったということは、裏を返せば特別な人間になったということである。
普通の人だったら厳しいところだが、これなら3か月の遅れを挽回できるインパクトとなるかもしれない。
何を落ち込むことがある。
顔が怖いという自分のコンプレックスも解消されて一石二鳥以上の得をしているじゃないか。
良い面にだけ目を向けるとワクワクが止まらなくて病室でちょっとだけ小躍りをしてしまった。椅子で寝ている母親のすぐそばでこんな恥ずかしいことをしても何の問題もない、透明人間の良さすら味わい始めている。
「俺の名前は与謝証明!ちょっと遅れたけど、今日からよろしく!」
扉を思いっきり開けて第一声でそう叫ぶのはどうだろうか?
昨夜はそんなことできないなんて考えていたが、よくよく考えると黙ってしれっと透明人間がそこにいるほうが恐ろしいはずだ。
わざわざそう宣言してしまう方がクラスの人間も受け入れやすいだろう。学校一の有名人になるためには乗り越えなくてはならないハードルだ。
最初はものすごく警戒されるだろうが、それは仕方ない。だが最初だけだ。当たり前に接していけば、いつか理解を得られる。そうに違いない。
清々しい目覚めでポジティブ思考になっていた与謝の脳内では、なんでもできるような万能感が芽生えていた。
「全員とハイタッチ。とかは無理か。俺見えてねぇんだもんな。じゃやっぱ、よろしくって大声一発でいくしかないな!」
崩れ去った高校生活のプラン、人気者への道が再び希望を帯びて脳内で組み直される。
潰えたと思っていた高校デビューのワクワク感は、登校日が近づくにつれてどんどん増していった。
そしてついに登校前日の夜になった。
それはもうワクワクが抑えられず眠ることなどできなかった。
学校への登校手続きの際、透明人間であるということは黙っていてほしいと母親に伝えておいた。こんな能力、いきなり目の前に現れて驚かさない手はないだろう。まあ、目の前に現れるというのが一番難しいのではあるが。だがしかしそのインパクトだけで数ヶ月は学校で話題の中心となれるに違いない。ただそれだけの理由だ。
明日から透明人間として、学校中で話題になる男の物語が始まる。
自分はその物語の主人公なんだ。
ふっと息を吐き、与謝はそのメンタルを自分の中に入れ込んだ。
萎んでいたメンタルは水を吸ったキクラゲの如く肥大化し、人生の物語の新章が幕をあける、その高揚感に包まれていた。
「待ってろクラスメイトたち...この俺が行くぞ...」
形作ったメンタルが背中を押すように体から自信がみなぎる。ニヤけながら目を閉じ、意気込みをボソボソと語る。
「....ぐふふ...ぐふふ...」
気持ちの悪い笑みも止まらない。そんなことをかれこれ2時間続けたのち漸く睡魔に襲われ眠りについた。
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