第1章 麒麟の透明人間(2)
目が覚めると、目の前には見知らぬ天井が広がっていた。
真っ白な部屋で、どこかから薬品のような香りがほのかに香ってくるのがなんとも居心地悪い。
目は覚めたが、頭は朦朧としている。
明日からの高校生活に浮かれていたのに、どうして今こんなところで眠っているのだろう。
そうだ、高校に行かないと。
今は何時だ。いやそもそも、今日は何日なのだろうか。
与謝は辺りを見渡そうと頭を動かそうとするが、脳が追い付かないのか上手く動いてくれない。なんとか部屋のレイアウトがざっくりと確認できた程度だ。
それでわかった、ここは病室であった。
どうしてこんなところで眠っているのか。思い出せることは、あの時の駅での出来事だけ。
3月31日の夕方、家に帰る途中の駅のホームで、与謝の体は原因不明の高熱に襲われた
。すぐに体の力が抜け、まるで筋肉が消滅したかのように重力に逆らえず地面に倒れ込んでしまったところまでは覚えている。
その時、誰かと一緒にいたような気がする。
それが誰なのか、知り合いなのかそうじゃないのかも思い出せない。そもそも記憶が混濁している。電車が来たような音を聞いた気もすれば、電車の中で倒れたような気もしてきた。記憶がグチャグチャで思い出そうとするたびに乱れていく。
結局それでわかることは、確かなことは何もわからないということだけだ。
今の状況から察すに、そのあとすぐに救急車が呼ばれ、近くの総合病院へと搬送されたのだろう。
ひどくうなされていたのは、なんとなく覚えている。
何ともわからない物の怪に体を支配され、それにもがき苦しむというような夢を見ていた。
体を掻きむしる度にその物の怪は場所を変え四方八方から与謝に纏わりついて体中に痛みを刻んでいった。その悪夢が四六時中続いた。
その悪夢に苦しんだのち、辛い呼吸の中で体から何かが抜けていったような感覚を覚えた。
それは夢幻なのか、暖かく色鮮やかな何かであった。体を蝕んでいた物の怪も気づくと消えていた。
魂とは、死ぬとはこういうことなのかと悟った。随分あっさりと、自分は死ぬらしい。
頑張ってもお前は変われやしない、何者にもなれはしないんだ。そんな現実を突きつけられた気がした。
打ちのめされながらも、このままただあっさりと死んでしまうのが悔しかった。
まだ死にたくない。
友達と放課後遊びに行ったり、カラオケに行ったり、まだそんなことすらやれていない。
そういうことをしてみたい、そういうことができる、新しい自分になりたいんだ!
目の前に浮かぶ何かに訴えかけようともがくが、与謝の体は動かなかった。
動かないが意識の上で手を伸ばし、離れていくあたたかな幻を取り戻そうと手を伸ばす。
目には見えない手を伸ばし、行くな行くなと叫びながら離れていく幻の光をつかみ取ったその瞬間、与謝は見慣れぬベッドの上で目を覚ましたのであった。
次第に意識がはっきりとし、卓上のデジタル時計を見た。
時刻は23時30分。7月2日と、そう表示されていた。
ただの数字の羅列はまるで黒魔法かのように与謝の心を乱した。
4月、5月、6月。3か月だ。その3か月の記憶がない。
高校1年生にとってもっとも重要で、その先の学校生活を決定づける貴重な最初の3か月を、このベッドの上で過ごしたという現実は、今の与謝には受け入れがたかった。
取返しが付かないことになってしまった現実を理解したとしても、頭がそれを受け入れることができなかった。
高校デビューを飾り、学校1の人気者としての生活を始めようとしていた少年は、一度も学校に行くことなく3か月を病院のベッドの上で過ごしていたのだ。
一粒頬を流れた汗が目に沁み、どんどんと涙があふれてきた。
見知らぬ天井を眺め、ふと天井に手を伸ばした時、あの夢の感覚とリンクした。
夢で見たあの暖かく色鮮やかな何かに手を伸ばした時の感覚、目には見えない手を伸ばしている時のあの感覚がそこにあった。
反対の手を動かそうとしたときに何かを持っていることに気づき、見てみると母親が手を握ったままベッドの端で眠っていた。
看病をしたまま眠ってしまったのだろう。
母親の顔にはうっすらと涙の跡が残っていた。
与謝の動きを察知したのか、母親はゆっくりと瞼を開ける。
「うーん...」
与謝は慌てて涙をぬぐい、体勢を楽にして母親に話しかけてみた。
「なあ母さん、俺ずっと寝てた?」
久しぶりに声を出したからか、喉が焼けるように痛い。声も小さかったことだろう。母親の耳には届かなかったようだ。
「……なあ、母さん」
気づいてもらうために母親が握っている手に力を込めた。3か月の間ただ握ることしかできなかった手に握り返され、母親は目を見開いた。
「証明?あなた、気がついたの?!」
母親はこちらを見たが、微妙に焦点があっておらず、どこか見透かされているような気味の悪い感覚を覚えた。そのままキョロキョロと病室を見まわし、再びこちらを見た。
「...証明?」
小首をかしげながらこちらを見ている。
「なあ母さん、俺」
握られている手にさらに力を込めて握り返し、少しだけこちらに引き寄せた。
「きゃあああ!え?!え?!」
母親は握っていた手を即座に放して叫び声と共に後ずさった。いつの間にか自分の手にコインが入っていた、というような手品で観客が似たような反応をしていたのを見たことがある。何かよくわからないものが手の中にあった、そういう類の驚き方だった。
「いやちょっと!」
与謝は咄嗟に母親の方に手を伸ばした。
風が吹き、カーテンが少し開かれて月明かりが与謝の腕を照らした。
母親は病室の隅まで逃げていって慌てる手つきで部屋の電気をつけた。部屋の電気がつき、月明かりに照らされていた与謝の腕だけではなく、姿全体が露わになった。
露わにならなかった、というのが正しいのかもしれない。
「……は?」
与謝は自分の両手を見た。
確実に見ているが、見えなかった。視線を両足に移しても同様で、動く感覚こそあるものの掛け布団やシーツの皺が蠢くだけで自分の足を視認できなかった。
「....いやいやいや」
掛け布団をさっと放り投げてベッドに座り、与謝はすっと立ち上がった。
自ずと宙を舞ったかのように見える掛け布団に母親が隅で驚く。
身構える母親の前を通り過ぎ、与謝はそのままお手洗いに向かった。洗面台の前に立ち、手探りでスイッチを探してあかりをつけた。
パッと一瞬で光が空間を覆い、目の前の鏡に全てが映し出された。
そこには、何も映っていなかった。
「はああああああ?!」
与謝の絶叫が病院中にこだました。
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