プロローグ 合コンの透明人間(3)

 帰り道、美沙の足取りは重たかった。


 合コンが終わった後、透明人間は気づくといなくなってしまっていた。まだ謝罪も、お礼すら言えていないのに別れてしまった。そのことが心残りであった。


 元々都市伝説みたいなものだと思っていた透明人間、また会うためにはどうすればいいのだろうか。神様に会うためにどうすればいいかと考えて頭を悩ませない人はいないだろう。


 美沙は歩きながら小さくため息をついた。


 そして落ち込んだ気分は明日からのことを考えてさらに落ち込んだ。


 もちろんあんなことを祥子が許すはずがない。


 明日から会社でどうなるんだろうか。


 その不安は募るばかりであったが、どういうわけかそのことに関しては意外と悲観的にはならなかった。おそらく、透明人間が祥子にはっきりと言い返してくれたからだろう。


 まさに青天の霹靂だ。


 会社の人ですら従うことしかできない祥子に言い返した光景は、美沙にも希望の光を見せた。

 今日の出来事は確実に明日から何かが変わるきっかけとなったはずだ。心の中がすーっと晴れたような気がする。


 それもこれも全てあの透明人間のおかげだ。


 なのにもう会うこともできないとは。まだ話したいことがいっぱいあったのに。


 ふと夜空を見上げると、煌めく星々の美しさに見とれてしまっていた。


 毎日俯いて歩き、自分の足と汚れた道路ばかり見ていて気付かなかった。当たり前のようにある星々がこうも心を打つものだったのかと感動を覚えた。


 ふと、祥子はあの透明人間の言葉を聞いて何を思っただろうかと考えた。


 改心し、誰かを貶めるような非道なことをやめてくれたらいいなと、どうにかあのまっすぐな思いが、彼女にも届いていてほしかった。


 しかし、そんな甘い望みは、突如背後から聞こえてきた声によって打ち砕かれた。


「ちょっと待ちなさいよ、美沙」


 聞き覚えのある、しかし聞きたくはない声が後ろから聞こえ、美沙は歩みを止めた。


 すがすがしい気持ちが濁っていくのを感じた。足を止め、美沙は半身を振り返った。


 そこには祥子の艶っぽい仕草と、ひねくれた笑みが待っていた。


「ちょっと付き合いなさいよ。断ったら、わかるわよね?」


 祥子の脅しが耳に突き刺さった。頭の中に響くその言葉は、再び美沙の心を凍らせた。


 星々を輝いて見せていた酔いもとっくに覚め、まるで前の状態に戻ってしまったかのように、俯いて彼女の後について行くことしかできなかった。




「調子乗ってんじゃないわよ」


 祥子は強引に美沙の手首をつかみ、路地裏へと引きずり込んでいった。


 周囲を見渡すと、誰一人通りかからない暗い空間だった。先ほどまで輝いて見えた星空も、今はその輝きを失ったかのように、美沙の目には色あせて映っていた。


「化け物に守ってもらえてよかったね。あたしの滑稽な姿が見れて満足?」


 祥子の冷たい言葉が美沙の耳に突き刺さった。


「そ、そんなこと…」


「嘘つかないでよ。転んだ私を見て笑ってるあんたの顔、あたしははっきり見たんだから」


 祥子の目は鋭く睨みつけられ、怒りに燃えている。


 嘘だ。美沙はあの時のことを鮮明に覚えていた。


 あの時は庇ってくれた透明人間のことで頭がいっぱいで、祥子にまで気が回らなかった。全くもって、視界にすら入っていなかった。そんな顔をしていたはずがない。


「あの透明人間、あんたが呼んだんでしょ。随分親しそうだったものね。あいつだけじゃない、あの場にいた全員があたしを笑っていたわ。みんなあたしを傷つける為にあんたが集めたんでしょ?きっとそうに違いないわ!」


 祥子はますます熱を帯びた口調になり、その瞳が血走っているのが見えた。


 そんなことがありえないのはちょっと考えればわかることだ。


 しかしどこまでも自分が中心で、その例外を許さない祥子にとって、その被害妄想は膨大に膨れ上がっていった。


「違う、そんなこと…」と否定をするが、祥子にそんな言葉は届かなかった。


「全部あんたが悪いのよ」


 祥子は容赦なく追及する。その言葉に美沙の体は引き締まり、更なる非難が続くことを覚悟した。


「明日からあんた、あたしの奴隷だから。仕事も雑用も全部、あたしの代わりにやりなさい、一生ね。それで今回のことは許してあげる」


 祥子の口調は冷たく、断固として動かし難い判決のように聞こえた。祥子はそれだけ言い残すと、美沙のことを軽くどついた後去っていった。


 その背中を見つめる美沙の瞳からは、徐々に希望が失われていった。


 しかし、気持ちがどんどんと暗くなっていく中、心を照らすように一筋の光が差し込んできた。


 それは透明人間との出会いが残した、温かな記憶だった。


 彼が伝えてくれた言葉が、自然と脳内に呼び起こされていく。


『もし今後美沙さんが、たった1人で何かに立ち向かわなきゃならないって時が来たらさ。そん時は、俺が一緒にいると思ってみてください』


 今がその時だと、美沙は拳を握りしめた。


 私は1人じゃないんだと、そう考えるだけで何倍も拳に力を込めることができた。


 あの人が、そばにいてくれている。


 ここで一歩踏み出せなかったら、もう自分は一生変われない。一生言いなりで弱い自分のままだ。


 そんなのは、嫌だ。


 祥子には心を改めてほしいなんて願っておいて、自分がこのままじゃ何も変わらない。


 変わりたいのは、私だ。


 変わらなくちゃいけないのは、私の方なんだ。


 口にするのは、怖かった。どんな未来が待っているか想像するだけでも恐ろしかった。しかし今なら踏み出せる、そんな気がした。


 私は1人じゃない。私には、一緒に戦ってくれる心強い味方がいるのだから。


「…嫌だ」


 美沙は小さく、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。そして大きく息を吸い、今度は去り行く祥子の背中に向かって、「そんなの嫌だ!」と大声で叫んだ。


「私はもう、祥子ちゃんの言いなりにはなりたくない!」


 その言葉を聞いて、祥子はピタリと足を止めた。そしてゆっくりと振り向いて、鋭い眼光が美沙を貫く。


 その視線に一瞬たじろいだが、ここで負けるわけにはいかない。美沙は息を飲んでしっかりと祥子の目を見据えた。


「…なに?明日からどうなってもいいわけ?」


「どうなってもいい、わけじゃない…でももう、祥子ちゃんの言いなりでいるのは嫌。私は私。誰かの道具じゃない。私には私の人生がある。私は、私の思う私でありたい!」


 決意に満ちた美沙の瞳に、祥子が顔を歪める。その顔をぐちゃぐちゃにしてやりたいと、祥子の心の中に悪意が満ちていく。


「……知ったこっちゃないわよ、そんなの」


 いたすらに笑う祥子の背後から、何者かが近づいてきた。


 その恰幅のある体格、その立ち姿は初めて見た時より何倍も大きく感じる。不気味な笑みを浮かべた白井がそこに立っていた。その薄気味悪い笑顔に、美沙の背筋が凍った。


「この人が、どうしても美沙を紹介してほしいって頼み込んできてね?だからここに呼んだの。美沙は、人気のないところで大男に迫られて興奮する変態だったものね?だから、強引に迫られるの、大好きだよね?」


 意地悪く祥子は笑った。


「優しくするからさ…あ、苦しいほうが、好きかな?」


 手をもみながら、下品な笑顔を浮かべた白井が近寄ってくる。


「ずっと君のことが気になっててね……安心して、無茶苦茶にしてあげるから」


 美沙はあまりの恐ろしさに、腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。そうなっても体は拒絶を表し、足を動かして必死にその場から逃げ出そうとする。


「逃げないでよ…一緒に楽しもうじゃないか」


 じわじわと距離が縮まっていく。


 祥子は不気味に口角を上げて微笑み、「あたしに逆らうからこうなるのよ」と呟いた。


「もう我慢できないよ美沙ちゃん……美沙ちゃん!」


 鼻息を荒らくした白井はとうとう抑えていた欲望を抑えられなくなり、美沙にめがけて飛びついてきた。


 美沙は悲鳴を上げながら体を縮めた。


 本当は、傍にいないことなんてわかっている。


 自分を奮い立たせるためのおまじないでしかないなんてわかってる。


 でももし傍にいてくれているのなら、


 私を助けてください。


 美沙は目を閉じて、その一筋の光を信じた。


 その時であった。


 美沙の真横を、稲妻が駆けた。


 そしてすぐに、その稲妻に追いつこうとするかの如く吹き荒れる風が美沙を包み込んだ。


 目に見えない、しかし美沙を支えるように吹いた風は、再び目の前にその透明な姿を現した。


「おらぁ!」


 美沙の背後から現れた透明人間は、思いっきり白井に飛び蹴りを食らわし、白井は5メートルは優に吹っ飛んでいった。


 白井はそのまま祥子の方に飛んでいき、祥子は悲鳴を上げながら白井のことをなんとか避けた。


「…どうして……」


 目を見開きながら、美沙は透明人間に尋ねた。


「引き受けた依頼は完遂します、それが俺らなんで」


 依頼。その言葉で美沙は合コンでの会話を思い出した。


『その時が来たら、一緒にいてください』


 あんな些細な会話だけでここに駆けつけてくれた。その事実が、美沙の心に深く染み渡っていく。


 姿が見えないからこそ、その純粋な優しさがより一層際立って感じられた。彼の明るく真っ直ぐな言葉や姿勢に、美沙の目から涙が溢れた。


 目に見えないはずなのに、そこにいるかもわからない存在のはずなのに、彼の笑顔が見えたような気がした。心の暖かさに直接触れて、もはや涙を止められなかった。


「立てますか?手を出してください」


 透明人間は驚かさないようにゆっくりと美沙の手を掴み、丁寧に体を起こした。触れた手の温かさが伝わってくる。


 奥で祥子も体勢を立て直し、キッと美沙のことを睨みつけた。


「なんなのよ…邪魔ばかり…何もない透明人間の分際で!」


「うるせぇよ。全部他人のせいにして、他人の成功も奪い取って、何もないのはあんたも同じだろうが!」


 透明人間の反論に、祥子は奥歯を噛みしめて不快をあらわにする。


「1人で立ち向かった美沙さんのがよっぽどすげぇ人だと思うぜ」


 あふれ出る気持ちが抑えられなかった。正面で牙をむき出しにして睨みを聞かせる祥子の姿を見ても、美沙の心にはもはや一切の恐れすら芽生えなかった。それほどまでに、駆けつけてくれた透明人間の存在は大きかった。


「み、美沙!」


 祥子は怯えた目で美沙の方を見て、訴えかけるように声を上げた。


「あ、あんたわかってんの?あたしの手にかかれば、あんたなんて一瞬でクビにできるのよ?!課長や部長にあることないこと吹き込んだりして居場所なくしてやることなんて造作もないんだから!」


 震える声で告げる祥子の声が耳に届く。先ほどまで感じていた口の重さはもうなかった。


「それでも構わない。クビになったってかまわない。私は、変わるって決めたから」


 美沙の告げた飾り気のない正直な言葉に、祥子は顔を真っ赤にして怒りをあらわにした。


「ふざけんじゃないわよ……調子のんじゃないわよ、あんたみたいな奴が!」


 祥子は真っ赤に染まった顔で美沙を睨みつけ、怒りという感情に任せて美沙に襲い掛かってきた。


 美沙は一瞬たじろいだが、透明人間が間に入って彼女を止めていた。


「もうやめろって、いい加減」


「離せ!離せぇ!」


 暴れ回る祥子であったが、透明人間は彼女のことをがっちりと抑え込んでいた。


 しかしそんな彼女の姿が影となり、もう1人の存在を見落としてしまっていた。


 白井はその影に隠れながら立ち上がり、祥子の脇を抜けて美沙に襲い掛かってきた。


「やべ!」


 透明人間とはいえ、2人同時に襲い掛かられたらカバーしきれない。


 祥子を一旦置いておいて白井を止めるか?だが彼女の暴れっぷりも無視はできない。


 なんて迷ってるうちに白井はもはや美沙の目の前にまで迫っていた。


 考える時間は残されていない。透明人間は隠していた奥の手、出来る限り使わずに解決したかった奥の手に頼ることにした。


「…綾多華ぁ!」


 そう叫んで、透明人間は無理やり近くの壁に手を触れた。


 するとその壁が徐々に色あせていき、まるで電気を消した部屋の中のように真っ黒の壁紙のような色合いに変化をした。


「…なんだ?」


 ガタン、ガタン。


 その壁の方から聞こえてくる不気味な音に、白井は動きを止めた。


 その音は暗闇から小さく響き、そしてどんどん近寄ってきている。壁は未だに真っ黒のまま、しかしその不気味な音だけはどんどん近づいてきている。


 その音の正体が列車だと気づいたときには、祥子たちの姿は車両のライトに照らされていた。


 何の変哲もない壁だと思われていたところが、突如として線路へと変貌した。いや厳密には、線路へと繋がった。電車が正面から、今にも祥子たちに迫ってきている。


「な、なんだこれ?!」


「きゃ、きゃあ!」


 美沙はその迫りくる列車を見て恐怖から腰を抜かして声を上げた。しかしすぐにその視界は何かによって覆われた。まるで衣服を被せられたかのように。


 白井はその光景に目を疑った。今すぐこの場から逃げなくては、壁の奥から迫ってきている電車に轢かれてしまう。しかしあまりの非現実的な出来事に足が動かず、その場から動けなくなってしまった。


 それは祥子も同様であった。迫りくる列車を目にしてからは透明人間からも距離を置いて、ただただ目の前の不可思議に戸惑い目を丸くしていた。


 もはや逃げる時間は残されていない。


 迫りくる列車が自分たちの元までたどり着いたという絶望の瞬間、白井は気を失って倒れてしまった。


 しかし目の前に迫っていた列車はそのまま通り過ぎていき、彼らを轢くようなことはなかった。


 それはまるで、列車が迫りくるという大迫力の映画のワンシーンを見ているかのようであった。


「…俺1人で大丈夫!とか言ってなかったぁ?与謝ぁ」


 腰を抜かした美沙の上空から、低い女性の声が聞こえてきた。


「…ごめぇん綾多華ぁ」


 透明人間のなんとも情けない声が路地裏に響き渡った。


「合コンの数合わせの依頼がどうしてこんなことになってんだよ。まさか修羅場った?」


「違うっつの。人には、色々あるんだよ」


「お前が言うと説得力がちげぇわ」


「だろ?」


 ばさっと、覆われていたものが取り除かれ、美沙の視界が晴れた。


 目の前に飛び込んできたのは、学生服を着た赤髪の女子生徒の後姿であった。

 左サイドに編み込みがあり、ちらりと見える左耳にはいくつかのピアスがつけられている。


 そしてその女子生徒は、美沙に被せて視界を覆っていたジャケットに袖を通した。


 羽織ったジャケットの背には、麒麟の模様が描かれていた。


「麒麟……」


 美沙はその言葉を口にして確信した。


 麒麟のジャケットを着た少女と、姿の見えない透明人間。


 彼ら2人が、『麒麟の透明人間』なのだと。


「う、うう…」


 祥子は朦朧としながら地面に座り込んでいた。まだ状況の整理ができていないが、眼が冴えてくると次第に目の前にいる美沙の姿を睨みつけていた。


 しかしその視界を遮るように透明人間が正面に立ちふさがり、祥子の体を無理やり起こした。


「な、なに?!」


「気を付けなよ?お姉さん」


 赤髪の女子生徒も透明人間の隣に立ち、ジャケットのポケットに手を突っ込んで不敵な笑みを浮かべながら祥子を睨みつけた。


「今後あの人のそばには透明人間がついてる。常にテメェを見張ってるからな……もうだせぇことすんのはやめとけよ?」


 祥子は顔を真っ青に染め、透明人間の拘束が解けたら一目散に逃げだしていってしまった。


「行っちゃった……にしてもさ、電車で轢くって何?バイオレンス過ぎない?綾多華の力ならもっと穏便にできただろ」


 透明人間は気絶した白井の頬を指で突いた。よだれを垂らしたまま気を失ってしまっている。


「昨日ハリーポッター見てたんだよ。その影響で」


「…そんな映画だったっけ?」


「汽車に轢かれそうになるシーンあんじゃん」


「ハリポタ見て印象に残ったシーンそこなの?」


 2人の談笑する姿を、美沙は後ろで唖然として眺めていた。


 厳密には、何もない空間に話しかけている赤髪の女子高生の姿にあっけにとられていた。何もおかしくないと言わんばかりに当たり前に透明人間と話す彼女を見て、彼らの関係性が垣間見れたような気がした。


「あ、あの…」


「ああすいません!大丈夫でした?!」


 透明人間は慌てて美沙に駆け寄った。


「え、ええ……あの、ありがとうございました」


「気にしないでください。てか、かっこよかったっすよ美沙さん!」


 美沙は祥子に言い返した自分の姿を思い出して顔を赤くした。自分のありのままの思いを聞かれたことが少し恥ずかしかった。


「美沙さんならなれますよ、なりたい自分に。応援してます」


 柔らかな声で話す透明人間の言葉に、再び目頭が熱くなるのを感じた。


 その顔を見られるのが恥ずかしく、美沙は頭を下げて、「ありがとうございます」と、声を震わしながら力強く述べた。


「あの、助けてもらってばかりで……そうだ、お礼をさせてください」


「あーいやいいっすよ。依頼とか言ったけど、あれはなんていうか、物は言いようみたいな、そういったほうがかっこいいかなぁみたいなところあったし」


「でも、そういうわけには…」


「なら、こいつフォローしてくれません?」


 赤髪の女子生徒は美沙の正面に立ってスマホの画面を見せた。そこには『レンタル透明人間』というアカウントが表示されていた。


「最近パチモンが増えて伸び悩んでて。しかもこいつが透明人間なもんだから本物って証明も難しくて」


 赤髪の女子生徒は透明人間の肩に寄りかかるようにして話しかけてきた。


 どうして透明人間の位置がわかったのか。誰よりも透明人間のことがわかっているようなその関係性に、美沙はじんわりとした嫉妬を覚えた。


 美沙はスマホから指定されたアカウントをフォローした。


 ふと画面に目をやると、アカウントの画像にはデフォルメされたような小さな麒麟の画像が設定されていた。子麒麟といったところだろうか。なるほど、ここからも『麒麟』のイメージが透明人間についていったのかと納得した。


「…あの、どうしてレンタル透明人間なんてやってるんですか?」


 美沙はふと頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまい、すぐさま後悔した。


 単純な疑問だったとしても、もしその理由がものすごくナイーブなものであったりしたらどうする。自分では到底想像もつかないような壮絶な過去に起因しているのかもしれない。もしくは、国の秘密プロジェクトの類であったり、闇組織に脅されていたりするのではないか。一気に恐怖が美沙の心を覆った。


 しかしその不安は、透明人間の返答ですぐに吹き飛んでいった。


「目立ちたいんすよ、俺」


 その返答に、美沙は困惑の表情を浮かべた。


「俺の夢は、世界中の人全員を笑顔にして、この世で一番の人気者になって、最も目立つ人間になることなんす!」


 はきはきとした様子で透明人間はそう告げた。


「透明人間のお前にはちょっと厳しい夢だな」


 赤髪の女子生徒はからかうように笑いながら、ポンポンと透明人間の頭を撫でた。


「最も目立つ、人間に……」美沙は誰にも聞こえない声量でぽつりと呟いた。


 透明人間なのに、最も目立つ存在になりたい。


 そんなの無理だと、これまでの自分であればすぐにそう思っていたはずだ。


 しかし今は違う。


 その矛盾めいた夢を、どうにかして叶えてほしいと心の底から願っていた。


 透明人間との出会いが全てを変えた。


 言いなりになるしかない人生に絶望し立ち止まっていた私に、新たな一歩を踏み出す勇気を与えてくれたのだ。


 だからこそ、なりたい私になれると言ってくれた彼の言葉に応えるように、透明人間である彼にとっては難しい夢であっても、あなたならできると強く信じ、諦めてほしくないと強く願っていた。


 彼の矛盾した夢を応援する気持ち、この新しい想いに気づいた時、自分の中で変化が起きていることを確信できた。


「じゃあ、駅まで送りますよ。っていっても、俺じゃ頼りないかもですけど」


 たははと笑う透明人間の姿に、美沙は柔らかな微笑みを浮かべながら、小さく首を横に振った。


 頼りないなんて言わないでほしい。


 あなたは私にとっての、スーパーヒーローそのものなのだからと、美沙は心の中で呟いた。


「あ、あの…」


 美沙は歩き始めた彼らの背を呼び止めた。このまま別れたら、もう会えないような気がしたからだ。


「どうかしたっすか?」


 透明人間は歩みを止めて振り返った。


「あの…今度何か依頼しても大丈夫ですか?い、今は特にないんですけど、もし何かあったら…」


 どうにか、彼とまた話をするための口実が欲しかった。


 もしかしたら高額な料金を請求されるのかもしれない。しかしそれは些細な問題にすぎなかった。むしろ、彼との出会いがいつかただの記憶となってしまうことの方が、何物にも代え難い恐怖だったのだ。


 しかし、そんな不安は透明人間の意外なひと言ですっかり氷解した。


「もちろんっすよ!てか依頼なんてなくても連絡ください!もう友達じゃないっすか」


 ニコッと笑いながら、透明人間はそう告げた。その笑顔は見えないものの、声色や雰囲気から、そして赤髪の女子生徒の微笑みからそう察することができた。


「って勝手に言っちまったけど、いいっすかね?俺こんなんですし、怖かったら全然大丈夫なんで!」


「え、あ、いや!その……もちろん。もちろんです!友達に、友達になってください!」


 美沙は戸惑いながらもはっきりとそう伝えた。


 すると透明人間は「よっしゃぁ!」と安堵の叫びを漏らした。


「やったぜ綾多華!また友達増えたぞ!」


「よかったじゃん」


 赤髪の女子生徒は微笑みながらそう告げて再び歩き出した。


「ちなみに明日、草野球の数合わせの依頼入ってるから」赤髪の女子生徒はポツリと呟いた。


「いやだから、なんでそういう依頼受けちゃうのよ?!絶対俺向けじゃないって!」


「仕方ねぇだろ。どうしてもまた彼と一緒に野球がしたいんだ!って泣きつかれたんだから。ちなみにピッチャーらしい」


「一番ダメだって。試合壊れるって!それで勝ってもなんか、ぐちゃぐちゃするって!」


 彼らの背中をじっと眺めながら、美沙は立ち尽くしていた。


 きらめく街の灯に照らされた彼らの姿が、なんとも眩しく映った。


 置いていかれないようにと、美沙は大きく足を踏み出した。


 光の方へ、二人の後を追うように。


 かつての絶望から救われ、希望の道を歩み始めた彼女の足取りは、確かに軽くなっていた。

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