プロローグ 合コンの透明人間(2)

「本当さっき依頼入ったんすよ。どうしても合コンいけなくなってしまったので、代打でレンタルできますかって。一番そういうのに向かないタイプだとは思うんすけど」


「透明人間の噂、本当だったんですね!」


 幹事の男性の隣に座った透明人間は、すぐさまその場の主役となった。


 珍しい存在への好奇心から、ITイケメンや銀行員など男性陣からも次々と質問が投げかけられ、存在すら見えぬはずの彼は、テーブルの視線を全てひとりで受け止めていた。


 透明人間と対角線上に座っている美沙は、もはや氷しか残っていないグラスに口をつけてため息をついた。


 合コンの代打、彼がここに来たのはその依頼のためでしかなかった。


 別にだからどうというわけではない。もちろん依頼なんてしていないし、透明人間がいるなんてただの都市伝説としか思っていなかった。


 それに本当にいたとして、相手は透明人間だ。顔すら見えないこの存在は、ここにいる誰よりも信用できないかもしれない。


 人知れず何かを盗んでいるかもしれないし、もっと恐ろしいことを企てている可能性もある。助けてもらっておいて失礼な話だとは思うが、その警戒心が美沙の中には生まれていた。


 しかし頭ではそうわかっていたとしても、現実とは思えない超常現象であればこの暗い現実を変えてくれるのではないかと、そんな期待をしてしまう自分もいた。


 もし本当に困ってる人を助けてくれる透明人間がいるというのなら、レンタルでもなんでもするから自分を救ってほしいと願ってしまう。


 そういう期待が心の中に芽生えていたからこそ、自分がここにいようといまいと彼はここに来ていたんだという事実が、なんとなく切なかった。矛盾した感情がせめぎ合い、心がどうにも落ち着かなかった。


「レンスケさんって、どうやって依頼とか受けてるんですか?変な依頼とかありました?」


 最も彼に興味を示したのは、意外にもITイケメンであった。祥子と話していた時の笑顔が作り物だったとはっきりわかるくらい、彼は目を輝かせてレンスケとの会話を楽しんでいた。


「ちょっと、私もレンスケ君と話したい!」


「レンスケちゃんあたしのものだもん!」


「いや、俺今日は代打で来ただけっすから…」


 参加者の女性陣、ましてや幹事の女性すらその透明人間に夢中となっていた。


 全ての注目が透明人間に向けられ、まるで蚊帳の外となってしまった祥子は、その状況を腹を立てながら見ていた。


 ITイケメンからの関心がなくなってしまったからだけではない。


 自分が蚊帳の外で中心にいないという状況が認められず、ただただ腹立たしかったのだ。


「…ちょっと皆さーん、透明人間さんばっかりで退屈なんですけどー」

 祥子は作り笑いを浮かべながらわざとらしくそう言った。


「ああ、そうですよね」と言って、ITイケメンは再び張り付けたような笑顔を祥子に向けた。


 そのわかりやすい笑顔に祥子は若干むすっとした表情を浮かべたが、それでも視線がこちらに向いただけでもよしとしては話を始めようとした。


「美沙さん、飲み物頼まれますか?グラス空いてますよ」


 しかしそのITイケメンの視線は、祥子を通り越して美沙に向けられていた。


「あ、いえ。私はその…」


「ソフトドリンクにしますか?」


 ITイケメンは気を使って優しい笑顔でそう告げた。その柔らかな笑顔は、祥子に向けていたものとは違う、心からのものに見えた。


 その笑顔が美沙に向けられた。まるで美沙に敗北したと言わんばかりのその状況に、祥子の怒りはピークに達していた。


「…すみません、ちょっとお手洗い行ってきますねー」


 祥子はにこやかながらも苛立ちを含めた声色でそういって、気持ちを落ち着かせるため席を立ってお手洗いへと向かっていった。


 一緒に来てと誘われ、トイレで苦言を呈されることになるかと警戒したが、祥子は1人でお手洗いに向かっていった。


 それだけでほっとしてしまうのは、やはり体が彼女を恐れているからなのだろう。そのことにため息も漏れた。


 気づくと白井も目の前から消えていた。同じタイミングでお手洗いに向かったらしい。


 佐藤からのちらちらとした視線を感じるが話すようなこともなく、美沙は俯いて再び空のグラスに口をつけた。


「メニューどーぞ」


 パッと、目の前にメニューが表示されているタブレットが現れた。そして聞こえてきたのは、透明人間の声であった。


「こっちメニューなさそうだったんで、持ってきました。正面の席座っちゃってもいいですか?」


 突然の出来事に、美沙は頭の中が真っ白になって反射的に「ど、どうぞ」と発していた。白井の席だが、白井に許可を取る必要があるかなど一切考える余裕はなくなっていた。


 透明人間が、目の前にいる。


 いや目の前にいるかは見えないのでわからないが、とりあえず話ができるところにいる、はず。


 いざ透明人間を前にすると、警戒といってもどうしていいのかわからなかった。


 警戒しようにも、相手は見えないのだ。


 何をどう守ればいいのか、ただただ頭の中が混乱するだけであった。ただただ頭が真っ白になっていき、何を話せばよいのか適当な言葉を紡ぐことができなかった。


「…なんか、すみません」


 いつもの癖で、自然と謝罪の言葉が口から出てきてしまった。


「何頼みますか?って、多分俺じゃ店員呼べないっすけど」


 透明人間は冗談交じりに明るく笑った。


「あ、でも言ってくれれば呼ぶんで!俺頑張りますから!なんかこう、良い感じに驚かさないように近づいて、店員の後ろから、すいませーんって」


 いや、それが一番怖いのでは?と心の中でそう突っ込んで、自然と笑みが零れた。


「いやー申し訳ないっす。俺こんなんだから本当いろんな人に迷惑かけっぱなしで」


「そ、そんなことは…さっきも、助けてもらって…」


「いやいや聞いてくださいよ。この前も、引っ越しの手伝いの依頼で邪魔になっちまったし、イベントで先頭に並んでおいてほしいって依頼も、気づくと抜かされちまってて」


 なんでそんな依頼受けたんだろうと、美沙は再び心の中で突っ込んでいた。


 不器用なのか、その後出てくる失敗話は、どれもどうしてそんな依頼を?というものばかりであった。待ち合わせの目印の依頼を受けた話なんて、自然と噴き出して笑ってしまったくらいであった。


 明るく話すその飾り気のなさに、美沙は自分の中にあるわだかまりが解かされていくのを感じていた。


「…お、これ美味いっすよ!」


 透明人間はもぐもぐと何かを頬張りながら指示代名詞だけでその料理を指し示した。


「これ?これ、これ…」


 美沙は戸惑いながら箸を手に持ち、おそらくこれだろうと思われる目の前のだし巻き卵に手を伸ばした。だしの香ばしい香りと、卵の甘味が絶妙な一品であった。


「それも美味いっすか?」


「あ、これじゃなかったんだ…」


 まるでコントのようなすれ違い、2人して自然と笑ってしまっていた。


 愛想笑いではなく、楽しくて面白くて笑みをこぼしたのはいつぶりだろうか。透明人間との間にあった壁のようなものが完全に壊れたような気がした。


 そこからは早かった。会社の愚痴に付き合ってもらい、透明人間の面白い依頼エピソードなども聞いて、ぽんぽんと会話が弾んでいった。


 常に祥子の顔色を伺い、周りの人の目が気になって仕方なかった美沙にとって、透明人間との会話は何に怯えることもない至福のときであった。


 こんなに楽しい時間は人生でも数えるくらいしかなかった。何に縛られることもなく笑えるこの時間がいつまでも続いてくれればと、そう願わずにはいられなかった。


「……こんなに楽しく話ができたのは久しぶりです。会社では、浮いちゃってるんで」


「隣の女の人は、同じ会社の人なんですよね?あんま仲良くないんすか?」


 透明人間の問いに、美沙は小さく頷いた。最初は警戒心を持っていたのに、もはや自分の身の上話を打ち明けることに抵抗はなかった。


 むしろ話を聞いてほしい。


 その願いのままに、美沙は自分の今の状況を話し始めた。


「…上下関係っていうか。祥子ちゃんに逆らうと、会社で居場所がなくなっちゃうから」


 美沙は遠い目をして、空いたグラスを眺めながら話を続けた。


「祥子ちゃんとは、同期なんです。でも人当たりのいい彼女は、会社でどんどん影響力のある存在になっていって。彼女に異を唱えた人たちは、気づくと会社からいなくなってました。そういう、影の権力者にまでなっていったんです。ほんと、すごいですよね…だから、祥子ちゃんの言いなりになるしかないんです」


 透明人間は、その話をじっと聞いていた。


 ITイケメンも、銀行員も、他の女性たちですら聞いていない自分の話を、目に見えないこの人だけは聞いてくれていると、美沙にははっきりと分かった。


「祥子ちゃんのことは、怖いです。怖いんですけど、そんなことよりもなんか……ただ従うことしかできない自分が、嫌で」


 次々と口から吐露される言葉に、美沙自身でも気づかぬ思いが込められていることに気が付いた。


 それに気づいて、美沙はぎゅっとスカートの裾を掴んだ。自分の思いをなんとか言葉にしようとして、自分が本当は何に悩み苦しんでいるのかがわかった。


 祥子のことが怖くて震えていたんじゃない。抗い、立ち向かう勇気が持てない自分が、ただただ情けなくて嫌だったんだと。


「…気持ちはなんとなくわかるっすよ。俺も透明人間になっちまった時、同じような感じだったと思うから」


 透明人間のその言葉に、美沙は顔を上げた。


「透明人間になってから、誰一人として目が合うことがなくなったんだ。あいさつすら誰ともできなくなって。まるで世界に1人ぼっち。それがすごく怖くて。こんな怖い世界にたった一人で、こんな運命に立ち向かっていく勇気なんて持てなかった。もうなんか、なるようにしかならなくて、夢とか希望とか、全部諦めるしかないんだって思ってた」


 透明人間の声は、どこか上に向かって放たれていた。天を見上げて何かを思い返すように、徒然と述べているような感じだった。


「私も、1人ぼっちです。レンスケさんの辛さに比べたら、申し訳ないくらいちっぽけな話ですけど」


「1人ぼっちに差なんてないっすよ。だって1人ぼっちなんすから」


 あっけらかんと話す透明人間の言葉に、美沙も微笑みながら「確かに」と返答した。


「…そうだ!だったら」


 声が近くで聞こえてきた。透明人間が身を乗り出して話しかけてきたような気がした。


「もし今後美沙さんが、たった1人で何かに立ち向かわなきゃならないって時が来たらさ。そん時は、俺が一緒にいると思ってみてください」


 透明人間の提案に、美沙は目を丸くした。


「ほら、どうせ俺の姿って目に見えないから、どこにいても不思議じゃないっていうか。だからなんか、守護霊がついてくれてる!みたいな感じで。そうすればもう、1人ぼっちじゃないでしょ?」


 透明人間の提案に、今の感情を表すのにふさわしい言葉が出てこなかった。


 ただただ、笑ってしまっていた。


 透明人間にしかできない励まし方だなと、温かな心が笑みを生み出していた。


「いいですね、それ……お願いします。そんな時が来たら、一緒にいてください」


「任せてください!俺ほんとどっこにでもいるんで!どーんと任せてください!」


 そう高らかに宣言する彼がどこにも見当たらないという状況がおかしかった。


 彼への警戒心など、もはやとっくになくなっていた。


 ただただ明るく励ます彼の見えない姿に、心の中で感謝を述べた。それと同時に、実際に助けてもらったお礼をまだ言えていなかったことに気づいた。


 その気持ちを伝えようと口を開いた瞬間、背後に近づいてくる気配を感じた。それだけで、開きかけた口が重たくなっていってしまった。


 祥子が席に戻ってきた。まるで冷気でも纏っているかのように空気を一変させ、それだけで体が強張ってしまい、言いたいことが言えなくなってしまった。


 なんて脆くて臆病な心なんだろう。まだまだ話したいことがあったのに。


 目の前の白井が戻ってきたのに合わせ、透明人間はわざとらしく声を上げて立ち上がって席を譲った。


「何の話してたんですかー?」


 機嫌が直ったのか、祥子は先ほどとは打って変わって張り付けたような輝かしい笑顔でITイケメンに話しかけていた。席に戻ってきてすぐさま自分のペースに持っていった。たとえ強引だとしてもそこは彼女の凄さであった。


「あ、そういえば。飲み物どうします?」


 透明人間は美沙の隣に戻ってきて、再び飲み物に関して訊ねた。


「ああそういえばすみません!飲み物無くなってましたよね」


 透明人間のその一言で、ITイケメンの視線は再び祥子から美沙の方に移った。どうしてか、自然と透明人間が話の中心となってしまう。最も目立たないはずの彼が。


 そのことが祥子には腹立たしかった。


 目に見えず漂うようにして全てを搔っ攫う透明人間の存在は、派手さと強引さで話題を奪う祥子にとってまさに天敵とも言えるような存在であった。


「…そういえば!美沙の面白い話があったの思い出したんですよー!」


 祥子は再び強引に話に割って入り、いつものように美沙を下げて自分を上げるためのポジショントークが繰り広げられた。また始まったと、美沙は再び苦笑いを浮かべながら俯いた。


「聞いてくださいよー。美沙ってば今日も仕事でミスしちゃっててー!取引先の人にー」


 そんなトークを、透明人間の摩訶不思議が打ち消した。


「こっちのメニューもどうぞ。なんか期間限定の8倍レモンサワー的なやつと赤玉なんとかかんとかって奴が」


 透明人間は視線を誘導するかの如く、美沙の目の前に急遽2枚のメニュー表を見せつけた。


「え?なんか今、メニュー表消えてなかったですか?!」


 まるで手品かのように急に現れたメニュー表を見て、ITイケメンは再び目をキラキラとさせながら透明人間の方を見た。


「ふっふっふ。実は手に持ってるものくらいなら透明にできたりしまして……」


 キリッとした声色で透明人間は自慢げにそう話した。


 そんな不可思議現象を目の前で見せられて心惹かれない人間はいない。


 そんなものを見せられて、誰かの悪口で盛り上がろうなんて思う人間はいないだろう。


 明るい雰囲気で場の空気を書き換えてくれた透明人間に、美沙は心の中でありがとうと呟いた。


 透明人間の明るさに充てられて場の空気は賑やかな盛り上がりを見せ始めたが、祥子だけはその輪に入って盛り上がることはできなかった。話題を奪っていった透明人間への憎悪の感情は、張り付けた笑顔の奥に見え隠れしていた。


「…それって、ちょっと怖くないですかー?何か、盗んだりしてないですよねー?」


 祥子はにこやかな笑顔で、自分の鞄を手で守りながらそう話しかけた。


「皆さんも、気づかぬうちに何か盗まれてるかも。気を付けたほうが良いですよー?漫画やドラマとかでも、透明人間にまともな人っています?お風呂覗いたり泥棒したり。そんな人ばっかりだったりしませんー?」


 その場が凍り付いていくのを感じた。しかし視線を集めることに成功した祥子は止まることなく、透明人間の欠点をつらつらと上げていく。


 逆らうことのできない独特な威圧感で相手を蔑み、貶める。会社でよく見ていた光景だ。


 祥子の一貫したやり方に恐ろしさを覚えると同時に、美沙は先ほどの自分のことを思い出して後悔した。


 どうせ透明人間だ、何か企んでいるに違いない。祥子と全く同じことを考えてしまっていたことを心の底から悔いた。


 それだけで、そういった態度だけでこの人がどれだけ傷つくのだろう、どれだけ傷ついてきたのだろうと、そんなこと全く考えていなかった。


 彼の姿は見えなかったとしても、彼にはこちらの姿が見えているのだ。


 助けたはずの人が、自分を怖がり、睨み、警戒している姿が。


 なのに彼はそんなこと一切気にせず、自分は何も気づかずただただ楽しい時間を過ごしていた。お礼の一言すら伝えないまま。


 なんて自分は恩知らずで、みっともない存在なんだ。


 この時ほど、自分を情けないと思ったことはない。今すぐにでも心の底から謝罪したかった。


 もはやその場は祥子の独壇場となっており、軽薄な言葉がペラペラと次々に紡がれていく。


「キャーキャー言ってますけど、姿見せたらブ男かもしれないですよ?ブ男の変態。そんな人が知らず知らずのうちにあたしたちに近づけるんだーって思うと、ちょっと怖いなぁ。お手洗いとかについてくるんじゃって、考えるだけでも恐ろしいと思いませんー?ねぇ?」


 そんなこと、とITイケメンは否定しようとしたが、祥子の朗らかながらも含みのある笑顔がそれをけん制した。


 まさか、そういう人間の味方をするわけじゃないですよね?と視線で伝えている。

 それだけで祥子を容易に否定できなくなる。


 祥子は美沙とは反対側にいる女性の方を向いて賛同を求めた。その女性は同意こそしていないが、祥子の笑顔の奥に見える狂気とその圧から、苦笑いを浮かべてその視線を躱すことで精いっぱいであった。もはや、このテーブルの空気は祥子が作り出した威圧感で支配されつつあった。


 そんなことを言わないでほしい。これ以上この人の悪口を言わないでほしい。美沙は拳を握りしめた。


 しかし脳裏に浮かぶ怒りの言葉が口から出ることはなかった。


 どの口が言えるんだと、自分の中でブレーキがかかってしまっていた。どんな言葉をぶつけても、全て自分に返ってきてしまう気がして、口が動かなかった。


 それに加えて、祥子に対する恐怖心も口を重くしていた。


 心に沁みついた弱さが憎い。


 自分のことだけじゃなく、恩人に対しての悪口にも言い返せず怯えてしまう自分の弱さが本当に嫌になった。


「……ブ男かどうかはなんとも言えないっすね。俺は一生、透明のままだろうから」


 透明人間はその空気感をはねのけるように、明るくそう話した。


「姿見せたらとかって言われても、そんな自由にできたら苦労してないっすよ。いつの日か俺の顔を覚えてる人はいなくなって、自分自身ですら自分の顔を思い出せなくなって、年取ったらどんな顔になるとかももうわからなくて、そんな風に考えたら恐ろしいっすよ」


 透明人間は見せていたメニューを置いた。


「ブ男は初めて言われたけど、確かに目つきは悪くて人から避けられてた。それに変態とか泥棒とか、そういう事実無根の疑いは慣れっこだ。そりゃ透明人間なんていたら誰しも一度は疑うし怖いに決まってんだから、仕方のないことっすよ。だけどさ、それを口にするかどうかは別の問題じゃねぇか?」


 透明人間から、静かな怒りが伝わってくる。その怒りに連動してか、テーブルの上のグラス、壁にかけられたポスター、辺りにあるものが突如消えては現れ、まるでその怒りが伝播していくような雰囲気が漂い始めた。


「人を傷つける言葉に、透明人間かどうかは関係ねぇ。そもそもあんた、相手の事考えたことねぇだろ」


 透明人間の力強い言葉に、祥子は思わず目を逸らした。周囲の異常な雰囲気に、流石の祥子からも怯えた表情が見える。


「何を言われたら傷つくのか、悲しむのか。それは透明人間じゃなくても同じなはずだ。何が美沙さんの面白い話があるだ。彼女がどれだけ辛い顔してたのか知らねぇだろ?あんた見向きもしなかったろ!」


 祥子の表情がきつく歪んだ。


 美沙は俯きながらスカートの裾を力強く掴んだ。まるで当たり前というように、また彼は助けてくれたのだ。


 涙があふれ出そうであった。


 姿も見えず、どんな顔色なのかもわからない透明人間なのに、彼の言葉はここにいる誰よりもまっすぐなものだった。


 口だけでもない、嘘で塗り固められてもいない。


 彼の心から発せられる真の言葉は、美沙の心に直接響いた。どんな言葉よりも、心を震わした。


「姿の見えない俺に突っかかるのも結構だけどさ。あんたには、他に見なきゃいけないもんがあるんじゃねぇのか」


 祥子は見開かれた口を小さく噛みしめた。先ほどまでは威圧されていたのに、透明人間の一言で変貌した周りの人間の自分を見る目が痛く突き刺さった。自身の偽善性が露わになった混乱から、自然と顔が強張っていった。


「う、うるさいのよ!」


 祥子はそう吐き捨てて席を立ちあがり、そのまま店を出ていこうとした。こんな屈辱は生まれて初めてであった。自分の思い通りにならないことも、自分が中心ではないことも、美沙の前で恥をかかされたことも!


 祥子は絶望的な気分のまま、店を出ようと踏み出した。


 すると正面に、大量のグラスを両手に載せた店員の姿があった。


 その様子に、祥子の頭に危険な思惑がひらめいた。


 酔狂な足取りを気取り、祥子はその店員の横をすり抜けようとする。そして、まるで酔っ払いが起こした事故かのように見せかけて店員にぶつかった。


 店員は勢いよくそのまま踏みとどまり、持っていたグラスの数々が次々とバランスを崩していった。


 倒れてきたグラスから、オレンジの飲み物が噴き出す。まさにその勢いのまま、飲み物はすべて美沙の上に降りそそがれようとしていた。


 その光景を横目で肩越しに捉えながら、祥子はにやりと笑みを浮かべた。


 だが、祥子の期待とは裏腹に、現実は彼女の思惑に沿うことはなかった。


 美沙に向かって降り注がれようとしていた数々の飲み物は、空中でまるで透明な壁にぶつかったかのように、垂直に床へと叩きつけられていった。


 美沙に向かって投げかけられた液体の一滴さえも、その透明な壁によって完全に阻まれ、彼女の身に届くことはなかった。


「冷てぇ!」


 グラスが落ちて割れる音と共に、透明人間の凍えるような声が店内に響いた。


 美沙は慌てて立ち上がって透明人間の近くに移動した。


「だ、大丈夫ですか?!」


「すっごい冷たいっす!」


 美沙は慌てて鞄からハンカチを取り出した。


「ふ、拭きますか?ふ、あの、どこ、拭けば…」


 美沙は目を回しながらぽたぽたと透明の体から垂れてくる液体に目をやった。


「大丈夫大丈夫……濡れてないっすか?」


 そう言われて、美沙は自分の体を確かめた。地面に流れる液体を踏んだ靴底以外、濡れている個所は見当たらなかった。


「も、申し訳ありません!お怪我はありませんか?!」


 店員は慌てて立ち上がって美沙の安否を確認した。


 しかしどういうわけか一切濡れていない彼女の姿を見て、安堵と困惑が入り混じったような表情を浮かべていた。


「大丈夫ですか?!」


 幹事の男性と女性が大慌てで美沙たちの元に駆け寄ってきた。


「大丈夫。一切濡れてないっすから!」


 透明人間は明るい調子でそう告げて「すいません、俺のせいで台無しにしちゃいましたね」と謝りながら自分の席に戻っていった。


 その様子を祥子は恨めしそうに眺めながら、そそくさと立ち上がってお店から出て行ってしまった。

 店内の混乱はその後も中々収まらず、合コンはそれより数分後に解散となった。

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