カメムシの実るころ
雨降りの日曜日、
私は遺影でしか見たことがないが、穏やかそうで賢そうなイケメンだった。義母は面食いなのだ。
結婚の両家顔合わせで私の両親と対面した時も、「素敵!美男美女だわ!」と大喜びしていた。よもや両親の顔で結婚を認められた訳ではあるまいが、思い出すたび言われると疑いたくもなる。
外は糸のような雨が降り続いている。哀愁を帯びたピアノの調べと、細く高い鈴のような歌声が、和室に響く。音響設備のある部屋ではないので、湿った紙や木の中に、音が吸い込まれていく。さながら水中で音楽を聴いているような心地だ。私は義母の弾くピアノの音に耳を澄ませ、柄にもなくその世界に浸っていた。
「ねえ、チンピラちゃん。お願いがあるの」
ふと気づくと、音楽は止まっていた。義母が私の横にぴったりと座り、もじもじしながらそう切り出した時は、イヤな予感がした。
「なんすか」
「マコリンの命日にサクランボの木を植えたの」
「そうすね」
「そろそろ実がなるから、鳥に食べられないように網を掛けたんだけど」
「はあ」
「今度はカメムシがいっぱい湧いちゃって」
「いやっすね」
「私、虫ダメなのよ。チンピラちゃん、取ってくれない?」
いつのまにか義母の手には、雨合羽とマスクとビニル手袋が握られていた。駆除剤を直接かけると実にもついてしまうから、網の中に大量発生したカメムシを「手で取って」と言うのだ。
たいていの虫は平気な私だが、大量のカメムシを手で取るのは辛い。夫は?と振り返ると、彼の姿は既にどこかに消えていた。こういう時の勘の冴え方は宇宙一だ。ある意味賞賛に値する。
仕方がない。彼女の大切なマコリンの記念樹だ。私は諦めて長靴を履き、合羽とマスクと手袋を装着して庭に出た。私より少し背の高いサクランボの若木の傍に立つと、灰色の網の向こうで蠢くカメムシ達が見えた。緑と茶のまだら模様でやたら大きい。田舎の虫はなんでもLサイズなのだ。
私は網を取り外し、しがみついていたカメムシ達を持ってきたビニル袋に閉じ込める。そして、枝や葉についているカメムシを1匹ずつ取り除き始めた。なんとも気が遠くなる作業だ。そしてマスク越しでも気が遠くなるほど臭い。
「チンピラちゃ~ん!サクランボ穫れたらパイ作りましょうね~」
義母の呑気な声と共に、再びピアノの音が聞こえてくる。「ちぇちぇちぇりーぱーい♪卵白泡立て生くりぃむたっぷりのせて♪」即興曲に出鱈目な歌詞が乗る。独特な哀悼の意だ。
ママン、卵白のメレンゲと生クリームは別物なんだぜ?見た目似てるけどな?
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