いつまでも輝く母へ

森陰五十鈴

理想の母親

 帰ってきたのは、夕方だった。薄暗がりの家の中、中央に置かれたテーブルの側に寄ると、ダリアは椅子を引き、そこに座った。テーブルの上で手を組んで、そのまま放心する。徐々に深まっていく闇を見つめ続ける。

 我に返ったのは、扉の開く音を聞いたときだった。


「どうしたの!?」


 男の声。〝ただいま〟もなしに影が駆け寄る。ダリアの肩に触れると、上擦った声を上げた。


「大丈夫? 具合悪い?」


 ふるふる、とダリアは首を振る。彼は安堵の息を漏らすと、手探りでテーブルの上のランプに触れた。マッチを擦り、火を灯す。オレンジの光が、部屋の中を浮かび上がらせた。

 木で作られた家。無垢材の調度品。必要なものだけ取り揃えた飾り気のない部屋は、まだ新しい生活を始めたばかりである証拠。物の少ない室内を見るたびに胸は幸福感で溢れていたというのに、今だけは何も湧き上がって来なかった。

 ダリアはぼうっと目の前に立つ人を見上げる。自分より八つ歳上のジェドは、まだ十七である自分を娶った旦那様。今もまだ心配そうな顔で、ダリアの顔を覗き込んでいる。

 優しいその人を前にして、胸がいっぱいになって、ダリアはその胸に擦り寄った。


「どうした? やっぱり、具合が悪い?」

「ううん。違うの。そうじゃないの」


 お勤めから帰ってきたばかりだからか、ジェドからはかすかに汗の匂いがした。好きな人の匂いを吸い込み、ダリアは安心する。抱きとめてくれる温もりも嬉しい。家に帰ってきてからようやく、ダリアは人心地がついた。


「少し待っていて。僕が夕食の準備をしよう」

「あ、それなら私が――」

「良いから、座っていて。君だけの身体じゃないんだから」


 台所に向かうジェドの後ろ姿を眺めながら、ダリアは申し訳なさで椅子の上に縮こまる。手は、自然腹の上に。そこに命が宿ってから六月になる。つわりも終わり、今は小康状態。夕食くらいなら作れるようになったのに。

 情けなくてため息を吐いている間に、食事が並ぶ。パンとスープ。少し前まで吐いてばかりだったダリアを気遣った、食べやすいものばかり。

 食事の前のお祈りを終えると、少しずつ食べ物を口に運ぶ。

 腹が満たされてようやく、ダリアは今日あったことを話す気になった。


「あのね、少し前のことなんだけど――」


 ダリアは孤児みなしごだった。養護施設で育った。貧民街との境目にあるような貧しい施設で、清貧を美徳とした生活を送りながら育ってきた。

 十五になった頃には施設を出たのだけれども、この度の結婚と妊娠を報告に、ダリアは施設を訪問したのだった。

 院長をはじめとしたお世話になった人たちは喜んでくれて、それはそれで嬉しかったのだが。


「帰り際にね、院長先生が教えてくれたの。私のお母さんがね、生きているってことを」


 静かに耳を傾けてくれていたジェドは、そこで眉を顰めた。ダリアは夫の様子をそっと伺う。彼は何も言わず続きを促した。


「それでね、私、院長先生にいろいろ尋ねたの。お母さんは何処にいるのか、とか、会えないかってこと」


 院長先生は、しぶしぶながらも教えてくれた。ダリアはそんな彼女に問うた。もし自分が母の元を訪ねたら彼女は喜んでくれるだろうか、と。

 院長先生は答えてくれた。微妙な顔で『きっと』と。


「……それで、会いにいったのか?」


 ダリアは首肯した。それが、今日の出来事だった。


 母は、小さな酒場を経営していた。化粧をし、少しな服を着て、店でダリアを出迎えた。喜ぶダリアを上から下までじろりと眺めたあと、煙草に火を点けて、カウンターに肘を付いた。ダリアは身重の立場で紫煙を気にしながらも、母に会えたことがどれだけ嬉しいか、自分がどうやってこれまで過ごしてきたか、結婚したこと、子供が生まれることまで語り聞かせたのだが。


「お母さん、あまり興味がないみたいで――」


 ふーん。そうかい。ひたすらにそれを繰り返すばかり。

 母親に会えた幸福でいっぱいだったダリアも、さすがに心折れかけた。会話は次第に尻すぼみになっていき、気まずい空気が二人の間に流れるようになった。

 沈みきった店内で、ふと母が口を開く。結婚相手はどんな人なのか、と。


『優しい人よ。私が働いていたお店の、店長の息子さんでね――』


 ようやく興味を持ってくれた嬉しさで口が軽くなるダリアの話を流し聞き、小さくなった煙草を灰皿の上で揉み消して。

 その店がどれほど大きな商店かを知った母は溢した。


『そんな良いところに嫁に行くんなら、あんたのこと、捨てるんじゃなかったかもね』


 向かいでジェドが息を呑む音がした。ダリアは居た堪れなくなった。ずっと居ないと思っていた母が生きていたことに浮かれていた自分が恥ずかしくなった。

 母が存命なのに自分が施設にいた理由を、まるで考えていなかった己の単純さが、悲しかった。

 膝の上で拳を握りしめる。俯いて、その手だけを見つめ続ける。夫は何も言わない。嘲りも、慰めも。


「私ね、ずっと〝お母さん〟に憧れていたの」


 施設の人々は優しかった。仲間たちもたくさんいて、寂しくなかった。

 だが、夕暮れの街で手を繋ぐ母子の姿を見るたびに羨ましかった。〝先生〟にはない何かがそこにあるような気がしていた。

 温かくて、幸せで、安心して、甘えられて。

 愛を独り占めできて。

 そんな存在が欲しいと、ずっと心の奥底で思っていた。

 ベッドの中で何度母のことを夢想したことだろう。きっとどんなときも私のことを優しく抱きしめてくれる。そう思っていたのに。

 理想は、煙のごとく立ち消えていった。


「お母さん、どうして私のこと――」


 産んだのか。

 捨てたのか。

 自分が今ここにいる理由が、分からなかった。望まれたから生まれたのだと信じていた。親がいないのは、何かどうしようもない特別な理由があるのだと信じていた。

 親というものは、無条件で子どもを愛するものだと、ずっと信じていた。

 もし、そうでないならば――。ダリアはまだ目立たない己の腹を撫でる。この子はいったいどうなるだろう。

 自分が子どもを愛さない可能性もそこにあるのだと知って、ダリアは怖くなる。自分が〝母〟をやれる未来が見えなくなる。


「世の中、色んな人がいるよ」


 慰めの言葉をしぼりだしたジェドの瞳には、同情が浮かんでいた。困らせてしまった。泣きたくなかったダリアは、目を何度も瞬かせた。けれど、涙はなかなか引っ込まない。


「僕の母も厳しい人だ。理想の母にはほど遠い」


 ジェドは店の後継ぎとして厳しく育てられたと言っていたが。


「お義母様、優しい人だったよ……?」


 挨拶に行ったときその人を目にして、厳格な人だとは思った。清貧を重んじる院長先生よりも厳しそうな方だと。だが、結婚と妊娠の順番を間違えたダリアを、今もなお気にかけて、労ってくれている。

 そう言うと、ジェドは意外そうな顔をして。


「そうか……? 僕は、まだ若い君に手を出したこと、今でも叱られているんだけどな……」


 戸惑ったように頭を掻く夫の姿に、ダリアの口元は綻んだ。彼の目に悪い感情は浮かんでいなかった。なんだかんだ言って、ジェドとその母の関係は良好なのだ。

 羨ましい、とダリアは思った。ジェドには、確かに母との温かい繋がりがある。たとえ厳しい人であろうとも、ジェドが母に愛されている証のように思えた。

 そういうものが欲しかった。

 ダリアには、ついぞ得られなかったもの。


「私、ちゃんとお母さんになれるかな……」


 母に会っても、結局ダリアは〝母の愛〟を知らないままだ。望むものが必ず与えられるものではないと知ってしまった。だから、ダリアは、いずれ生まれくる子が望むものを、きちんと与えられるか不安になった。


「どんなお母さんになれば良いんだろう……」

「なるようにしかなれないよ」


 慮ったような、それでいて突き放してもいるような言葉。だが、ジェドの口調は優しかった。


「君が君でいられれば。そして、心の中に子どものことを置かせてあげられれば、それで良いんじゃないかな」

「そうかな。でも私、〝理想のお母さん〟になりたい」


 ダリアの思う理想の母に。ダリアが欲しかったものを与えられる母に。


 ダリアはもう一度肌を撫でる。時折赤子が動く様子が感じられて、ここに命が宿っているのだと実感させられていた。愛おしい、と思う。この手に抱くときが待ち遠しくて仕方なかった。

 この想いが、ずっと続けば良い。この子が生まれてからもずっと、慈しむことができればいいのに。


 ダリアは祈る。

 太陽のように眩しく、月のように優しい存在になれることを。

 ダリアは誓う。

 いつまでも我が子に光を与えられる母親になることを。

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