第38話
勤は学校に戻ると、自身の教室には目もくれず薄暗い階段を上っていく。ちょうど校舎に入ったあたりで放課の鐘が鳴り、帰宅する生徒の波に逆らうような形になった。途中で何人か顔見知りの生徒が不審な目で勤の事を見てきたが、全て無視した。
やがて三階から屋上へ上がる階段に差し掛かると、人影は完全になくなる。埃っぽい空気と、小窓から差し込む僅かな光を受けて、勤は心臓が拍動しているのを感じながら一歩一歩進んだ。
階段を上りきると、ちょっとしたスペースがあって右手側には物置になっている部屋がある。そして左手側には屋上へと続く鋼色の扉があった。そこにはめ込まれた摺りガラスから、薄暗い光が漏れている。
勤は空気を深く吸い込むと、ドアノブに手をかけた。
扉を開くと、一気に視界が広がる。空にはいつの間にか灰色の雲が蔓延っていた。勤はドアの淵を跨いで、屋上へと一歩を踏み出す。すると、ドアの左側のフェンスにもたれかかるようにして空を見つめていた裕介がこちらを振り返った。
裕介は脂の乗った腕を上げると、勤を見てニヤッと笑う。
「よう」
勤は微笑み返すことなく、裕介に向かって一歩を踏み出した。
屋上には裕介と勤以外誰もいなかった。厚い雲が太陽の光を遮り、日中であるのにもかかわらずあたりは薄暗い。
そんな中、裕介は勤の正面に立った。
裕介はヘラヘラとした笑みを浮かべている。もしかしたら、呼び出された理由に気が付いていないのかも知れない。もしくは普段通りを装っているだけなのか、勤には分からなかった。
「お前から俺を呼び出すなんて、どうしたんだ?」
裕介がいつもと同じトーンで聞いてきた。
勤は険しい顔を隠そうともせず、裕介のことを睨みつける。それでも裕介は表情を崩さない。
「話がある」
勤は単刀直入に切り出した。
「一週間前、クラスラインに送信された愛の写真。それを撮ったのは、お前だな?」
そう言った瞬間、裕介の顔が苦しそうに歪む、ことを期待した勤だったが、裕介の表情は一ミリも変わらない。動揺している素振りもなかった。
冬の乾いた風が吹いて、制服の隙間を縫うかのように肌を冷やす。今日はいつにも増して風が強い。
「あぁ、俺だよ」
裕介があっさりと認めた。ヘラヘラした顔が、腹立たしく思えてくる。
「やけに、正直に言うんだな」
勤が腰の横で拳を握り締める。
「どうせバレてるんだから、隠してもしょうがないだろ」
勤は絶句する。裕介は自分がした行いに対して全く悪気がなかったかのような態度を取っていた。
ここに来るまで、もし本当に写真を撮ったのが裕介だったら自分は受け止められるだろうかと案じていた。
しかし裕介があまりにも簡単に認めたせいで、勤も不思議と裕介が犯人だったという事をすんなりと受け入れてしまう。そのことに勤は驚いていた。
「どうして、あんなことをしたんだ」
勤は沸き上がって来る怒りを必死に堪えて、冷静に話すことを心掛けた。感情的になってはいけない。
グラウンドで部活動が始まったのか、遠くの方で掛け声が響き始める。
「むしゃくしゃしていたんだ」
裕介は頭の後ろを掻きながら、語った。
「俺はずっと、いじられ役だった。小学校でも、中学校でも、高校でも俺はずっと馬鹿にされ続けてきた。俺の尊厳なんて関係なく、みんな俺なら馬鹿にしても良いと勝手に思い込んで俺の事を笑いものにしてきた。それに耐えられなくなっただけだ」
裕介が淡々と語る。
「だったら、お前を馬鹿にしてきた奴にその怒りをぶつければ良かったのではないのか」
「言うのは簡単だが、行動に移すのは難しい。それに愛だって、俺の事を馬鹿にしていた一人とも考えることが出来る」
裕介は少し気怠そうに答えた。
「もう一つ聞きたいことがある」
勤は深呼吸をする。気持ちを落ち着かせたかった。
「遥香とはどういう関係なんだ?」
「それは、どういう意味だ?」
「あの写真を遥香に送ったりはしていないか?」
「あぁ、別にそんなことはしていない。俺は遥香ちゃんの事が今でも好きだけど、残念ながら引っ越しちゃってからは連絡してないよ」
裕介が言う。
勤は裕介の顔を睨みつけてみるが、裕介はわざとらしく怯んだような顔をしただけで、特に嘘をついているようには見えない。
じゃあ、遥香と裕介は特に繋がっていなかったということなのだろうか。頭が混乱してくる。
「お前こそ、遥香ちゃんとどうなんだよ。昔から、仲良かったよな」
そう言うと、裕介は勤との距離を縮めて肩を組んで来る。誰かに盗み聞きされる訳でもないだろうに、裕介は小声だった。
「別に、大したことはない」
「でも、今でも連絡取ってるんだろ?遥香ちゃんと」
勤は冬美の言葉を思い出していた。
「君と遥香との関係はずっと前から何も変わっていない。君が思っている以上に前から」
あれは結局どういう意味だったのだろうか。そんなことを考えながらも、裕介の質問に答える。
「少し前までは連絡を取っていた。しかし、最近はさっぱりだ」
そう言った瞬間、僅かな間ではあったが裕介がにやりと笑ったような気がした。
それを見て、勤は裕介の腕を振り払う。
裕介は勤から手を離すと再び、顔の前に回り込んで来る。そして、勤の表情を伺うようにして、言葉を発す。力を込めたのか、腹のあたりの脂肪が揺れていた。
「もしかして、怒ってるのか」
裕介の顔から今日初めて笑顔が消えた。真剣な表情で勤の事を見つめている。その弱々しい表情が余計に勤の神経を逆なでした。
しかし勤はそれを表情に出さないように努める。裕介が犯人だと分かった以上やるべきことは一つだけ。それは自身の罪を認めてもらう事だけである。
「いや、別に怒ってはいない」
勤は嘘をついた。そして、真っすぐに裕介の目を見据える。
「ただ、俺はまだお前があんなことをしたという事実を受け入れられないだけだ」
裕介の表情が、勤の言葉を聞くうちに暗く歪み始める。
「すまない。俺も今となってはどうして自分があんなことをしてしまったか分からないんだ。でもあのときはただひたすら何もかもにムカついていて、まともじゃなかった。だからつい魔が差したんだと思う。愛にも本当にひどいことをしたと思っている」
「反省しているのか?」
「もちろんだ。あの日の行動を、後悔しなかった日はない」
「一つ聞かせてくれ。どうして、愛を学校に来ないよう脅したんだ?」
「それも俺の犯した過ちの一つだ。あの後俺はすぐに自分のしたことが怖くなった。そして愛がそれをクラスメイトや先生に話すのではないかと思った。そうしたら俺のしたことが、遥香ちゃんに知られてしまう。それだけは避けたかった」
「どうして?」
「それはもちろん遥香ちゃんが好きだからだよ。遥香ちゃんの前ではかっこいい奴でいたいじゃないか」
確かにその気持ちは分からないでもなかった。
「なぁ、勤。一つだけお願いがあるんだ」
そこで唐突に裕介が声のトーンを変える。
「なんだ?」
勤は特に考えることもなく聞き返した。
「今も言ったように、俺はどうしても遥香ちゃんには嫌われたくないんだ」
裕介が真剣な面持ちで訴えかけてくる。その分厚い手が、がっちりと勤の両肩を掴んだ。本人も無意識のうちに力が入っているらしく、痛みを覚える。
勤は顔を歪めないよう踏ん張りながらも、裕介の言葉を待った。
「だから遥香ちゃんにだけは、今回の件全てお前がやったって言ってくれないか?」
「は?」
突然の提案に、勤は瞬時に反応できなかった。
「どういうことだ?」
「だから、お前、ちょっと前まで遥香ちゃんと連絡取ってたんだろ?だったら遥香ちゃんにお前の方から、あのクラスラインの写真は自分が撮って自分が送ったんだと説明しておいてくれよ。後から俺の分からない所でやっぱり嘘だと弁明しても良いから」
「それに、何の意味があるんだ?」
「気持ちの問題だよ。周りのみんなが俺の事を笑っている中、遥香ちゃんだけは決して俺の事を馬鹿にしなかった。そんな遥香ちゃんに、あの事がバレたら俺はきっと自分を受け入れられない。だから形だけでも、遥香ちゃんだけは裏切ってないっていうことを見せて欲しい。そうすれば、もう二度と同じ過ちを犯さずに済む気がするんだ」
喋っていくうち裕介に熱が籠っていくのが分かった。勤の肩を掴む手にもどんどん力が籠っていき、このままでは肩が握りつぶされてしまいそうである。
「分かった」
勤が言う。
「遥香に俺がやったと、言えばいいんだな」
すると裕介がやっと肩から手を離し、顔の前で勢いよく掌を合わせた。
「ありがとう、勤。さすがお前は物分かりが良くて助かるぜ」
ずっと押しつぶされていた肩に、開放感が広がっていく。
「どうせなら、今ここで電話してくれよ」
そう言われるまま勤はスマホを取り出すと、LINEを開き、遥香に電話をかけた。コール音が鳴るとすぐに、遥香が電話に出る。
「もしもし?」
いつも通り春のように暖かい声が、電話越しに聞こえた。
裕介が口の動きだけで、「繋がったか?」と聞いて来る。
勤は裕介に向かって頷くと、遥香に言う。
「突然すまない、実はちょっと話があって」
「どうしたの?」
勤は不思議と遥香に対して嘘を吐くことに躊躇は無かった。どうせ後から事情を説明すれば良いと思っていたからかもしれない。それとも心の中でどこか遥香に恋人が出来たという事が引っかかっていたのかもしれなかった。
「ちょっと前、クラスラインに愛の写真が送られただろ?あれをやったのは、俺だ。写真を撮ったのも俺なんだ」
「………」
風が宙を切る音だけが聞こえる。裕介はなぜか、笑いを堪えられないと言った面持ちで、口に手を当てていた。
「どうして………、どうしてそんな事をしたの?」
数秒の後、遥香から返事が返って来た。思ったよりも冷静で、普段通りの声であることが逆に勤の心を痛みつける。
「どうしてなんだろうな。自分でも分からない」
「そっか」
遥香の返事は素っ気ないものだった。
そのとき、ついに裕介が我慢できなくなったのか声を上げて笑い始める。勤は不審に思って、眉を顰めた。
「ごめん、また掛ける」
そうやって電話を切ると、スマホをポケットにしまう。スマホの端が何かに触れた気がしたけれど、深くは考えなかった。
「おい、どうして笑っているんだ」
勤は腹を抱えている裕介に対して、厳しい声を向ける。
すると裕介は勤の顔をちらりと見て、言った。
「俺の勝ちだ」
何かの発作のように笑い転げる裕介。
勤は訳も分からず、ただ眺めていることしか出来なかった。
やがて大きな笑い声が引き攣ったような笑い声に変わり、次第に落ち着いてきたころ、雄介は口角を上げて裕介に向き合う。それはまるでジョーカーのように不気味で恍惚的だった。
「俺の勝ちだ」
裕介は真正面から勤に言った。
「何を言っている?」
勤は馬鹿にしたような態度を取る裕介に、つい語気を強める。
「お前、まだ気づいてないのかよ。やっぱりお前って、勉強以外は何も出来ないんだな」
裕介が嬉しそうに言った。
「何のことだっ」
もったいぶって、煽るような態度を取る裕介に勤は声を荒げた。先ほどの反省した表情はどこに行ったのかと、怒りが込み上げてくる。それに自分が馬鹿にされる理由が分からず、混乱していた。
「じゃあ教えてやるよ」
裕介が勝ち誇ったように胸を張ると、ポケットの中にある勤のスマホを指差した。
「お前が電話をした遥香ちゃんは、偽物だ」
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