第37話

 冬美は愛と勤の話を聞いていて、悪い予感が確かなものになっていくのを感じていた。想定していた最悪のパターンへと事が向かおうとしている。だがここで自分が知っていることを勤に教えれば、最悪の事態は防げるものの犯人を逃がしてしまうことになりかねない。

 それでは、一時的に事態を回避しただけで、いつか必ず似たようなことが起きる。

 だったらやはり、勤には何も知らないまま犯人の策に乗ってもらうしかない。多少リスキーで、冬美自身も犯人の計画はほとんど予測できないが、やるしかないのだ。

 冬美はもう気が付いていた。秘めていたはずの怒りが、再び胸の中を満たそうとしていることを。今回の件は絶対に、許す訳には行かない。

 そこで勤が立ち上がり、警察に電話をかけようとし始めた。駄目だ。警察に連絡しても、きっと犯人は逃げ切ってしまう。彼はそれほど用意周到で、執念深い。

 そう思ったら、自然と体が動いていた。

 腕を掴むと、勤がこちらを向く。そこに冬美は近づいて、勤の視界を奪った。そして空いた方の手で咄嗟の思い付きを実行する。


 勤は冬美の真剣な瞳に見つめられて、スマホを抱えている腕を下ろした。その代わり、冬美に気になったことを尋ねる。

「先輩は、何を知ってるんですか?遥香の事は忘れろと言ったり、警察には連絡するなと言ったり。しかもその理由は教えてくれません」

「別に大したことを知っている訳じゃない。私も分からない事の方が圧倒的に多い。でも直感がそうすべきじゃないって言ってるの」

「先輩って、意外と感を当てにするタイプなんですか」

「まぁね。悪いけどこういう時の感は大抵当たるの」

「そうですか。でも、その代わりにこれだけは許してください」

 そう言うと勤は再びスマホを開いて、何かをポチポチと打ち始めた。

 冬美も立ち上がったまま、勤の様子を見守っている。

 やがて勤が一通りフリックを終えると、画面をタップして冬美の方に示した。冬美と愛がその画面を覗き込む。

 そこには勤と裕介のトーク画面が示されている。そこに勤からメッセージが送られていた。

「屋上に来い」

 メッセージはそれだけの短いものだった。しかし、それがむしろ言葉に重みを与えているようである。

「このままでは、どうしても胸の中にあるモヤモヤを晴らせません」

 勤は言った。

「俺はやっぱり遥香がこんなことをするとは思えないし、裕介があの写真を撮ったということも実感がないです。だからこそ、自分の手で真実を知りたいと思いました。そのために、裕介と話させてください」

 そのとき、勤の送ったメッセージに既読が付き、裕介から返信がくる。

「いつだ?」

 それに対して、勤が返す。

「放課後で良い」

「分かった」

 その素っ気ないやり取りで会話を終える。勤はスマホの電源を切ると、冬美に向き合った。

「なんだか、覚悟を決めたみたいだね」

「はい。引き返すつもりはありません」

「話してどうするの?」

「分かりません。それは裕介の言葉次第です。でも本当にあいつがやったことなら、相応の処分を受けるように説得するつもりです」

「犯人が遥香だったとしても、遥香を同じように説得するつもり?」

 冬美が試すような視線を送って来た。

 それに対して、勤は即答する。

「遥香なら、なおさらです」

 すると冬美は納得したように頷いた。

「どうせ止めても止めないみたいだね」

「はい」

「なんとなく、君ならそうする気がしてた」

 冬美が言う。

「それもまた直感ですか?」

「まぁね」

 冬美は終始真剣な表情で言う。

「とにかく、気を付けてね。相手が君の知っている裕介君だと思わない方が良いよ。もしかしたら君を攻撃しようとしているかも知れない。常に警戒心を持たないと、分かってる?」

 勤は頷いた。

「何かあったら、すぐに連絡するように」

「分かりました」

 そう言うと、勤は扉の方を振り向きアモーを後にしようとした。しかしまたしてもその手首を冷たい手が掴んだ。

 冬美がまだ何か言いそびれたことがあるのかと思い振り向くと、そこには愛の顔があった。

「ちょっと、待って」

 愛が真っすぐ勤の目を見つめてくる。勤はなぜか目の奥の、心の中を見つめられているような気がした。

「どうした」

 勤は足を止めて、愛の方を振り返る。愛の肩越しに冬美の様子を伺ったが、冬美は少し口元を綻ばせつつも、特に言う事は無いらしくソファに戻ってこちらを見守っていた。

「私からも、勤に話があるの」

 愛の真っ直ぐな瞳が、揺れていた。そして愛は真っすぐ勤の事を見つめていた視線を俯いて逸らす。何か言いにくい秘密がまだあったのだろうか。実は愛の写真を撮ったのは裕介ではない。そんな真実でも告げられるのか。

 勤が愛の話を促そうと口を開きかけた時、俯いたままの愛が先に口を開いた。

「私は、勤の事が好き」

 愛が顔を上げて、勤の顔を見る。

「だから、私と付き合って」

 視線がぶつかった。愛の言葉が周りの音を全部吸収したかのように耳の奥へ響いて、アモーの店内は静寂に満たされる。

「えっ」

 勤はそう驚きの声を漏らすことが精一杯だった。想定外の台詞に処理が追いつかない。勤は困って冬美の方を見るが、冬美は私の方を見るなと言わんばかりに勤を無視した。

「どういうことだ?」

 勤が仕方なく愛に問い返す。

 しかし愛は力強く唇を結び、首を横に振る。二度同じことを言わせるなということだろうか。勤の腕を掴む手に力が入っていた。

 勤は見慣れたはずの洋風な店内にいるにもかかわらず、一人見知らぬ国に放り出されたかのような孤立を感じる。

 誰も何も言わない中、勤は自分なりに愛の言葉と向き合うしかなかった。愛は震える瞳で勤の言葉を待っている。

 自分は今どう思っているのだろうか。愛が自分に好意を寄せているということを全く予想していなかっただけに、自分でもどう反応して良いのか分からなかった。嬉しさが全く無い訳ではなかった。自分の人間性や今までの人生が認められた気がして、喜びのような感情もほんのりと香っている。

 しかし、どう考えても愛に対する感情の中に恋心を想像することが出来なかった。

 勤は心の中で一つ溜息を吐く。

 そして愛を見返すとゆっくり口を開いた。

「すまない。その気持ちには応えられない」

 そう言った瞬間、愛の揺れていた瞳がピタリと止まった。

「理由を聞いても良いかな?」

 愛が上目遣いで聞いて来る。それに対して、勤ははっきりと答えた。

「遥香の顔が浮かんだ」

 それだけで愛は全て理解したようだった。それから愛にしては珍しく誤魔化すような、下手な笑顔を浮かべると勤の腕を離す。

「ごめんね、変な事言って。勤が遥香のことを好きなのは、知ってたのに」

「いや、大丈夫だ」

 愛は後ろを振り向くと、カウンターの中に入り、さらに裏の方まで行ってしまった。

 すると冬美が立ち上がって、勤の方へ近づいて来る。冬美は愛に話が聞こえないようにか小声で言った。

「どうして愛ちゃんがフラれると分かっていながら、君に告白したのか分かる?」

 どうして。そう言われて勤は初めて、なぜ愛が告白してきたのかと思考を巡らせた。傷つくと分かっていたのに、それでも思いを打ち明けた理由。

 勤は遥香が引っ越す前、跨線橋で遥香に対する想いを問われた時の事を思い出す。あのとき勤は傷つくことが怖くて、素直な気持ちを伝えることができなかった。

 だからこそ、失敗を恐れる気持ちを勤は痛いほど理解できる。愛もきっと怖かったはずだ。それにも関わらず愛は、想いを口にした。なぜか。

「俺には分からないです」

 勤は正直に口にした。

「愛ちゃんは君が思うより遥かに強いってことだよ」

 すると冬美が勤の耳元で囁く。

「そして次は、君が強くなる番なんじゃない?」


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