第36話
その後、勤はふらつく足取りであの駅前商店街を彷徨っていた。自分がどうやって応接室を出てここまで来たのか覚えていない。今は何も考えることが出来なかった。どうして遥香があんなことをしたのか。そればかりが頭の中をぐるぐると回っているが、一生答えが出る気がしない。どうしても遥香がそんな他人を貶めるようなことをするとは思えなかった。
やがて勤は、真新しい焼肉屋の角を曲がると細い路地に入る。ここには天井が無く、昼の日差しが存分に差し込んでいて生暖かかった。
やがて肩をすぼめるように立つこじんまりとしたビルの前にやって来ると、三階のあたりを見上げて中へと足を進める。
狭いエレベーターに揺られながらも、勤はずっと考えていた。仮に一連の事件の犯人が遥香だとして、それでも自分は遥香の事が好きなのだろうか。答えは、分からないだった。
三階に着くと、ドアがガタガタと音を立てて開く。エレベーターから出ると、薄暗い廊下を進んで、おとぎ話に出てきそうな木製の扉の前に着いた。
返ってきたばかりのスマホで時刻を確認すると、まだ時刻は十二時過ぎである。約束の時間よりもかなり早かったけれど、勤は迷わず扉を開けた。
「あっ、いらっしゃい」
中にはすでに冬美と愛がいて、一斉に視線がこちらへと向けられる。だが愛は目が合った瞬間、そっぽを向いてしまった。
二人は最近流行っているのか、またワイヤレスイヤホンを使って遊んでいたようだが、勤が着いた瞬間、イヤホンを耳から外す。
微妙な空気感が流れる中、勤たちは四人掛けのテーブルを囲むようにして座る。愛と冬美がソファ側に、勤は反対側の椅子へと腰を下ろした。
今日はまだ開店時間ではないため、愛も冬美も私服姿である。愛は先ほどからずっと下を向いていて、表情を伺うことが出来なかった。まだ犯人が勤だと思っているのなら無理もない反応である。
「思ったよりも、早く来たね」
冬美が場を和ませようとしてか、普段以上に明るい声で言う。
しかし勤はどう頑張っても明るい気分になれず、険しい顔のまま言った。
「実は先ほどまで警察の方と話していて、そこから直接来たんです」
すると勤の表情から悪い予感を感じ取ったのか、冬美も真剣な顔になる。
「それで、警察はなんて言ってたの?」
「そのことを話す前に、まずは愛に謝らせてください」
突然勤の口から名前を呼ばれた愛がビクッと肩を震わせた。
愛は恐る恐ると言った感じで顔を上げると、伺うように勤の顔を見る。
勤はそこで気持ちを切り替えた。一旦遥香の事を忘れ、まずは愛に誠心誠意謝らなければならない。自分のせいで、とんでもないことに愛を巻き込んでしまった。自分がもし遥香に従わずこの店に来なかったら、あるいは写真の存在を知る前に手を引いていたらこんな事にはならなかったかも知れない。言い訳も許しを請う気もなかった。
ただ過去の自分に強い責任感を覚え、それに押しつぶされるようにして勤は頭を下げる。
「本当に、申し訳ない」
額が机の天板すれすれの位置を彷徨っている。頭を下げているので、冬美や愛の表情を見ることが出来ない。
沈黙が一秒ずつ積み重なっていく。勤の耳には自らの息遣いと、微かに香る秒針の音だけが響いていた。
愛が今どんな気持ちなのか分からない。怒っているのか、悲しんでいるのか、勤の事を軽蔑しているのか、それとも勤が頭を下げていることに対して全くの無関心なのか。
分からないけれど、勤は頭を下げ続けていた。自分のした行いに対して出来ることが頭を下げることだけだということが非常に情けない。次第にそんなだから自分は遥香の本性にも気づくことが出来なかったのだと思えてくる。
俺はなんて馬鹿なのだろうか。
そう思った時である。
「顔上げてよ」
愛の声が聞こえた。その声は怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえる。
勤は言われた通り、顔を上げた。
すると表情の読めない顔で、愛が勤の事を睨みつけている。
「いきなり謝られても、状況が分からないから。まずは何があったか教えて」
その声は冷たかった。まるで、勤がアモーに通い始めた頃の愛に戻ったかのようである。
それでも勤は拒絶されなかったことにホッとして、先ほど森田さんから聞いた話を愛に伝えた。まずはスマホにバックドアが仕掛けられていた事とそれにより外部から勤のスマホが操作されていた事を説明する。
するとそこで愛が、言葉を挟んできた。
「つまり、写真をグループラインに貼ったのは勤じゃないってことだよね」
「そうだ」
勤ははっきりと頷いた。
すると愛がふぅ~と息を吐き、胸を撫でおろす。力が抜けたようで、肩をガクッと落とした。そして微笑みを堪えるかのように、唇を噛み始める。
それから愛は横を向き、冬美と視線を合わせると嬉しそうに笑いあった。
「信じてみて、良かったです」
愛が笑顔で冬美に告げる。
「うん。良かったね」
そう言うと、冬美は愛の紺色の髪に手を乗せ、頭をそっと撫でた。それにはにかんだ愛が、そっと冬美に抱き着く。冬美もそれを受け入れて、頭を撫で続けていた。
やがて愛は勤の方を向き直ると、口を開く。
「冷たい態度を取ってごめんね。私自信が無かったの。勤の事を信じたい、信じなきゃいけないと思ってそうしていたけど、どこか怯えている自分もいた。本当に大丈夫かなって。だからさっきみたいな中途半端な態度になっちゃった」
愛が明るい声で言った。これは一緒にコンビニへ行った時のような声である。その声を聴いていると、勤の心も自然と軽くなって来た。
「いや、冷たい態度を取って当然だ。むしろ、会ってくれただけでも感謝している。改めて、俺のせいでこんなことになってしまって申し訳ない」
そう言って勤がもう一度頭を下げようとすると、それを愛の手が阻んだ。
「やめてよ。だって、あの写真を送ったのは勤じゃないんでしょ?だったら勤が謝ることないよ」
「でも、俺が愛に関わらなければこんなことにはならなかったはずだ」
勤がそう言うと、愛は眉を顰めた。そして強い眼差しで勤の事を睨みつけてくる。
「そんなこと言わないでよ。確かにあの写真が拡散されちゃったことはショックだし、今でもどうしようって思ってる。それでも、私は勤がアモーに来てくれて良かったなって感じてる」
そう言われて勤は、眼鏡の奥で瞳孔を開いた。まさか愛がそんなことを思ってくれているとは知らなかったのだ。勤は愛に対して一生かけても償えないような罪を犯したと思って来たが、当の愛は目の前で勤に微笑みかけている。
勤は何と言葉を発せば良いのか分からず、視線を彷徨わせた。
すると、愛が続けて言葉を発す。
「悪いのは、全部裕介なんだから」
愛がそう言った瞬間、勤は愛の顔を見て固まった。
「っ」
声にならない音が喉の奥から漏れた。突如訪れた衝撃を受け止めきれない。
そんな様子の勤を見て愛が続ける。
「だって、勤は私の写真を持ってなかったでしょ?だったら勤の携帯を使ったとしても、あの写真を送ることが出来るのはそれを撮った人物だけだよね?だったら、それは裕介だよ」
愛はさらっと告げた。しかし、その唇は僅かに震えている。気丈に振舞っているが、相当な勇気を振り絞ったことが伺えた。
勤はようやく情報を理解すると、愛に問い返す。
「あの写真を撮ったのは、裕介なのか?」
愛は頷いた。
勤がテーブルに肘を着き、頭を抱える。眼鏡を外して、目頭を押さえると疲れが目の奥にしみる。
まさか裕介がそんなことをしていたなんて。小学校の頃からの幼馴染なだけに、うっすらとした恐怖が背中に迫って来る。
「俺は警察の方に、犯人は遥香である可能性が高いと言われた」
勤は混乱する頭で、自身の持っている情報を明かした。すると今度は今まで静かに勤と愛のやり取りを見守っていた冬美が驚きの声を上げる。
「どういうこと?」
勤は冬美に聞かれるまま、勤のスマホにバックドアが仕組まれた経緯を説明した。すると冬美は何かぶつぶつ言いながら背もたれにもたれかかって考え込んでしまう。
愛も遥香が犯人だと聞いて険しい顔をしていた。
「じゃあつまり、遥香と裕介が結託していたってこと?裕介が撮った写真を遥香に送って、遥香が勤のスマホから拡散した。もしくは遥香がバックドアの情報を裕介に教えたとか」
「確かにそう考えれば筋は通るが、目的はなんだ?」
「それは、………、私や勤を貶めることとか?」
勤は強い違和感を覚えていた。遥香と裕介が繋がっていたとはとても考えられない。しかしそのとき、名古屋駅で親しそうに歩いていた二人の姿がフラッシュバックしてきた。あれは二人の仲を示す、最大のヒントだったのかもしれない。裕介や遥香には勤の知らない裏の顔があった。そんな考えが頭を過る。
それでもやはり、何かが腑に落ちなかった。
「愛は、遥香がそんなことをする人間だと思うか?」
勤は聞いてみた。
「確かに、私の知っている遥香は絶対にそんなことはしない。でももしかしたら私たちは遥香の幻を見ているだけなのかもしれない。私たちが遥香だと思っているのは私たちの頭が勝手に作ったイメージの遥香で、本物はもっと違う人格なのかも」
「………」
本当にそうだろうか。受け入れられない。どう頑張っても、遥香を悪者として捉えることが出来なかった。そうしようとすると、胸の中に苦しさが溜まっていき息が出来なくなってしまう。
頭の中がずっとモヤモヤしていて、強いストレスを感じる。
「これから、どうするの?」
愛が不安そうな顔で、聞いていた。
勤はそこで考える。そうだ、遥香がどうとかより、まずは何をすべきか考えなければならない。
「裕介があの写真を撮ったって言うのは本当なんだよな」
勤はもう一度確認を取る。
「そうだよ」
「じゃあとりあえず、それを警察に伝える」
そう言うや否や、勤は立ち上がりスマホから森田さんに連絡しようとした。
そのときである。冬美が立ち上がり、勤の腕を掴む。
勤は驚いて、冬美の方を見た。
冬美は構わず、勤にぐっと距離を近づけると至近距離から勤を見上げる。ちょっとでも顔を動かせば、鼻が触れてしまうような距離だった。
「ちょっと待って」
冬美が言う。
「警察には連絡しなくていい」
冬美はその大きな瞳を最大限に開いていた。その真剣な表情からとてつもない力を感じる。
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