第34話
愛は自室のローテーブルの前で毛布にくるまりながら、膝の間に顔を埋めた。目はすでに真っ赤に腫れていて、涙も出ない。ピンク色の昔好きだったアニメキャラクターの毛布が体を覆っているにも関わらず、体は冷え切っていた。
ふと目の前のローテーブル上に視線を向けると、デジタル時計が朝の五時だと知らせてくれる。
もうそんなに経ったのか。
一睡もしていないせいで、ひどい眠気に襲われていた。しかし、何度ベッドに入っても、悶々とした思考のループに誘われて、眠りに落ちることが出来ない。
そうして今、ベッドの縁を背もたれ代わりにして、お気に入りの白いカーペットの上で膝を抱え込んで座っているのである。
ずっと前に、冬美からLINEが来ていた。それは、勤と話してみないかという内容だった。どうやら、勤が謝りたがっているらしい。それ以外は何も書かれていなかった。詳しい話は本人から聞いた方が良いという事なのだろう。
はぁ~。
愛はこの夜何回目かも分からない、溜息を吐いた。どうして自分が誰かを好きになると、いつもこんな事になってしまうのだろうか。
あの思い出したくもないゴールデンウィークの一日、例の写真をあいつに撮られてから男の人なんてもう誰も信用しないと決めていた。まして同級生など、絶対に深く関わってはいけないと肝に銘じたはずである。
だから勤が店に来るようになっても、愛は全力で勤を拒絶していた。
でも、愛が木村先生の部屋で一人恐怖と闘っていた時、勤は助けに来てくれた。そのときの、勤の声は今でも耳に残っていて、再生するたびに安心感が溢れてくる。
しかし、そのせいで勤の事を信用してみても良いかなと思ってしまったのだ。
そして、少しだけならと勤に関心を示してみたら、途端に勤と言う人間に惹かれてしまったのだった。まるで雨後の川に興味本位で足を入れたら体ごと流されてしまったかのように。
そんな気持ちはすぐに恋心へと変わった。
勤は頭が良くて冷静沈着な感じがするのに、実はめちゃくちゃ不器用で、でもそんなギャップが可愛らしいなと思った。
愛は勤がアモーで遥香の話をしてくれた時の事を思い出し、その時の気持ちが蘇ってくるのを感じる。
あのときだった。愛がはっきりと、勤への好意を意識したのは。そして今もまた、胸の中がポカポカ温まってきて、勤への想いで満たされていく。
あの後愛は、カフェに行き勤へ写真の話をした。なぜだか分からない。でもあのときは、勤にだけは自分の一番の秘密を知って欲しい気がしたのだ。それさえ話すことが出来れば、勤の前では自然体でいられると思った。だから勇気を振り絞った。すると、勤は愛の秘密を引くこともなく受け入れてくれたはずだった。
それなのに、写真は拡散された。
信じたくない。勤がそんなことをするなんて信じられない。でも実際に写真はクラスラインに送信された。愛も昨日の朝、自らの手で確認したのだから間違いない。
前もそうだった。あいつから例の写真が送られて来た時も、最初は何かの間違いかと思った。信じていた、あいつのことを。でも、裏切られた。
私は人を見る目がないのだろうか。私が一番信じた人は、必ず私を裏切って来る。どうしてなの?私なにか、悪いことをした?
頭の中で、誰にともなく問いかけた。やがて枯れたはずの涙がまた目の端に浮かび始めて、それを指の背で拭う。目の周りが腫れているせいで、ちょっとした痛みを感じた。そんな些細なことでさえ、自分が責められているように思われて心が抉られる。
愛は鼻をかみたくなって、ローテーブル上のティッシュに手を伸ばした。そのとき、ドアの横にある本棚の上に目が行く。棚の上にはブックスタンドに一冊の本が飾られていた。
勤と買いに行ったあの写真集だ。
愛は鼻をかむことも忘れて、徐に立ち上がった。肩から毛布が落ちた瞬間、気温が五度くらい下がったような気がする。さらにしばらく同じ姿勢で座っていたせいか、立ち上がった時に体がグラついた。
愛は写真集を手に取ると、本棚の前に立ったままページを捲り始める。
一枚目の写真は、このアイドルの地元にある港で撮られたものだ。背後に雄大な海を据えながら、憧れのアイドルは満面の笑みをカメラに向けていた。
愛はパラパラとページを捲っていく。そのアイドルは写真毎に違う表情をしていた。同じ笑顔でも、はっきりと種類の違いを感じられる。表情一つでその背後にある物語が見えてくるかのようだった。
愛は改めて畏敬の念を感じると同時に、初めてこのアイドルが全く別の世界の人間のように見えた。
今までもあまりに遠い存在過ぎて、自分とは住む世界が違うのではないかと思ったことはある。でもどこかで、いつかは追いつく存在、いつか自分もあそこまで辿り着くんだと思っていた。遥かに遠い道のりであることは分かっていたけれど、道が見えていないわけではなかった。
しかし、今は違う。愛は完全に自分の進む道を見失ってしまったのだ。
もうアイドルになることは諦めなければいけないのかも知れない。
それはもちろん、あの写真のせいだ。クラスメイトのどれだけが、あの写真を保存したのだろうか。その写真はどれほどその友人たちへと広まるのか。そしていったいいつ、一生消えない傷としてネットの海を彷徨うのだろうか。
もしアイドルになれたとしても、その瞬間にあの写真は自分の背中を追いかけてきて、必ず足を引っ張って来る。そんな状態で笑っていられる自信なんてなかった。
そんなことを考えながら愛は写真集を進めていく。本の中で憧れだった人の表情が、愛の心情に合わせるかのように変化していった。
やがて写真集も終わりが近づいてきていて、愛の前では浜辺で花火をしながら儚げな笑みを浮かべているアイドルがいる。
それを見ていると、また涙が零れてきた。愛が俯いて、泣き声を殺していると一粒の涙が本の中に落ちて、線香花火の輝きを滲ませる。
愛はパジャマの袖で涙を拭った。腫れた皮膚が擦られて痛むのも気にならない。
愛はさらにページを捲った。
次のページには写真ではなく、インタビューの記事が載っていた。インタビューでは質問と、アイドルの回答がありのままの言葉で綴られている。
アイドルになったきっかけ、辛い時に支えてくれた仲間への想い、スタッフやファンへの感謝。アイドルとして満点の回答が続く中、愛はある一つのやりとりに目が引きつけられた。
「私、人を信じることって笑顔に似ていると思うんです。よく言うじゃないですか。私たちは楽しいから笑っているのではなく、笑っているから楽しくなってくるんだって。私も職業柄笑顔を作ることが多いので、それはすごく実感しているんです。それと同じで、信用できそうだからその人の事を信じるんじゃなくて、私がまずその人の事を信じる。そうすることで、相手も私の事を信じてくれて信頼関係が出来るのだと思うんです。初めからこの人は信用できるかどうか考えていても駄目なんだって」
「すごいですね。素朴な疑問なんですが、それで裏切って来るような人はいないのですか?」
「もちろん、ありますよ。どれだけ笑顔を繕っても涙が止まらない時があるように、全員から信用してもらえるわけじゃありません。私もアイドルになる前もなってからも、たくさん裏切られたり騙されたりしてきました。でもそんなときでも私は相手の事を信じるようにしています。きっと私を騙した人にも何かどうしようもない事情があって、仕方なくやったんだと思うようにしてるんです。それが事実にしろ事実じゃないにしろ、そうやって相手の事を受け入れれば私の心が軽くなるので。(笑)」
その言葉を理解した瞬間、愛は思わず写真集から顔を上げた。
世界を見る角度が百八十度変わったような気がする。行き止まりだと思っていたところに、道が開けたような感覚。
愛はそこで写真集を閉じると、本棚に戻す。体がとても軽くなっていた。さっきまで感じていた寒さもいつのまにか忘れている。
表紙のアイドルと目が合った。これが人を信じる目なのだろうとふと感じる。
愛は軽くなった体で、窓際まで行くとカーテンをいっぱいまで開いた。まだ日が昇る前の朝は薄い青色をしている。窓に映る住宅街の景色は殺風景で無表情だけれど、どこか笑う直前の頬の綻びみたいなものを感じさせた。
愛は少しの間だけ窓を開けてみる。すると肺いっぱいに刺すような冷たい空気が入り込んできた。ずっと頭の中でモヤモヤしていたものが、早朝の鋭い風に流されていく。
そして吸い込んだ空気を思いっきり吐き出すと、窓を閉めてローテーブルに戻った。
腰を下ろすことさえもどかしく、立ったままスマホを手に取る。
フェイスIDでロックが解除され、ホーム画面が現れた。そのまま画面の下にあるLINEのアイコンをタップする。
いくつかの未読メッセージが溜まっていたが、その中で冬美からの連絡を選ぶとすぐに返信した。
もう一度だけ、勤を信じてみよう。
早朝にも関わらず、愛のメッセージにすぐ既読が付く。それから、日時と場所が送られてきた。念のため冬美にも同席して欲しいと言うと、元々そのつもりだったようで二つ返事で承諾される。
そのときだった。冬美との連絡を終えてスマホを置くと、窓の外が赤く色づき始める。まだ赤く染まっているのは空のほんの一部だけれど、愛は胸の前で手を組み、ふっと笑顔を作った。
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