第33話

 冬美は勤と別れた後、再び図書館へと戻った。やっぱり考え事をするなら本に囲まれた状況の方が良い。

 二階、小説コーナー近くのテーブルに腰かけると、一度席を立って先ほど手に取りかけた小説を持ってくる。今は本を読むような気分ではなかったが、近くにあると落ち着くのだ。

 先ほどからずっと胸がざわついていた。またあのような悲劇が繰り返されようとしている。しかも今回は前よりもずっと執念深くて質が悪い。

 自然と胸の中に押し込めていたはずの記憶が蘇って来る。

 冬美はかつて殻に閉じこもっていた。母が自分を育てることに苦労してきた姿を見ていたせいか、自分と関わった人間は不幸になると思い込んでいたのである。だから物心ついた頃から他人との間に壁を作り、どこに行っても一人で過ごすようになっていた。教室で友達と笑いあっているクラスメイトを見て、羨ましいと思わなかったわけじゃない。でも、自分は彼女たちのためにも輪の中に入ってはいけないのだと信じていた。

 そんなある日、あれは中学二年生の頃。冬美は放課後になると毎日のように図書室へと通っていたのだが、そこで自分と同じような男の子を見つけた。彼はいつも周囲との間に壁を作って、静かに一人本を読んでいた。

 そのとき冬美は、今まで他人に対して抱いたことのない感情を覚えた。

 それは好奇心である。読書をしている彼の目は、誰よりも輝いているように見えたのだ。

 彼は冬美よりも一つ後輩で、名前は聞いたことが無い。それでも冬美は彼に興味が湧いて、好奇心に勝つことは出来ず話しかけてしまった。それから彼とは読んだ本を紹介しあったり、時にジョークを言い合ったり、時にはお互い黙って本を読むような関係性になった。

 しばらく経ったある冬の日、図書室にまた別の人物が通い始めた。その人は冬美のクラスメイトだった。彼は図書室にある本には一ミリの興味も示さず、毎日のように冬美へと話しかけてきた。冬美はそれとなくそのクラスメイトを拒絶していたのだが、彼は図書室通いを辞めなかった。クラスメイトが来た時はいつも、後輩の彼は気を遣ってか冬美たちから距離を取り本の世界に没頭していた。

 やがて冬美が三年生になった頃、突如後輩の彼は図書室へと来なくなった。

 その翌日、全校集会が開かれ彼が自殺未遂を起こしたことを知った。原因はいじめだったようで、いじめていたのは例の冬美のクラスメイトだった。

 ちょうどその頃、冬美はそのクラスメイトから呼び出されていた。怒りに震えた冬美は校舎裏で、クラスメイトを糾弾した。その頃にはすでに学校と教育委員会の調査も終わっていて、クラスメイトはちょっとしたお叱りを受けただけで他に咎められることは無かった。

 冬美は学校に代わって、クラスメイトを問いただした。すると返って来たのは、冬美のためだったという言葉である。彼曰く、冬美につき纏っている迷惑な虫を追っ払っただけらしい。その言葉を聞いた瞬間、冬美は絶望した。その時初めて、人の醜さを知った。その時初めて世界の残酷さを知った。冬美は全身が燃えるかのような怒りに襲われたが、それを向ける先を知らなかった。

 結局後輩の彼は教室の窓から飛び降りたものの一命をとりとめ、転校していった。

 深い怒りとこの世に対する細やかな絶望を知った人間が歩む道は二つである。一つは自己犠牲をも厭わず理不尽に抗うことで、もう一つは何もかも受け入れることだ。冬美は理不尽に抗うには自分を愛しすぎていて、後者の道を選んだ。もう何にも期待することなく、怒りも絶望も胸に秘めて穏やかに暮らしていくことを決めた。ほんの少しの願いとして、自分の周囲の人間だけは幸せであったらいいなと思っていたが、どうやらそれすらも世界は許してくれなさそうである。だったらやはり、一切の希望を持たず生きていくしかない。そう思って、ありとあらゆる気持ちを胸の奥底へとしまいこんできたはずだったのに………。

 再び冬美の前に姿を現そうとしている理不尽に、胃の奥のあたりが沸々と煮え上がるような心地がした。残酷なことに理不尽が襲い掛かるのはいつも冬美ではなく冬美の周りの誰かである。今回もそうだ。それが冬美をより一層不快にさせた。

 どうせなら私自身を粉々に破壊してくれればいいのに。もしそうだったら、どれだけ楽で恍惚的な事か。

 そこで冬美はスマホを取り出した。

 今回はまだはっきりと何かが起きた訳じゃない。まだどうしようもないような状況を防ぐためにも方法は残されている。過去に囚われていては駄目だ。前を向いて、出来ることをしなければ。

 まずはとにかく愛ちゃんを呼び出して、勤への誤解を解いて貰わないと。

 そう思ってLINEを開くと愛を呼び出す口実を考えつつ、自然と指は遥香とのトーク画面に向かう。特に深い意図もなく、画面をスクロールして会話履歴を一番上まで遡った。

 九月十日。メッセージは遥香の方から届いていた。

「お久しぶりです!ちょっと久しぶりに話したくて連絡しちゃいました」

 この時は確か、勤がアモーへと来る前である。

「実は勤の事で………」

 冬美は以前から遥香に恋愛相談を持ち掛けられていた。だから勤がどんな人物かもなんとなくは把握していたのである。

「どうしたの?」

 冬美が返信していた。すると少しの間があって遥香からメッセージが帰ってきたことが、送信時刻から確認できる。

「はい、この引っ越しを機に、勤の事はもう忘れようって思ったんです。今まで勤には頼りっぱなしの人生だったから、いい加減自立して成長しなきゃって気がしていて。結局、勤からも告白もされなかったですし………」

「それで?」

「はい。でもやっぱり忘れられなくて」

「だったら連絡すればいいじゃない」

「でもそれもなんだか、勇気が出ないんです」

 この時冬美はまたいつもの可愛らしい恋愛相談だと思って、あまり深く考えず答えていることが自分でも分かる。

 九月二十四日。勤が初めてアモーに来た四日後だ。

「勇気、出したんだね」

 今度は冬美の方からメッセージを送っていた。

「え?」

 遥香の戸惑ったような返信。

「連絡したんでしょ、勤君に。この前、彼がうちの店に来て遥香から連絡があったって言ってたよ」

「いえ、私はまだ勤に連絡していません」

 そのメッセージから冬美の返信までは数分の間があった。その間が、かつての自身の混乱を顕著に表している。初めて違和感を抱いたのはこの時だ。

 それから数分後、冬美は遥香にこうメッセージを送っていた。

「もし勇気が出たら、勤君に連絡する前に私に連絡してくれない?」

 冬美はこの時の感覚を今でも覚えている。かつてダンス部の先輩後輩だった頃から、遥香には恋愛相談と共にもう一つの相談も持ち掛けられていた。それがストーカー被害である。何か目立った実害があった訳ではないが、遥香は気味悪く感じていたようだ。そしてしつこく遥香を付け回っている人物の名前も聞いていた。

 それらの話が過去の自分の記憶とも脳内で絡まり合って、とてつもなく嫌な予感が全身を駆け巡った感触。

 その感覚は今再び冬美の中に現れて心を支配しようとしていた。

 そしてつい先日。

「勇気が出ました」

 突然、遥香からメッセージが送られてきていた。それに自分は淡々とメッセージを返している。

「分かった。じゃあ、申し訳ないんだけど勤君に連絡するのはちょっと待ってくれる?」

「どうしてですか?」

 すぐ遥香から返信があった。遥香が疑問に感じることは当然である。遥香は丁寧にこちらの状況を説明した。

「そうですか………。分かりました」

 遥香は勤の置かれている状況を理解してくれたようである。

「その代わり、ちゃんとその勇気を使う場面は用意するから」

 それが遥香と冬美のトーク履歴だった。

 そこで冬美はようやく覚悟を決めると、遥香とのトーク画面を離れる。それから、上のアイコンをタップすると、愛にメッセージを送った。

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