第32話
勤が立ち上がったのは、それから十分ほど経ってからだった。勤はまるで夢から覚めたかのように、部屋の中を見回す。
やがて手探りで眼鏡を拾い上げると、再び視界がクリアになる。自分は何をしているのだろうか。なぜ部屋の真ん中で突っ立っているのか。分からなかった。
ただ愛の写真のことだったり、遥香のことだったりを考えることが出来ない。考えようとしても無意識のうちに思考が脇に逸れてしまう。それにさっきからずっと、胸がざわついていて心臓が激しく拍動していた。
勤は大切な事から逃げるようにして、落ちていた参考書を拾い上げる。さらに机上に見えた他の参考書もかき集めるとリュックに詰め込み家を飛び出した。そのまま道を進んで、アモーとは反対方向に進むと、やがて図書館に辿り着いた。
窓際の空いている席を見つけると、勤は数学の参考書を開く。付箋の貼ってあるページを確認して、その問題に取り組んだ。どうやら関数の問題のようである。勤は問題文を読み、グラフを作ると求めるべき部分を斜線で塗りつぶして、面積を計算していった。
勉強していると、いつもの癖で勝手に集中してきて他の事を考えずに済む。
勤はペンを握って、ひたすらに数式と向き合い続けた。一つ一つ論理立てて、問題を解いていく。時には解法が見えなくなり、計算ミスをし、問題文を読み間違える。しかし、それを直して正しい答えに辿り着くたび、自分が一つ成長した気がするのだった。問題を一つ、また一つと解いていくたびに、脳内で快楽物質が溢れ出てくるような感覚がする。ずっとこうしていたい。こうやって勉強だけして、生きていければどんなに良いだろうか。他人のことなど考えず、ただ自らの頭脳を高めることだけに神経を注ぐ。
しかし俺はどうして勉強してきたのだったか。
そう思い至った瞬間、勤のペンが止まる。頭の中で、遥香の声が再生された。
「勉強を頑張っている勤が好き」
「いいなー、勤は賢くて」
「さすが、勤。頼りになるね」
結局遥香なのか。そう思うと笑えてきた。途端にペンを持っていることが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
時計を見ると、すでに図書館に来てから三時間近くが経過していた。窓の外は真っ暗だ。
勤は分厚い参考書を閉じる。バタンと音がした。
右手の中にあるペンを再び動かすと、ノートの余白に文章が生み出されていく。
「俺の人生はなんだったのか」
「俺は結局何がしたいのか」
「俺はどうなりたいのか」
続いて答えをかき込もうとしたけれど、何一つアイデアが浮かばない。今まで解いて来たどんな数学の問題よりも難しい。そんな難問だからこそ、今まで考えることを避け続け、こんな有様になってしまったのか。
勤は何もかも諦めて、席を立った。たまには意味もなく、のんびりと読書をしてみるのも良いかもしれない。
そう思って螺旋階段を上り、小説の棚がある二階へと向かった。
昔好きだった作家の本がありそうな棚に目を付けて、角を曲がる。棚は作者別のあいうえお順で整理されていた。
「あっ」
通路から棚の前へと一歩を踏み出した瞬間、勤はその場に硬直して思わず声を上げた。なぜ自分でも声が出たのか分からない。それほど驚くことでもないだろうに。
勤は咳払いをして声を上げてしまったことを誤魔化すと、眼鏡の位置を直す。
すると本を引き出そうと背表紙に指を掛けていた冬美にピントがあった。しかし再び視界がぼやける。
シーンと静まり返った館内。勤はどうすれば良いかも分からず目の前にいる冬美をぼんやりと眺める。
勤が声を漏らしたことにより、冬美も手を止めて勤の方を振り返った。
視線がぶつかる。
すると冬美が取りかけていた本を棚に戻し、勤の方へとゆっくりやってきて囁いた。
「気づいている?君、泣いてるよ」
「なるほどね」
勤が事の顛末を話し終えると、冬美が呟いた。
図書館でばったり出くわした後、勤は半ば強引に近くのファミレスへと連れてこられたのである。勤の前にはハンバーグのなくなった鉄板が残っていた。冬美の方はサラダとちょっとしたパスタを食べた後である。
冬美は気を遣ってか、食事中は特に何も聞いてこなかった。勤もここに来て初めて空腹だったことに気が付き、食べることに集中していた。
それにより、勤は食後のコーヒーが来てやっと今日の出来事を説明したのである。
どうやら愛は今日、理由も告げず突然アモーを休んでいたらしく、不思議に思っていたらしい。そこで冬美は勤の話を聞き、何かが腑に落ちたように頷いたのだった。
「そんな写真の話、聞いたこともなかったし、ちょっと衝撃的だけど、愛ちゃんが休んだってことは本当の話なんだろうね」
「はい。嘘はついていません」
「でも、君はなんで泣いてたの?そんなことで君があれほど落ち込むようには思えないけれど」
冬美が前かがみになり、勤の目を覗き込んで来る。
「実は………、遥香に恋人が出来たそうです」
そう言った瞬間、冬美のカップを持つ手が止まった。
「今、なんて?」
「だからその、遥香に彼氏が出来たらしいです」
「それは誰から聞いたの?」
「遥香自身です」
冬美は情報を頭の中で情報を咀嚼しているようだった。カップを置いて、難しそうに顔を歪めながら黙り込む。
「それで君は落ち込んでいたと」
「自分でも気づいていませんでしたが」
勤は自虐的に笑った。
しかし冬美は笑わなかった。それどころか、より一層真剣な顔をして勤に訴える。
「だったら、そのことは深く悩まなくても大丈夫だよ。遥香の事は一旦、忘れた方が良い」
「それは前を向けってことですか?」
冬美は首を横に振った。
「上手く説明できないけど、君と遥香との関係はずっと前から何も変わっていない。君が思っている以上に前から。つまり、君が遥香とどんな会話をして、どんな情報を与えられたとしても、君と遥香との距離は縮まりも開いたりもしないってこと」
「どういうことですか?」
「今は分からなくても良い。ただ遥香の事は絶対に大丈夫だから、一旦忘れて。それよりも君には集中しなければいけない問題がある」
「愛の写真の件ですか?」
勤の問いかけに対して、冬美が重々しく頷いた。
遥香の事を忘れろという言葉は腑に落ちない。しかしそれを言った冬美の表情は真剣そのものだった。そもそも冬美ならこんな回りくどい冗談はつかない。ならば、信じるしかないのだろうと思う。それに例の写真の件をどうにかしなければいけないのは事実だ。
勤は冬美に話を聞いてもらったおかげで、冷静さを取り戻しつつある。それにより状況が客観的に見え始めていた。
勤が意を決して、姿勢を正す。
「一つ、お願いがあります」
勤は言った。
「愛と直接会って話したいんです」
そう言った瞬間、冬美は考え込むように眉を顰めた。
「どうして、愛ちゃんと話したいの?」
「愛は、写真を撮った人物の名前を教えてはくれませんでした。しかし、状況的に考えてその人物が俺のスマホを操り、写真をばら撒いたのは明らかです。だからなんとしても、犯人の名前を聞きたいんです」
「でも愛ちゃんは相当なショックを受けているはず。君を信じて写真の事を打ち明けたはずが、それをクラスラインで晒されてしまった。君に不信感を抱いているだろうし、きっと軽蔑している。素直に話してくれないかもよ?」
「それでも、話し合わなければいけないと思うんです。俺が犯人じゃないにしろ、愛を傷つけてしまった事は事実です。だからまずはそれを謝りたいと思っています」
冬美が勤の瞳を真っすぐ覗き込んで来る。勤の誠意を試しているようだった。
それを理解した勤は視線を逸らすことなく、真っ直ぐと視線を返す。自然と目尻に力が籠った。
「分かった。やってみるよ」
やがて数秒睨み合った後、冬美は言った。
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