第31話
勤は自分が夢の中にいるのではないかという感覚を覚えつつも、忙しなく家への道を急いでいた。ずっと浮足立っていて、目の前の光景に現実味がない。自分の体が、自分のものではないかのような気がしている。
やがて帰宅すると勤はすぐ自室へ入り、パソコンを立ち上げた。投げやりに腰を落としたため、椅子が軋む。
デスクの端には普段使っている英語の参考書が積まれているが、それがどこか遠い世界の書物のように見えてきた。
パソコンが立ち上がる。LINEを開くとメッセージが届いていた。遥香からだ。
勤はすぐにカーソルを合わせて、遥香とのトーク画面を開く。
「これ、どういうこと?」
メッセージの下に、一枚の写真が貼られている。それはクラスラインのスクリーンショットだった。
遥香は転校したものの、グループラインには名前が残っている。だから、勤のメッセージも見ることが出来たのだ。
勤はまた先ほどした説明を、打ち込んでいく。しかし警察に説明した時のようなめんどうくささは感じなかった。むしろ、あれこれと説明をするうちにキーボードを打つ手が早くなっていく。遥香なら分かってくれるはず。そんな期待が胸をかすめる。
そうやってカタカタと文章を打っていると、突如遥香から電話がかかって来た。どうやら返信を待てなかったらしい。
勤は迷わず、通話ボタンをクリックした。
「もしもし」
電話越しに遥香の声が聞こえてきた。その声だけで安心感を覚える自分がいる。
しかしそれはいつもの弾けるような声ではなかった。
「もしもし」
「これ、どういうことなの?何この写真?なんで勤が愛ちゃんの裸を?それにその下の写真も。勤と愛ちゃん、付き合ってたの?」
「落ち着いてくれ。今ちょうど説明しようとしていたところだ」
勤はそう言うと、事の顛末を説明した。話していると次第に熱が入って来る。自分の状況を伝えたいと言う気持ちが先走っていて、遥香に見えていないにもかかわらず、身振り手振りまで大きく使った。
一通り説明を終えると、沈黙が生まれた。遥香は言われたことを必死に処理しようとしているみたいである。
「なるほど………」
数秒後、電話の向こう側から遥香の声が聞こえてきた。
「もはや、愛ちゃんの悩みを解決するような状況じゃないってことだね」
「そうだ。むしろ俺の悩みを解決して欲しいくらいだ」
「珍しいね、勤がそんな弱気なの。こんなこと言ったら申し訳ないけど、私は弱っている勤が見られて少し楽しいかも」
電話の向こうからくすっと笑うような声が聞こえる。
「笑い事じゃない」
「ごめんごめん」
「愛の悩みに関してだが、この前言えないと伝えただろ?あれはこの写真の事だ。愛はこの写真を撮られた人物に、学校に来たら写真をばら撒くと脅されていたようだ」
「へぇ、勤がそんなことしてたなんて」
「冗談でも怒るぞ」
勤の眉がピクリと動いた。本人も意識しない間に、顔が険しくなる。遥香はこんな無神経だっただろうかという疑問が頭を掠めるが、考えている余裕は無かった。
「ごめんなさい………。それで、その人物って誰なの?」
「分からない。そこまでは教えてもらえなかった。だからちょうど今から愛に聞こうとしていたところだ」
「どうやって?」
「どうやってって、普通にLINEを送るつもりだったが」
「それはまずいんじゃない?」
「どうして?」
「だって犯人は勤のスマホを外部から操作したかもしれないんでしょ?だったら、LINEとかの会話が監視されている可能性もある。そうなったら、愛ちゃんに犯人を聞こうとしているのがバレて、犯人を刺激しちゃうかもしれない」
確かに言われてみればそうだった。そこで勤はようやく、自分も冷静さを失っていたのだと言う事に気づかされる。加えて、遥香の声を聴いているおかげで、体中の筋肉が弛緩していくような心地もした。
「それに、愛ちゃんだって可哀そうだよ。愛ちゃんは勤の事を信用して、写真の事を打ち明けてくれたんでしょ?それなのに勤が写真をばら撒いてしまったと思っている。たぶん相当ショックを受けているんじゃないかな。そんな時に勤が連絡しても、まともに取り合ってもらえないよ」
それは遥香の言うとおりだった。勤はいきなりとんでもない状況に巻き込まれたせいで、愛のことまで考える余裕がなかった。
しかし愛の事を思うと、申し訳なさと自分への呆れが同時に押し寄せてくる。
愛は自分を信用してくれたにも関わらず、勤自身が最悪の事態を引き起こす一因となってしまったのだ。
「俺は少し焦りすぎていたのかも知れない」
勤は自省するように、声を出した。
「仕方ないよ。いきなりこんなことに巻き込まれたんだから」
遥香の言葉は、すっと勤の心に入り込んで、奥深くまで沁み込んでいく。重かった心に翼が生えたような気分がして、胸が締め付けられるような感じがした。
「とにかく、私に出来ることがあったら何でも言ってよ。勤の力になれることなんて滅多にないんだから。今まで頼りっぱなしだった分をようやく返せるよ」
「頼もしい限りだ。遥香がいてよかった」
勤は思うままの言葉を口にした。どうしても伝えなければいけない気がしたのだ。
「ふふ、ありがとう」
そこで少しの間沈黙が流れる。でもそこには張り詰めた空気など微塵もなくて、温かい気遣いに溢れた間のように感じられた。
そこで勤は一息つくと、背もたれに体を預ける。朝からずっと緊張していた体が弛緩していく。何も事態が進展した訳ではないが、勤の頬が自然と綻ぶ。蛍光灯の光が、いつもよりも暖かく光っているような気がした。
「そういえば、勤に一つ報告があるんだ」
遥香の声はいつもと同じトーンだった。この前、面白いアニメを見たんだとでも言うかのようである。
そんな口調で遥香は口にした。まるでそれが大して重要じゃないと思っているかのように。
「私、彼氏ができたの」
その言葉を勤が処理するのに、優に数十秒はかかった気がする。勤はパソコンに表示されている遥香の文字を見ながら固まった。先ほどまで親しみを覚えていた漢字二文字が突然、赤の他人の名前のように思えて来る。
「どういうことだ?」
やっとのことで勤は口にした。平静を装ったつもりだったけど、勝手に喉が震えてしまう。
「そのままの意味だよ」
「相手は?」
「新しい学校のクラスメイト。結構イケメンで、転校したばかりの私にも優しくしてくれて、気づいたら好きになってた」
遥香は勤の動揺に気が付いていないのか、淡々と語っていく。
「それでね、勇気を出して告白したら、まさかのOK貰っちゃったの」
勤もまた、遥香の話は映画の中の出来事かのように実感がなかった。遥香がイケメンに告白している図が頭に浮かんだ。本当にそんなことが現実の世界で起こったなんていうことが信じられない。
勤は閉じ方を忘れたかのように、口を呆然と開いていた。暖かかったはずの蛍光灯の光が、チカチカし始める。
焦点がぼやけていた。机の上に置かれた参考書の青が、ぼんやりと視界の中央に位置している。
何か言わなければいけない気がしたけれど、何も思い浮かばない。
「勤?」
異変を察知したのか、遥香が心配そうな声をかけてくる。
勤は一言、「すまない、また掛ける」と絞り出した。
次の瞬間、通話の切れる音が響いて、それからは音一つない静寂が部屋へと訪れた。まるで世界に自分たったひとりになってしまったかのような気がする。
勤はその静寂が自分を嘲笑しているかのような錯覚に襲われ、意味もなく視界に映り続けていた参考書に手を伸ばした。わざと大きな動作でそれを掴むと、激しくページを捲る。紙の擦れる音だけが、勤の耳を支配した。
内容は何一つ入ってこない。ただ暗号のように並ぶアルファベットの配列が、勤の頭をかき乱した。そんな英語の一文字一文字でさえ、勤を嗤っているかのように見えてくる。
やがて勤は最後のページまで捲り終えた。激しい頭痛がする。今日起きたどんな出来事よりも衝撃的な事実が、頭の後頭部を直撃した。
腕の力が抜けて、参考書が床へと落ちる。落ちた参考書は中途半端に開いた状態で、ページが降り曲がっていた。しかし勤は拾う気になれない。
自分がどこにいるのか分からなくなった。呼吸が荒くなって、意識が朦朧としている。全身が焼けるように熱くなってきたのは、暖房のせいではないはずだ。
体中から力という力が抜け落ちて、勤は椅子に全体重を預ける。すると椅子は勤の体を拒否するかのように後ろへ転がり、勤は床にしりもちをついた。一瞬視界が揺れて、眼鏡がどこかに落ちる。
数秒、あるいは数分の後、尾骶骨のあたりに強烈な痛みが現れた。
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