第30話
十二月一日、勤はとても嫌な夢を見た。内容は覚えていない。しかし朝目覚めると、寝汗をびっしょりと掻いていて、全身に寒気がするような不気味な感触が残っていた。よく見ると、自分の両手が小刻みに痙攣している。いったいどんな夢を見たと言うのだろうか。
勤は不思議に思いつつ深呼吸をして浅かった呼吸を整えた。カーテンを開けたが、気持ちのいい朝日が差し込んで来ることもない。ただどんよりとした灰色の雲が空を覆っているだけである。
その後、勤はなぜか調子が上がらず朝の準備に普段の倍近い時間がかかった。そして遅刻寸前で教室へと滑り込んだ。
教室のドアをスライドさせると、小気味の良い音が響き渡る。勤はいつも通り俯き加減で、部屋の中へと一歩を踏み出した。だが、それと同時に言いようもない強烈な違和感に襲われる。
勤は思わず、足を止めた。何なのだろうか、この不気味な感覚は。
その正体は視線だった。
クラスメイト全員の視線が教室の入口に立つ勤へと注がれている。好奇の目を向けるもの、睨みつけるもの、軽蔑の意を示すものとその視線の意味は違う。しかしクラスメイト全員が勤に注目していることは間違いがない。
勤は目立っている理由が思い当たらず、視線を無視して席に着く。だが今度は、勤の周りでみんながヒソヒソと話し始めてしまった。みんな勤の事を遠目に伺いながら、近くの友達と小声で話している。
最初は無視しようとした勤だったが、普段とは明らかに違う教室の雰囲気にとても耐えきれなかった。
話を聞こうと立ち上がり、裕介の席へと向かう。また教室が静まり返り、勤の行動に意識が向けられる。
裕介は高木たちのグループで話していた。高木たちもまた、勤に奇異な視線を送っている。裕介の元へと行くと、高木が裕介に耳打ちしたのが聞こえた。
「おい、ポッチャマ、お前、あいつと仲良かったよな。話聞いて来いよ」
裕介は何か口籠っていたが、高木が裕介の背中を押し無理やり立ち上がらされた。
裕介が勤の方を見て、視線がぶつかる。
「と、とりあえず、こっち来いよ」
裕介がそう言うと、廊下へとずんずん進んでいく。勤は背中に刺さる視線を振り払うかのように後に続いた。勤が教室を出た瞬間、背後からどっと話し声が溢れ出したのを感じる。
裕介は人気の少ない廊下まで勤を誘導した。途中でチャイムが鳴ったが、どうせ先生が来るまでは時間がある。校門を潜ってさえいれば、遅刻扱いになることもない。
「おい、やばいことになってるぞ」
やがて手洗い場の前にやって来た裕介が口を開いた。
「どういうことだ?」
勤が聞くと、裕介が怪訝そうな表情を向けてくる。
「お前、本当に自覚ないのかよ?」
「自覚?なんのことを言ってるんだ?」
勤は裕介の言っていることが理解できず、頭を捻る。
すると裕介が溜息をついて、ポケットからスマホを取り出した。
「これ、どういうことだ?」
スマホの画面が勤の眼前に提示される。そこに映し出されていたのは、LINEの画面だった。クラスメイト全員が参加しているグループラインである。
勤はそれを見た瞬間、口を開けたまま固まった。
目に見えているものを瞬時に理解することが出来ない。裕介からスマホを奪い取るようにして、顔に近づける。
眼鏡を外して見てもそこに映し出されている画像は変わらなかった。
今朝五時頃、クラスラインにメッセージが送られている。
送り主は、勤。内容は、愛の裸の写真だった。もちろん拡大されていたりモザイク処理がされていたりなんてことはない。元の画像である。それに加えて、一緒に取ったチェキの写真や、二人が手を繋いでコンビニに入る姿の写真も送られている。
頭が割れるような痛みが襲ってきた。
「教室では今色んな噂が飛び交っている。一番有力なのは、お前と愛が実は付き合っていた。でも何かが原因で分かれてしまい、その腹いせに写真を送ったという説だ。今じゃお前は立派な変人扱いだよ」
「俺じゃない」
勤が言う。
「俺が送った訳じゃない。そもそも、こんな写真は全部俺のフォルダには入っていない」
勤は冷静に喋ったつもりだったが、口調が勝手に強くなってしまう。喉も震えていた。
「俺も、お前がこんなことをするなんて思えない。でも、実際に写真はお前のアカウントから送られている。これはどういうことなんだ?」
「知るか」
頭が混乱していて、つい声が大きくなってしまった。勤は自分が人前で怒鳴り声を上げたことに驚く。しかし、深く考える余裕なんてなかった。
裕介が目を見開いて、一歩後退する。
「お前、なんか変だぞ」
勤はそれには答えず、自身のスマホを取り出す。パスワードを何度も打ち直しながらも、LINEを開くと確かに自分が愛の写真を送信していた。それを慌てて、送信取り消しする。
そして次は写真フォルダを確認した。すると、ちょうど写真が送られた時刻とほぼ同時刻に愛の写真と他の二枚の写真が保存されている。
全く記憶の無い写真が携帯に入っていることに恐怖し、手が震えた。スマホを握る手から力が抜けて、スマホが手から滑り落ちる。
頭がガンガン揺れていて、呼吸が荒れる。手洗い場の淵に両手をつくと、徐に蛇口を捻った。水が勢いよく飛び出してくる。跳ねた水滴が手に冷たい感触を与えた。勤は意味もなく、両手を流れ落ちる水の中に浸す。十二月の水道水はとても冷えていて、熱くなっていた勤の体から熱を吸い上げていく。そのせいでスッと背筋が冷えたかのような感覚があり、全身が小刻みに震え出す。
「すまん、先に戻っていてくれ」
勤が喉から言葉を絞り出すと、裕介が視界の端で心配そうに勤を見つめながら去っていく。
状況が整理出来ていなかった。どうして、勤のアカウントからあんな写真が送信されたのか。なぜあんな写真が勤のスマホにあったのか。そもそもあの写真はいつ、誰によって撮られたものなのか。
何か壮大な力が勤を陥れようとしている気がして、恐怖に身が震えた。目の前が真っ暗に染まっていく。暗闇の中、遠くの方から滝の流れ落ちるような音が聞こえてきた。
それが水道から流れる水の音だと理解するのに数秒を要する。
とにかく、無実を証明しなければならない。勤は力を振り絞り、蛇口の水を止めた。そして一歩を踏み出そうとしたけれど、スッと足から力が消え失せ膝から崩れ落ちてしまう。何が起きているのか、訳が分からなかった。
ただ勤は口角を上げる。もう、笑う事しか出来なかった。
その後、なんとなく教室に戻った勤に声をかける者はいなかった。時間をかなり過ぎていたがホームルームも始まっていない。
やがて一限目開始のチャイムと同時に姿を現した先生は自習をするようにとだけ告げ、職員室へと戻っていく。その動きを見て、どうやらすでに事態を把握しているらしいということはすぐに分かった。
二限目も自習になり、気を紛らわせようと数学の問題に取り組んでいた勤だったが、ついに先生から声が掛かった。
席を立ち、先生に続いていくと応接室へと連れていかれる。ここは普段生徒が入らないような部屋であり、自然と肩に力が入った。
中は駐車場に繋がる窓が一つと、テーブルを挟むようにしてソファが置かれているだけの殺風景な部屋である。
先生は窓側のソファに勤を促すと、扉をしっかりと閉めて自身は反対側に座った。
「もう分かっていると思うが、今朝三年二組のグループライン上に不適切な画像が送られた。それは間違いないな?」
勤は頷く。そして、自分の知っていることを全て話した。といっても、その時間は寝ていたということだったり、写真を保存した覚えはないといったことだったり、たいした情報ではない。念のため、愛のあの写真は保存こそしてないが愛から直接見せて貰ったことがあることも伝えた。
先生は勤の話を聞きながら、それをメモに起こしていく。
「先生は俺がやったと思っていますか?」
一通り説明し終えた後、勤は口にした。
すると先生は険しい顔になる。腕を組んで、何か言いにくそうに口籠っていた。
「信じてやりたいんだが、正直に言うと、分からない。お前がそんなことをするような生徒には思えないが、状況が状況だ」
「そうですか………。いえ、元から信じてもらえるとは思っていなかったので気にしないでください」
「とにかくまた何かあったら、教えてくれ。あと、今から警察の方も来るから、その方にも説明してもらうぞ」
先生はそう言うと、応接室を出ていく。警察と言う単語を聞いて、勤は事の重大さを実感した。仮にこの件を全て勤が行ったとしたら、れっきとした犯罪行為なのだろう。もし無実を証明できなければ、自分は逮捕されてしまうのだろうか。
一抹の不安と共に、胸の奥底から怒りが込み上げてきて拳が震えた。どうして自分がこんなことに巻き込まれなければいけないのか。何も悪いことをした覚えなどないのに。
もし逮捕されれば受験どころではないだろう。刑務所に入ることもありえるのか?それとも保護観察等で済むのか。どちらにしろ、今年の東大受験には間に合わないだろう。そうなれば、遥香に会いに行くことが一年遅れてしまうことになる。
そもそも高校は卒業できるのだろうか。
勤は頭を抱える。袋小路に迷い込んだかのようなネズミのようで、息苦しさを覚えた。
やがて扉がノックされ、スーツ姿の大人が一人部屋へと入って来る。勤は立ち上がって頭を下げると、姿勢を正した。
「○○警察署の森田です」
どうやらこの人が警察のようである。
「まずは、話を聞かせてもらおうかな」
勤は森田さんに聞かれるまま、先ほど先生に話したのと同じような内容を口にする。その最後に、語気を強めて言った。
「俺は本当にやってないです」
感情に任せた言葉にどれほど効果があるのか分からないけれど、出来ることは全てやっておかなければいけない気がした。
森田さんは慣れた様子で勤を落ち着かせると、一拍置いて口を開く。
「私も君がやったとは思っていないよ」
森田さんは断言した。しかし言葉とは裏腹に、勤を刺すような視線が貫いている。
「ところで、スマホを見せて貰っても良いかな」
唐突に森田さんは告げた。勤はポケットからスマホを取り出し、ロックを解除して森田さんに手渡す。
「ありがとう」
森田さんは目を細めてスマホの画面を睨む。それから慣れない手つきで時折頷きながらスマホを操作していた。
「君の話では、今回送られた写真は保存した覚えのないものだった。そうだね?」
「はい。その通りです。チェキの写真だけは、撮った記憶はあります。でもそれもスマホにダウンロードしてはいませんでした」
「確かに写真は三枚とも今朝保存された記録が残っている」
森田さんは勤のスマホを睨みながら、何やら考え込んでいる。しばらく沈黙が訪れて、勤の足が勝手に貧乏ゆすりを始めた。勤は意味もなく、何度も眼鏡の位置を直す。
しばらく頭を捻っていた森田さんだが、やがて顔を上げると笑顔を作った。
「勤君、しばらくこのスマホを預かっても良いかな」
勤は貧乏ゆすりをする足に手を置き、力づくに膝の震えを押さえつけた。
「それで何か分かるのですか?」
「解析すれば写真がどこから保存されたのかとか、どのように送信されたのかとかが分かるはずだ。君の話を信じるなら、このスマホは外部から操作された可能性が高い。そうなれば、その痕跡が残っているはずだからね」
「それが分かれば、俺の無実が証明できますか」
「あぁ、きっと出来るよ」
「じゃあ、お願いします。いくらでも持って行ってください」
「ありがとう」
森田さんはそう言うと腰を浮かして、勤の肩を軽く叩いた。裕介よりも大きく、さらにごつごつした手である。
「じゃあ、今日のところは失礼するよ」
森田さんが応接室を出ていき、バタンと扉が閉まる。そして足早に去っていくような足音が、扉の奥から響いて来た。
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