第26話

 勤はアモーを出るとスマホを見た。まだ塾までには時間があったが、満足すぎる息抜きになったように感じる。

 薄暗い廊下を進み、一階に降りるエレベーターに乗った所で自然と頬が綻んだ。

 外に出ると乾いた秋風が吹き抜けていて、商店街の屋根の隙間から眩しい日差しが差し込んで来ている。

 勤は日光が頬を撫でる感覚を味わいつつ、近くのショッピングモールに入った。そして入り口付近にあるカフェへと足を踏み入れる。

 何度か前を通ったこともあり存在は知っていたが、入店したのは初めてだった。中はサラリーマンと思しき人々や学生で賑わっている。いかにも、お洒落なカフェと言った風貌だった。店内はアモーとは違いかなり混みあっている。

 アイスコーヒーを注文して二人掛けの席に着くが、口を付ける前に後悔した。塾に行く前に予習をしようと思って入ったカフェだが、周囲に作業をしている人は少ない。みんな友達や同僚と思しき人とカップを片手におしゃべりしていて、とても集中できる環境ではなかった。

 ひとまず頼んだアイスコーヒーに口を付けてみたところで、携帯に愛から通知が来ていることに気が付く。

「今どこにいる?忘れ物してるよ」

 送られてきたのは、その言葉だけである。何か忘れただろうかと思いポケットや鞄を確認するも、特に心当たりは無かった。

 不思議に思いつつ、カフェにいることを伝える。するとすぐに行くと送られてきた。そう言えば、愛とLINEをするのは初めてである。交換した覚えもないのできっと冬美から連絡先を貰いでもしたのだろう。

 十分ほどで愛はカフェに現れた。さすがにメイド服は着替えてきたようで、スカートにブラウスと私服姿である。手に握られていたのは、愛自身の携帯だけだった。他に鞄などを持っている様子もうかがえない。

 愛はすぐに勤を見つけて、前の席に腰かける。

「何を忘れていた?」

 勤が聞くと、愛はあっさり首を横に振った。

「何も忘れてない。私が店を抜け出す口実を作っただけ」

 予想外の言葉に、勤は眉を顰める。

「なんでわざわざ」

 勤が聞くと、愛は黙って俯いた。

「いいのか?店を抜けても。一応勤務時間内だろ」

「大丈夫。どうせまだお客さんは来ないだろうし、冬美さんもいるから」

 そこで会話が途切れてしまった。愛のように相手の話を引き出すのは難しい。

 勤は仕方なく、愛が話し出すのを待つことにして自分は単語帳を開く。しばらくしてカップの中のアイスコーヒーが半分ほど減った頃、愛が口を開いた。

「今日は来てくれて、ありがとう」

 勤は開いていた単語帳を閉じた。そして俯いている愛の顔を伺う。愛は頑なに勤の方を見ようとはせず、明らかに先ほどのアモーでの愛とは態度が違った。

 その変化に勤が戸惑っていると、愛が続きを話し始める。

「なんか勤の本音を聞けて嬉しかった。勤の事を今日一日でたくさん知れた気がする。なんというか勤は思っていたよりも、良い人なんだなって感じがした」

「褒められているようだが、あまり嬉しくはないな」

「本当だよ。本当に勤はいい意味で思っていたような人とは違った」

「ありがとう」

「それでね、勤が自分自身の話をしてくれたから私も自分の事を話さないといけない気がして………」

「自分の事?」

 愛が深く頷いた。そこで、愛は自身の飲み物を頼んでいないことに気が付き席を立つ。そして、数分後カフェラテの入ったコップを抱えて席に戻って来た。それを一口啜ると、やがて決心が着いたのか、愛は話し始める。

「最初に言うけど、私の話を聞いても引かないって約束してくれる?」

 愛が心配そうな目で、勤の事を伺った。拒絶されるかもしれないという恐怖に溺れた目である。勤は遥香に告白しようとしたときの自分もきっとこんな目をしていたのだろうという気がして、知らぬ間に頷いていた。

「約束しよう」

 愛は緊張した面持ちのまま、続きを語り始める。

「私が不登校になったのは、いじめが原因じゃない」

 愛の第一声は、そんな言葉だった。遥香が予想はしていたが、勤は驚く。愛の真剣な瞳が、そこにただならぬ理由があったことを物語っていた。

「私は学校に行かなくなった訳じゃなくて、いけなくなったの」

「どういうことだ?」

「原因は一枚の写真」

「写真?」

「そう。変な想像されたくないから、見せるね」

 愛はスマホを取り出すと、画面を何やら操作し始めた。照明の関係で、その顔には深い影が差し込んでいる。

「絶対に画面いじらないでよ」

 そう言いつつ愛が差し出してきたスマホの画面には愛の顔が映っていた。どうやら画像は拡大してあるようで、画質が荒い。

 写真を眺めていると、勤はあることに思い至って言葉を失う。

「裸?」

 勤が言うと、愛は悲しげに頷いた。

 画面には愛の顔がアップで映し出されているだけである。しかし肩が部分的に映っていて、どうやら服を着ていないようだった。背景は暗くてよく分からないが、少なくとも愛の部屋ではなさそうである。

 勤は愛にスマホを返した。何か言葉をかけるべきなのだろうが、適切な言葉が分からない。

「ある人物にこの写真を撮られて、脅されてるの。もし学校に来たら、この写真をばら撒くって」

「待て、話が予想外すぎて混乱している。まず、その写真を撮ったのは誰なんだ」

 勤は自分でも語気が強まるのが分かった。

「ごめん、そこまでは………」

 愛は弱々しく首を横に振る。当時の事を思い出したのか、愛は今にも泣きだしそうに俯いていた。

 重苦しい沈黙が二人の間に落ちる。それとは対照的に明るく喧騒に満ちた店内が非常に無神経に思えてならなかった。

「この写真の事は絶対誰にも言わないで。冬美さんにも…………、遥香にも」

 愛がこの上なく強い眼差しで勤の目を射止める。

「むしろ、誰かに相談した方がいいんじゃないのか?警察とか」

 勤は言うが、愛は即座にかぶりを振った。

「もし警察に相談して犯人を捕まえられたとしても、きっとあの人は捕まる前に写真をばら撒く。そうなったら、意味がない」

 愛はスマホをオフにすると、身を乗り出した。

「だから絶対に、誰にも言わないで」

「分かった」

 勤はゆっくりと頷いた。

「ありがとう。信用してる」

 愛はそこで安心したのか、ホッとしたようにカフェラテを一気に飲んだ。

「でもなんで、俺に写真の事を教えてくれる気になったんだ?」

「それは………、今日の話を聞いて勤だけは信用できると思ったから」

 愛は言いつつ目線を逸らす。もしかしたら、誰かに吐き出したかったのかも知れない。ずっと一人で抱え込んできて、苦しんでいた。冬美や周りの人物には言わないと決めて一人で背負ってきたのだろう。しかしそれは支えきれない重さになってしまった。だから誰かに一部を預けたい。でも冬美たちには話さないと決めた。だから勤にその役目が回って来たのかも知れない。勤はそう解釈するようにした。

「こんなこと話せるのは勤だけだから」

 愛がボソッと言ったが、その声は店の喧騒にかき消されて勤には届かなかった。

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