第24話

 手の中で携帯が震えている。コール音が一つ、また一つと重なっていく度に心臓の音がボリュームを上げて行った。

 愛の家から帰った後、夕食を取った勤は部屋へと戻る。それからは数学の問題をいくつか解いていたが、気づいたら寝る時間になっていた。

 しかし勤は一日に色々なことがあったせいか頭はまだ寝たくないと言っていた。

 そこで遥香に今日の事件の報告がてらLINEを打ってみる。すると相変わらず、五十四時間中スマホを見ているのではないかと思う程、すぐに既読が付いた。引っ越す前は返信が早い方ではなかったはずだったが………。

 そこで遥香からメッセージが送られてきた。そこで、電話をすることを提案される。それに承諾すると、勤の手の中で携帯が震え始めた。

「あっ、もしもし」

 久しぶりに、弾けるようなそれでいて柔らかい温もりの籠った声を聞く。勤はちょっとした感動を覚えて、言葉に詰まる。

 しかし黙っている訳にもいかないので、ベッドの中で上体を起こすと、深呼吸をして声を出す。

「もしもし、勤だ」

「分かってるよ。名前表示されてるんだから」

 遥香の笑い声が、スピーカーから聞こえてきた。

「相変わらずだね」

 愛も思う所があるようで、勤の声を懐かしむように言った。

「今日は何?」

 遥香が聞いて来る。

「あぁ、実は愛の事で話があって………」

 勤は一日の出来事を出来るだけ子細に説明した。最初は明るく相槌を挟んでいた愛の声が、次第に真剣なものへと変わっていく。

「そんなことがあったんだ………」

「あぁ。だが、結果的には大事に至らずに済んだ。そして事件のおかげと言うのも変だが、今回の件を通して愛との距離が縮まったように思う」

「ほんとに⁉どうしてそう思うの?」

「実はその後、愛がうちに来て父と話したんだ」

「ほう、なんかいきなり話が飛んだね」

 それから勤は、愛が父親と話をしてアモーに行くことを認めるよう説得してくれたことを教えた。

 話している途中に、ベッドの頭側に並べられた本棚をぼんやりと眺めた。四段ほどの高さのそれには、勤が今までに読んできた本が収められている。種類は様々で、小説から実用書、数学や英語の本や伝記なんかもあった。

「お~、さすが愛ちゃんだね」

 勤が父と愛の話し合いについて説明し終えると、遥香が感心したような声を上げた。

「今日は本当に、愛に助けられてばかりだった」

「最初に助けたのは勤なんだから、互いに助け合ったってことじゃん。いい関係だよ」

「そうだと良いが………」

「引き続き愛ちゃんとの距離を縮めて、悩みを引き出しちゃって」

「そのことなんだが、今接している限り今回の事件以外で愛に深刻な悩みがあるようには思えないんだが………。それに愛が学校を休むようになったことも腑に落ちない。愛なら学業と仕事の両立だって出来ただろうに」

「確かに。私も愛ちゃんが不登校になったのは驚いた」

「じゃあどうして………」

「噂だといじめが原因だって言われているけど、なんか納得できないよね」

「あぁ。でも、それを探るのが俺の役目ってことか」

「お願いできる?」

「出来るだけのことはやる」

「いつもありがとね。引っ越したのに結局私は勤に頼りっぱなしだよ」

「そんなことはない」

「そんなことあるよ………」

 そこで僅かながらの沈黙が訪れた。なんだかこの静けさでさえも懐かしいように思えてくる。約二か月ぶりに聞いたと言うのに、遥香の声は空いた時間を感じさせなかった。

「あっ、そういえば私からも報告があるの」

 遥香が思い出したかのように言う。

「実はね、冬休みそっちに帰れそうなの」

 遥香の明るい声が、スマホの向こう側から届いて来る。

「お父さんとお母さんはまだ引っ越したばかりで忙しいから駄目みたいだけど、私だけなら良いって。おばあちゃんの家に泊まりに行くかもしれない」

「そうなのか」

 勤は頭の中にカレンダーを思い浮かべる。今日が十月で、冬休みだから遥香が帰ってくるのは十二月の終わりにかけて。二か月ちょっとで、また遥香に会えるのか。そう思った瞬間、眠っていた遥香への想いが再び胸の中に溢れ出して体が熱くなってくる。

 勤は胸に手を当て、寝間着を握った。この胸を締め付けられるような感覚も懐かしい。

「でも、受験直前だからどうしようかなと思って。友達はみんなバタバタしてるだろうから、遊びには誘わないつもりなんだけど、勤はどう?」

 遥香が遠慮がちに聞いて来た。

 それに対して勤は迷わず口にする。

「構わない」

「でも、受験大丈夫?」

「あぁ、そんな時のために今まで勉強してきたんだ」

「さすがだね。じゃあ分かった。なんかやりたいこととかあったら、また教えて」

 勤は心に火が灯ったように、エネルギーが体の底から沸き上がって来るのを感じる。最近は勉強を億劫に思っていたが、それがまるで嘘だったかのようだ。途端に体がやる気に満ち溢れる。

「ところで、勤はどこ受けるか決めたの?」

「東大だ」

 勤は闘志のようなものが燃え上がる感覚に溺れたまま、反射的に聞かれたことに対して答えてしまった。

 だが口にしてから後悔する。遥香と最後に会った日、胸の奥にしまったはずの言葉がすんなり飛び出してきたことに驚愕した。

「ほんとにっ⁉」

 遥香の声のトーンが一段階上がった。

「すごっ。てか、もし受かったら、また一緒に遊べるじゃん」

 電話越しに遥香の楽しそうな雰囲気が伝わって来た。その空気感がスマホを通して勤にも感染してくる。

「確かに………そうだな」

「やっぱり、冬休みやめておこうかな。勤には確実に受かってほしいし」

 勤は苦笑いを浮かべる。

「問題ないと言ったはずだ。信用ならないか?」

「うそ、うそ。冗談だよ。冬休みはばっちり帰るから、息抜きの相手くらいしてあげる」

「なんか上からだな」

「気のせいだよ」

 そんな風に話していたら、気づけば時間は溶けるように過ぎていった。やがてカーテンの隙間から朝日が差し込んで来たところで、通話を終える。

 勤にとって初めての眠らない夜は夢のような時間だった。胸の中が喜びとか多幸感で溢れかえっている一方、一抹の焦燥感を感じ始めている。

 遥香への想いが重なるほど、それを口にするプレッシャーは増していった。

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