第23話

 もう十月も中旬だと言うのに、日が暮れた後も寒さを感じない。

 勤は自宅の玄関前に着くと、鞄から鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。それを少し後ろで愛が見守っている。愛はどうやら冬美と勤の会話を盗み聞きしていたようで、父と話がしたいと言って家まで着いてきてしまったのだった。

 鍵を開けて玄関に入ると、すぐに家の中から声が飛んでくる。

「こっちに来なさい」

 父親の、冷淡な声。聞きなれた声ではあるが、自然と溜息が零れてしまう。

 勤が靴を脱いで玄関に上がると、愛も黙ってそれに続く。

 やがてリビングに続く扉を開けるとダイニングテーブルの定位置に父が座っていた。

 勤が何か言おうと口を開きかけたがそれより先に、後ろから愛がひょこっと顔を出す。

「お邪魔します」

 途端に、父親の顔がさらに険しくなるのを勤は見た。

「誰だ、そいつは?」

「クラスメイトの柴田さんです。例のアモーで働いている」

「そんなことはどうでもいい。なぜそいつを連れてきた」

 父の目が力強く勤の事を睨みつけてくる。父は頑なに愛の方を見ようとはしなかった。

 勤は今日あったことを話そうかと迷ったが、説明したところで同情される訳がない。

「勝手について来たんです」

 溜息交じりに勤が言った。

 すると、洗面所の方から母親が姿を現す。愛の姿を見つけると、明るい声を室内に響かせた。

「あら、勤のお友達?そんなところに立ってないで、座って座って」

 母に手招きされるまま勤と愛は父親の前に腰かける。そこに母がお茶を出してくれた。

「夜ご飯はもう食べたの。よかったらうちで食べていく?」

 母が愛に聞いた。しかし、愛はさすがにそこまでは申し訳ないと思ったのか遠慮する。

「そう。お菓子とか出せるようなものがなくてごめんなさいね。ゆっくりしていって」

 母はそう言うとキッチンに入り、夕飯の支度を始めた。

 やがて腕を組んで黙っていた父親が、正面に座る勤に言葉を放つ。

「それで、どうしてお前はまたあの店に行ってたんだ?昨日禁止したよな。大学に行く気はないという解釈でいいのか」

 冷酷な視線が勤を射抜く。勤は隣に愛がいることで、やりにくさを感じつつも言葉を絞り出した。

「ごめんなさい。今日は事情があってどうしても行かなければいけなかったんです。でも、明日からは二度と行かないと約束します。だから大学には…………行かせてください」

 最後の方は喉に力を込めたのにも関わらず、声が萎んでしまった。

「事情とは何だ?」

 間髪入れずに、父が言う。

 勤は今日起きた出来事をどう説明しようか迷った。そもそも、今日の事件を愛がいる前で父親に話すべきかどうかさえ分からない。父なら平気で愛を傷つけるようなことを言ってしまうような気がしたのだ。

 そうやって逡巡して勤が黙り込んだことにより、母が野菜を切る音だけがダイニングに溢れていく。

 するとそこで愛が、口を開いた。

「事情とは、私を助けることです」

 愛が想像以上に大きい声を出したので、その場にいた全員の視線が愛へと集まる。しかし愛は勤の父から目を逸らさなかった。

「お前に発言を許したつもりはない」

 父はすぐに愛から視線を外して言った。そうして再び、勤に問いかけようと口を開きかける。

 しかしそれを遮るように愛が言った。

「私、アイドルを目指してるんです」

 突飛な言葉に勤は目を見開いた。しかし愛の目には、確固たる意志が宿っているように見える。

 父も予想外の言葉が飛んで来たせいか、返す言葉が見つからないようだった。

「昔から頑固なくせして、自信を持つことが出来ない自分が嫌いでした。でもテレビのステージでスポットライトを浴びるアイドルを見て思ったんです。私もこんな風に輝きたいと」

「馬鹿馬鹿しい。そんな理由で………」

 父親が愛を黙らせようと反論した。しかしそれを遮るように愛は続ける。

 アイドルに憧れたきっかけ。何度も繰り返した失敗と挫折。オーディションでは落ち、学校ではいじめられていたこと。でも諦めず今は夢のためにアモーで働いていること。

 愛は父に口をはさむ余地を与えず、一方的に自らの話をしていく。

 父は秩序もなく話し続ける愛に困惑しているようだった。何度か言葉を挟もうと試みたのが見て取れるが、その度に愛の語気が強まり発言を許してもらえない。やがて諦めたのか、父は眉をぴくぴくさせながら愛の話が終わることを待った。

 勤は父がいつも勤と話すときのような張り詰めた空気感を持っていないことに困惑しながら、ただ話を聞いていることしか出来ない。

 それから愛は、駅での視線の事、勤が店に通い始めるようになった事、木村先生の家に連れていかれた事や、勤と冬美が助けてくれたことを事細かに説明した。

「ごめんなさい、たくさん話過ぎてしまいました」

 やがて最後に愛は言う。その顔にはアモーで見せる百点満点の笑顔が浮かんでいた。

「聞いていただいた通り、私は欠点だらけの人間ですけど、周りの人に助けられながらなんとか夢を目指して頑張ってます。勤君のお父さんは、何をされてるんですか?」

 愛が問いかける。突然の質問だった。ペラペラと自分の話をしていたと思ったら、急に父のことを聞いている。その急展開に勤はついていけない。

 父親の顔を伺った。もしかしたら、怒っているのではないか。愛に自分のペースを乱された挙句、ずけずけと質問までされた。それは相当なストレスだろうと考えられる。

 実際勤も、父親がどんな顔をしているのか気になる半面、顔を上げるのが怖かった。どんなことに対しても冷静な父が怒ればどうなってしまうのか。想像するだけでも背筋が冷える。

 しかし父の表情はいつもと同じで、何も感じさせない無表情だった。父は普段と変わないトーンで愛の質問に答える。

「俺は弁護士だ」

「へぇーっ、弁護士なんですね。具体的にはどんなことをなさっているんですか?」

 間髪入れずに、愛が返した。

「法律の知識を活かして、相談に乗ったり、時には裁判時の処理をしたりするのが主な仕事だ」

「相談って、どんな内容のものが来るんですか?」

「それは実に多種多様だが、中でも多いのは………」

 しばらく、愛と父の会話が続いていく。最初は言葉数の少なかった父だが、愛に質問を重ねられるうちに、どんどんと舌が滑らかになっているようだった。

 愛はさらに父へと尋ねる。

「弁護士になろうと思ったきっかけとかってあるんですか?」

「俺は君みたいに強い憧れがあった訳じゃない。なんとなく法学部に入って勉強していくうちに自然と弁護士を目指していた。でも今では天職だと思っている」

「天職?何がそう思わせるんですか」

「やりがいだよ。俺は、弁護士は人を助ける仕事だと思っている。これは弁護士になってから知ったことだが、世の中の人はみな本当に多くの悩み事を抱えている。それを法律の知識を活かして少しでもいい方向に向かうよう手助けするのが弁護士の仕事なんだ。上手く悩みの解決を手助け出来た時には、言いようのない喜びを感じる。なぜなら、人を助けることは社会で生きる人間の本質だからだ」

 父の話に次第に熱が入っていく。勤は父がこんなにも熱く語るのを始めて見た。最初は腕を組んで愛の事を見なかった父が、今ではむしろ勤のことなど視界に入らないかのように愛に向かって身振り手振りを使って語り掛けている。

 それに対して愛は適度に頷きを打ち、分からないところを聞き返しながらも必死に内容を理解しようとしていることが勤にも伝わって来た。

 これが愛の努力の結果だとしたならば、勤は舌を巻くほかない。十八年以上同じ屋根の下で暮らしてきた勤が聞いたこともない話を愛はたった数分で引き出してしまったのである。

 父が一通り自らの仕事について語り終えると、場の空気は完全に和んでいた。

「母さん、悪いが俺にもお茶をくれ」

 キッチンで料理をしていた母に向かって、父が言う。たくさん喋ったことで喉が渇いてしまったのか。

「はいはーい」

 それに対して母は嬉しそうにニヤニヤしながら、コップにお茶を注いで持ってきた。

「すいません、お仕事とはまた別で聞きたいことがあるんですけどいいですか?」

 父がコップを置いたのを見て、愛が言った。

「なんだね」

 父は腕を組むどころか、前のめりになって愛の話を聞いている。

「その前に勤君ちょっと席を外してもらってもいい?勤君がいるときっと話しずらいから」

 愛が突如こちらを向いて言う。

 勤は戸惑って父親の方を見た。もとはと言えば、これは勤が塾へ行かなかったことに関する話し合いである。勤がいなくなってしまっていいのだろうか。

 しかし父は黙ったまま、何も言わなかった。それはつまり、席を外しても良いという意思表示である。

 勤はそのことを理解して、席を立った。

「ごめんね、終わったらすぐに呼ぶから」

 そう言う愛に頷き、勤は鞄を持ち上げると階段を上って自らの部屋へと入った。愛と父が自分抜きでどんな話をするのか非常に興味深かったが、聞き耳を立てても何を話しているのかは聞こえてこない。

 勤は仕方なく鞄を置き、ベッドに寝転がりながら天井を見る。

 十分ほどしたところで、部屋の扉がノックされた。

「話、終わったみたいよ」

 母の声が扉越しに聞こえてくる。

 勤はそれを聞いて体を起き上がらせると、部屋を出て、ダイニングテーブルへと戻った。愛と父の間ではすでに何かしらの結論が出ているようで、お互い納得した様子で座っている。

「ごめんね遅くなっちゃって」

 勤が席に戻るなり、愛が言った。それほど遅いとは感じなかったが、ここら辺の気配りもさすがと言うべきか。

「問題ない」

 勤がそう言葉を返すと、目の前の父親に名前を呼ばれた。

 勤は一瞬自分の名前が呼ばれたことに気が付かなかったが、もう一度呼ばれて、慌てて父の方へと顔を向ける。

「確かに息抜きは必要かもしれない」

 父は唐突に口を開いた。冷たい視線と組まれた腕はいつもと変わらなかったけれど、その姿はいつもより小さく感じられる。威圧感がなかった。

「だからアモーとやらに行くのも好きにすればいい。だが全部自己責任だぞ。息を抜きすぎて勉強が疎かになりましたなんて言ったら笑えない」

 父はムスッとした顔のまま言う。視線は勤の方を見ているようで、わずかに下に向けられており絶対に目は合わなかった。

「話は以上だ」

 父がそう言うと、愛が立ち上がった。

「こんな時間にありがとうございました。お邪魔しました」

 愛は勤の父親と母親に向かって、頭を下げる。

「本当に、夜ご飯食べていかなくて大丈夫?」

「はい。お話しした通り昨日は家に帰れなくて、母が寂しく待っているはずなので」

「そう。ちょっと残念だけど、それなら家に帰らないとね。送っていくわ」

 そのまま勤と愛は、母の運転する軽自動車に乗り込んだ。運転席に母が座り、後部座席に愛と勤が並ぶ。

 勤は黙ったまま、窓の外を眺めていた。話したいことはたくさんある気がしたが、何から話したらいいのか分からない。

 そこで愛の方から声を掛けてくる。母が聞こえないようにか、小声だった。

「勤のお父さん、勤が思う程悪い人じゃないよ」

「別に悪い人だとは思ってない」

「でも勤、お父さんの前だとずっと緊張していて、表情伺ってばっかだったじゃん」

「下手に地雷を踏むと、めんどくさいだけだ」

「そのことなんだけど、お父さん別に勤に意地悪したくて勤に冷たくしている訳じゃないみたいだよ。あの人、元々はとっても優しい人なんだよ。だって私の話は普通に聞いてくれたでしょ」

 確かに父は何度か口を挟もうと試みてはいたものの、愛の話を無視したりはしなかった。

「お父さん、自分が学生の頃受験で失敗しちゃったんだって。毎日死に物狂いで勉強していたのに第一志望の大学に落ちちゃったの。それでしばらくは劣等感を抱えて生きていたみたい。そのときの辛さを知ってるから、お父さんは勤にそんな思いをして欲しくなくて勉強のことになるとつい厳しくなってしまうんだって言ってた。自分でも薄々気づいていたみたい。勤に厳しくしすぎなのではないかって。だから最終的にはすぐ、アモーへ来ることを認めてくれたよ」

 勤は目を見開いたまま、言葉を失う。

 父からそんな本音を引き出しただけじゃなく、その考えを変えさせるとは。本当に愛には舌を巻くほかなかった。

「そうだったのか。なんというか、申し訳ない」

 勤は心から愛に言った。

「別に大したことじゃないよ。私だって、アモーに勤が来ないのは寂しいし」

 愛は言い切ってから、自分の言葉に気づいたらしく慌てて両手で口を覆った。そしてそのまま顔を背けて窓の外に視線を向けてしまう。

 愛にナビゲートされながら十分ほどで車は愛の家の前に着いた。愛が扉を開けて、外に出る。

「ありがとうございました」

「いえいえ、良いのよこれくらい」

 愛が運転席の母に頭を下げる。そして後部座席の奥にいる勤に視線を向けた。目が合ってしまう。

 愛は一度口を開きかけたが、すぐに閉じる。そして、俯いたり手を組んでみたりとモジモジしたあと、やがて決心が出来たのか再び勤の方を向いた。

「今日はその………ありがとう。玄関の方から勤の声が聞こえた時、なんだかすごく安心した」

 愛は弱々しい声でそう言った。その表情はいつもの笑顔の仮面ではなく、真剣な眼差しを勤に向けている。

「別に大したことはしていない」

「ううん。ありがとう」

 二度目の「ありがとう」は一度目の時よりもはっきりと聞こえてきた。そこで愛は、開けていた後部座席の扉を閉める。

 バタンという音と共に、車内が静寂に包まれた。母が窓ガラスを開けて愛に挨拶をした後、車が発進する。

 夜の中、ゆるやかに下るように続く車道の両側の街路樹には、少し早めのイルミネーションが光り輝いていた。

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