第22話
その後、勤はやって来た警察や学校の先生方に簡単な説明をした。愛は念のため病院に行くことになったが、本当にただの寝不足だったらしい。加えてずっと先生と二人きりで、精神的にもかなり疲れていたのだろうということだった。愛は検査を終えると、付き添っていた冬美と一旦アモーへと戻ったそうである。
木村先生が愛を自宅へと連れ込んだ動機は、勤が想像していたのとだいたい同じだったようだ。先生は自身のハリーポッターへの執念が異常であると気が付いていながらも、欲望に打ち勝つことが出来なかったらしい。
だが担任の先生から聞いた話によると、どうやら木村先生はある人物から助言を受けていたらしかった。先生の携帯に定期的にメッセージが届き、そこには「アモーというカフェに先生の話を熱心に聞いてくれる人がいる」だったり「あんたの生徒はみんなあなたの話に飽き飽きしています。あなたもそれに気づいているでしょう?」や「あなたが話すべき場所は教室じゃない」などと書かれていたようだった。
さらには、「キスをしてみたいならハムにすればいい。彼女は受け入れてくれますよ」というメッセージも届いていたようである。
最初は何かのいたずらだろうと思って先生も無視をしていたらしい。しかし生徒たちが自分の話を聞いてくれないことが次第に辛くなってきて、騙されたと思ってアモーを訪ねたそうだ。すると本当に愛はいて、熱心に話を聞いてくれるものだからつい心を奪われてしまったらしい。
その後もある人物からのメッセージに背中を押されて先生は愛を駅まで付け回すようになる(警戒心を高めないように期間を開けたのも指示の通りだった)。さらには家に連れ帰って作品を観せるということにも踏み切ったようだ。
メッセージは匿名のアカウントから届いており、その人物が誰の事かは分からない。
一度先生は愛にキスをしようと迫ったようだが学校からの電話が入って叶わなかったらしい。
その後は先生が冷静さを一部取り戻したこともあり、とりあえず作品を最後まで観ようとしたそうだ。
そうして作品の続きを見せていた先生だったが、ラストシーン前に勤たちが到着したというのが今回の事件だった。
勤は担任の先生に事情を説明し終えると、学校の応接室を出てスマホで時刻を確認した。すると六時を回っており、塾の講習の時間をとっくにすぎてしまっている。今頃、父親は証拠写真の提出が無いことにカンカンになっていることかと思われた。
勤は今からでも塾に行こうかと考えたが、結局愛たちの様子が気になってアモーへと足を向ける。
歩き慣れた駅前商店街に入り、古びたビルの三階まで上がると廊下の奥に木製の扉が現れた。いつもはオープンと書かれた看板が今日はクローズに変わっている。
勤はスマホを取り出し冬美にメッセージを送ると、そのまま入ってきて良いとのことだった。
ドアノブを捻り、扉を押す。洋風な店内がいつもよりほんのり温かく迎えてくれた気がした。足を踏み入れると愛はテーブル席のソファの上で膝を曲げるようにして眠っていた。その前の席に冬美が座っており、すぐ傍にスーツ姿のアモーのオーナーさんが立っている。オーナーさんとは初めて会ったが、三〇代の若くて優しそうな女性だった。
オーナーさんは勤を見ると感謝の辞を述べた後、空気を読んでくれたのか裏へと下がっていく。
勤は手招きされ、冬美の横に腰かけた。冬美は愛を起こさないためか、小声で話しかけてくる。
「愛ちゃん、よっぽど疲れちゃってるみたい」
冬美が赤子を眺める母親のような目で、愛を見つめる。
「でも、ちゃんと君の功績は説明しておいたから安心して。愛ちゃんも病院で『勤くんに感謝しなきゃ』って言ってたよ」
「いや、俺は何もしてないです」
「君の推理が無かったら、今も愛ちゃんはあの部屋の中だったかも知れない」
「でも、今回の件は未然に防ぐことが出来たはず。そのことがただ悔やまれます」
「確かにそうかもね。でもその責任は君じゃなくて私にある。未然に防げていたとしたら私しかいなかった。私は愛ちゃんから変な視線についても相談されていたんだから。でも私は後悔していない」
冬美が小さく息を吸う。その声はわずかに震えていた。
「その代わりに怒っている」
「それは木村先生にですか?」
「もちろんそれもあるけど、それだけじゃない。自分自身と人間とか世界に対して」
冬美は珍しく感情的になっているようだった。
「受け入れてきたつもりだったのにな、理不尽を」
冬美が遠くを見ながら、息を漏らすように言葉を落とした。
「私がどれだけ怒った所で世界は変わらない。だからせめて自分の周りの人達だけは幸せになって欲しいと思っていたのに、世界はそんな小さな願いすら叶えてくれない。全くもって理不尽だよ。君もそう思わない?」
「いえ、俺はそんな風に考えたことはなかったです」
「そう………、君は強いね」
「強い?」
「君や愛ちゃんは私なんかよりもよっぽど強い人間だよ。それに比べて私は弱い。でも気を付けて。君の周りにも理不尽は潜んでいる。今はまだ見えていないだけで」
「どういうことですか?」
「そのうち分かるよ」
そこで勤のスマホが振動した。勤は慌ててポケットから端末を取り出すと、画面に表示される文字を確認する。
それは父からの電話だった。
「もしもし」
怒っているとは思っていたが、まさか電話をかけてくるとは想定していなかった。
「俺の言いたいことは分かってるな」
「はい」
「今、どこにいる?」
勤はどうせ塾に行っていないのならばどこに居ても同じだと思い、正直に自分の居場所を口にした。
「アモーです」
父親はそれを予想していたのか、特に驚くこともなく続ける。
「今すぐに帰って来い。今すぐだ」
そこで父の方から電話が切られた。
「誰からの電話?」
冬美が上目遣いでこちらを伺ってくる。
「父からです」
「本当にお父さん?なんか浮かない顔をしているけど」
「そうですね。まぁいろいろあるんです」
勤は冬美と目を合わせることの出来ないまま、眼鏡の位置を直した。
「あと、もうこの店には来られないかも知れません。今までありがとうございました」
勤はそう言って頭を下げると、立ち上がった。椅子の脚が床に引き摺られる音が響く。
「ちょっと待って。どういうこと?ちゃんと説明してよ」
勤が逃がした視線の先に冬美が入り込んできて、目を覗き込んで来る。勤は唇を震わせながら、さらに顔を背けた。回れ右をして、アモーを後にしようとする。
しかしその手首を冬美が掴んだ。冬美の手はとても冷たかったけれど、温かかった。
「話しておいた方が良いんじゃない?」
勤は唇をきつく結ぶ。
「どうしてもうアモーに来られないかも知れないの?」
冬美の掴む手に力が入ったような気がした。
「一人で抱え込むと、私みたいな人間になるよ?私みたいな弱い人間に」
冬美が言った。
勤は冬美と目を合わせてしまう。その大きな瞳は真っすぐに勤を見ていて、このまま店を去ることが悪いことかのように感じてくる。非常にずるい。自分は理不尽だとか弱い人間だとか曖昧な話しかしない癖に、勤には踏み込んだ話をさせるなんて。でもそのずるさも冬美の魅力なのは間違いなく、それに打ち勝つ術を勤は持ち合わせていなかった。
口が自分でも意識しない間に動き始める。
「実は………」
勤は説明した。父親のことを。受験生であるにも関わらずアモーに通っていることがばれて、怒っていること。本当は禁止されていたのに今日、来てしまった事。塾に行った証拠を提出しなければいけなくなった事。さらには冬美に促されるまま、あの父親に泥団子を投げつけた日の事さえも気が付いたら口にしていた。
「へぇ、その頃から遥香のことが好きだったんだね」
冬美に顔を覗き込まれて、勤はなんとなく耳のあたりが熱くなるのを感じた。
「とにかく、そういうことなんで俺はもう先輩に会うこともないかもしれません」
「寂しいね」
「ずいぶんと棒読みですね」
「君は何とも思わないの?元はと言えば、君は遥香に頼まれてここに来た。でもまだ目的は果たしてないんでしょ。それでもいいの?」
「仕方ないです。元々、無茶なお願いだったってことです。遥香には謝るしかありません。力が及ばなかったと」
「君は本当にそうしたいの?」
また冬美の瞳が、勤の目の奥を覗き込んで来る。勤は冬美の目が、心の奥底に隠している感情を見抜いている気がした。何なのだろう、この感覚は。その目に見つめられると、つい本音を話してしまうのである。
「そうしたい訳ないでしょう。もちろん遥香の頼みには応えてあげたい。いや、遥香のお願いを無しにしても、最近はもっとこの店には通いたいなと思うようになりました。でも、仕方ないものは仕方ないです。大学に行けなければ本末転倒ですから」
「あぁ、東大に行って遥香に会いに行くんだっけ?」
「そうですよ」
「それって、そんなに価値があることなの?」
「どういう意味です?」
「別に遥香の気持ちを確かめるんだったら、他にだって方法はあるよね。なんか回りくどくない?」
「他の方法って?」
「君だって本当は気づいてるんでしょ?」
そこで勤は言葉に詰まった。決して冬美の瞳を見ないように下を向いて、唇を噛む。静寂が店内に訪れた。
「俺には………分かりません」
やっとのことで勤は口にする。冬美がいったいどんな顔をしているのか分からなかった。ただ勤は怖くて、顔を上げることが出来ない。
冬美はさっきまでよりもゆっくりとした口調で言った。
「ごめんね、別に責めるつもりじゃなかったの」
「分かってます。怒ってはいません」
さっきまではお互いに食い気味に話していたのが、言葉を選ぶようになり会話に急ブレーキがかかった。
「それで、お父さんに怒られるんだっけ?」
「怒られると言うよりは、論破されるの方が近い気がします」
「なんとか、抗えないの?息抜きも必要だとか言って」
「それは昔に何度も試みました。でも父親は自分の意見を正しく見せることが上手いんですよ。客観的に正しいことを言ったとしても、いつものまにか父の意見の方が合理的なのではないかと思えてくるんです」
「そう…………。私に何か出来ることはない?」
冬美が遠慮がちに言った。
勤は首をひねって考えてみたが、これは勤と父親の問題であり冬美の介入する余地はないように思われる。
「今のところは、思い当たりません」
そう言うと、冬美は悲しそうに視線を下へと向けた。
「そっか。悔しいね」
冬美が顔を逸らして唇を噛んだ。それを広輝は見て見ぬふりをする。
「じゃあ、俺はこれで」
「うん。またいつでも来ていいからね」
弱々しい声に頷きを返すと、勤は後ろを向いて歩き出す。木製のドアを内側から開いてアモーを後にした。振り返ることは出来なかった。そうしてしまうと、なんだか未練が残ってしまうような気がしたのである。
狭くて薄暗い廊下を進み、エレベーターのボタンを押した。
そのとき、遠くの方でバタンと扉の閉まる音がする。それから、誰かの駆ける足音がどんどんと大きくなっていく。
やがてチンっという音と共にエレベーターが到着した。それと同時に、廊下の角から息を切らした愛が姿を見せる。
「何してるんだ」
勤は肩で息をしながらこちらを睨みつけてくる愛に言いつつも、エレベーターの扉を潜る。
すると、愛はそのままエレベーターに向かって走って来た。
「私も行く」
そう言って、愛が狭いかごの中に足を踏み入れてくる。
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