第19話

 分厚いカーテンの隙間から光が差し込んできていた。すでに朝を迎えてからかなりの時間が経っている。

 愛は六畳ほどの狭い部屋の中、男物のベッドに腰かけていた。ピンと張りつめた空気が部屋を満たしている。どこからか漂ってくる甘い芳香剤の匂いが、頭をくらくらとさせた。

 そんな中、テレビに流れていた映像が突然止められる。

 ローテーブル前に置かれた紺色の座椅子に腰かけて、姿勢一つ変えずにビデオを見ていた男が突如立ち上がる。

 部屋は男一人暮らしの割には整頓されていた。必要最低限の家具しかない部屋は質素ではあるが掃除が行き届いているし、物が散らかっていることもない。ただ一か所を除いて。

 ゴミ箱はまさに惨状だった。

 本棚の傍に置かれた小さめのゴミ箱。そこには無数のティッシュが詰め込まれており、箱からはみ出して山を形成していた。

 さらに溢れたティッシュがゴミ箱の周辺に落ちて、散らばっている。

 愛はそんな状態が作られていく様を見ていた。

 男はテレビの映像を見ながら、幾度となく涙を流してきたのである。時には感嘆の声を上げ、時には嗚咽を漏らし、その度に目頭を熱くさせ、流れ落ちる涙をティッシュで拭ってきた。

 男は涙を拭った後、コンマ一秒たりとも映像を見逃したくないと思っているのか、ティッシュをノールックでゴミ箱の方へと投げつける。それが入ったり入らなかったりで、ゴミ箱の周りはまるで雪が積もったかのように白い世界が出来上がっていた。

 それが壁紙の白さと妙にマッチしていて、気持ち悪い。

 リモコンで流れていた映像を止めた男は、立ち上がると愛の方を向く。シャツ一枚の上半身は筋肉が盛り上がっていて、見るだけでその怪力を知ることが出来た。

 愛は背筋を正す。もう何時間も同じ姿勢でテレビを見続けていたため、節々が痛んでいた。特に腰の痛みと足の痺れはとうの昔に限界を超えている。

 さらに夜通しでテレビの映像を見ていたせいか、とてつもない眠気と頭痛が交互に頭の中を襲っていた。

 しかし男を刺激するわけにはいかない。その一心で、眠ることも姿勢を変えることすらせず、静かにテレビを眺め続けた。

 男が一歩、愛の方へと近づいて来る。愛は疲れ切った顔になんとか笑顔を浮かべて、男の顔を見た。

 男は爽やかな顔を赤く腫らしていて、今も瞳にはうっすらと涙を浮かべていた。その目で男は視界の端に愛を捉えると、嬉しそうに微笑んだ。

 ベッドに座る愛の前に、壁のごとく男が立ちふさがる。男は、その鍛え上げられた腕で、愛の両肩を掴んだ。

 頑張ろうとしても、体が勝手に反応して笑顔が引き攣ってしまう。

「このキスシーン、最高だっただろ?」

 男が言った。その声は感極まっていて、今にも涙を流しそうである。男は何かに思いをはせるように遠くの方を見ていた。

「ヤドリギが良い味を出してるんだよ。ヨーロッパではクリスマスの夜、ヤドリギの下で出会った男女はキスをしても良いという言い伝えがあるんだ。そしてヤドリギの下でキスをした男女は幸せになれる。ここでは、クリスマス休暇の前、チョウが必要の部屋でハリーを待つんだ。知っての通りこの時チョウは恋人を失くしていて、精神的に参っている。そんな中でチョウはハリーに恋をしてしまい、そんな自分の事を受け入れられない。だけど抑えきれなくなってチョウはついにハリーにキスをする。そこにヤドリギが上から生えてきたんだ。でも、二人は結局幸せになることが出来なかった。これがまたリアルであり、そして、切ないんだよ」

 男は自身の考察を早口で捲し立てると、ついに瞼から涙が零れ落ちた。

 愛の肩を掴む手に、力が籠る。

「へぇ、そうなんだ。結局、チョウとハリーはどうなっちゃうの?」

 肩に食い込んで来る指に顔を顰めつつ、愛は普段アモーでやっているように質問を返す。コツはイエスかノーで答えられないような質問をすること。なぜを使わない事。相手の話に関連することを聞くこと。

 もう何回も意識してきて、考えなくても実行できた。

「それは、この続きを見れば分かるよ。続きが楽しみだね」

 愛が首肯すると、男が笑う。まるで心が洗われているかのような恍惚的な笑いだった。

 やがて男の目からは洪水のごとく涙が零れ落ち、ローテーブルの下に敷かれたカーベットを濡らしていく。

「ねぇ、僕はこの気持ちを知りたいんだ。このときチョウがどんな気持ちでハリーにキスをしたのか。ハリーの事を愛しているのに、それはいけないことだと分かっていて自分を許せない。僕も、その気持ちを味わってみたい。じゃなきゃ、ハリーポッターを真の意味で理解したことにならないんだ」

 男が言った。直後、愛は自分の体がゆっくりと傾いていくのを感じる。突然のことで理解が追いつかないまま、愛は気づけばベッドに押し倒されていた。

 男の顔がすぐ上にある。蛍光灯の光が遮られて、男の顔が暗く映っていた。芳香剤の香りと男の吐息が混ざったような匂いが鼻の奥を刺激する。

「木村さん?」

 愛が言うけれど、男の耳には届かなかったようである。

 男の顔が迫って来た。愛の視界は暗く、さらに暗く染まっていく。愛の笑顔が完全に崩壊した。

 どうして自分はこんな目に遭ってばかりいるのだろうか。

 愛の瞼にも自然と涙が溜まって、目の端から耳の上部へと水滴が零れていく。愛の心は冷めきっていて、音も光も何も感じない。ただぼんやりと目の前の光景が過ぎていった。

 男の顔は尚も迫ってきている。あぁ、自分はこのままキスされてしまうのか。その事実だけが頭の中に浮かび上がる。それに意味なんてなかった。

 男の顔はもう数センチ先まで来ていた。生暖かい鼻息が顔にかかって、愛はためらうことなく顔を顰める。しかし男は目を瞑っていて、気が付いていない。愛は腕に力を込めて必死に男の体を遠ざけようとするが、それは洪水を小石一つで止めようとするほど無意味なものだった。

 男の顔から滴った涙が、愛の頬に落ちる。

 その時だった。ローテーブルの上にある携帯が振動する。男の動きが止まった。

「チッ。どうして、こんな時に」

 男は苛立たしげに言うと、後ろを振り返った。

 愛の肩を押さえつけていた手が離れていき、体が軽くなったような感覚がある。男は慌ててローテーブルの上からスマホを手に取ると、愛に背を向けたまま電話に出た。

 愛は慌てて体を起こす。ずっと同じ姿勢でいたせいで痛んでいた体を、順に伸ばしていった。悲鳴を上げていた体が徐々に和らいでいく。

「はい。すいません」

 男は先ほどの怒気を微塵も感じさせない爽やかな声で、スマホを耳に当てている。相手から見えている訳でもないのに、腰を曲げていた。

「ちょっと待ってください」

 男はそう言うと、突如愛の方を振り返る。

 愛は驚いて、すぐに背筋を正した。

「まだ続き観たいよね?」

 男がスマホをタップしてから愛に声を掛けてくる。きっとミュートにしたのだろう。その顔には涙の痕と、満面の笑みが張り付いていた。

 それに対して愛は笑顔を返したつもりだったが、いつものように上手く笑えている自身が無い。

「うん」

「そうだよね。ここまでみて最後まで観たくないなんている人がいる訳ない。俺も責任をもって最後まで付き合うよ」

 男はそう言うと、スマホを一度タップして再び耳に当てた。

「あっ、今日は休ませて頂けますか?」

 その一言が部屋に響き渡った時、愛は目の前が真っ暗に染まっていくのを感じた。

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