第17話

 椅子に座るのも面倒で、部屋に入るなり立ったままスマホを取り出して遥香とのトーク画面を開いた。

 何かメッセージを打ち込まなければいけない気がしたが、何と打てばいいのか分からなくて、結局はスマホを閉じる。

 とにかく、アモーには行けなくなってしまった。それが良いことなのか悪いことなのか分からない。きっと受験生という立場を考えれば良いことなのだろう。だから父は禁止したに違いない。

 勤は自身の胸に手を当てた。それでも残念なことは変わらない。せっかく繋がりかけていた遥香との糸が再び切れたような気がする。それだけじゃなく、冬美や愛の顔が脳裏に浮かんだ。

 それを振り払うように勤は首を左右に振る。

 とにかく東大に行けなければ、遥香に会うことも出来ない。それでは元も子もなかった。そう思って自らを奮い立たせようとしたけれど、体中から力が抜けてしまったようで勤はベッドに倒れこむ。

 勉強しなきゃと思いながらも、全く手を付ける気になれなかった。

 こんな感覚は、いったいいつぶりだろうか…………。


 翌日、勤は自分の席に座って小説を開いた。読んでいるのは中学生の頃に買ったミステリーである。

 ちらっと顔を上げると、すでに授業が始まってから二十分以上が経過していた。

 周囲のクラスメイト達がカタカタとシャープペンシルを動かしたり、参考書のページを捲ったりする音が聞こえてくる。

 去年までは騒がしかった自習の時間も、受験生となればみな静かに勉強をしているようだ。一部後ろの裕介のようにスマホを見ている生徒もいたが、彼らもこの空気感では声を出して騒ぐことはできない。

 そんな中、勤は珍しく勉強をしていない側の生徒となった。

 五限目の英語の時間。いつもなら木村先生が入って来る時間に、副担任の先生が教室へとやって来た。

「今日は木村先生がお休みになられたので、自習をしてくださいとのことです」

 そう言った瞬間、何人かの生徒が歓声を上げていた。

 勤も昨日父と話してから勉強しなかった分をここで取り戻せると、ホッとしたような気分になったのを覚えている。

 しかし英語の長文読解の練習を始めると、そこに並ぶ文字がまるで未知の言語のように思えてきて、内容が全く入ってこなかった。

 それでも五分ほどは勤も粘って参考書に向き合った。しかし糸が切れたようにやる気が失せると、代わりに家から持ってきた小説を読み始めたのである。

 そもそも家から小説なんて持ってきたのも、久しぶりの出来事だった。普段は勉強に必要最低限の荷物以外は持ち歩かないようにしている。

 しかし今朝、部屋の本棚を眺めていると気づけば手が伸びていて、一冊の文庫本が鞄の中へと入っていた。

 最近、何かがおかしい。数か月前の自分とはまるで違う自分になろうとしているような気がしていた。胸のあたりがモヤモヤする。怖かった。自分が変わってしまうことが。不安だった。自分がどうしようもない惰性な人間になってしまう気がするのだ。でも、以前のように自分をコントロールできない。

 原因は何だ。考えても答えは分からない。

 そこで制服のズボンに入れてあるスマホが振動した。

 勤は小説を閉じると、ポケットからスマホを取り出す。どうやら冬美から着信があったようだった。

 勤はフェイスIDでロックを解除すると、ホーム画面に進みLINEを開く。

「緊急事態。今すぐアモーに来れる?」

 冬美から届いたメッセージはそれだけである。絵文字もスラングも使われていないことが、事の重大さを表しているようだった。

 勤はスマホの左上を確認する。まだ時刻は一時を過ぎたところだった。今日の放課は三時半の予定である。そこから塾へは一時間程度かかるため、四時半には塾に着いていなければならない。

 まだ時間があるな。

 勤の頭が勝手に、計画を立てていく。それを俯瞰した時、勤の表情はサッと青ざめた。

 今からアモーに行くとなれば当然、学校を早退しなければならない。昨日父に言われたのは、放課後は閉館まで塾にいろということである。つまり学校を早退してアモーに行ったとしても、その後塾へ行き証拠の写真でも撮ればバレはしないのだ。

 しかし、今まで学校なんて休んだことがなかった。小学校も中学校も皆勤賞で名前が呼ばれるのが当たり前だったはずが、どうして抵抗もなく早退しようなんて思えたのか。

 勤は変わっていく自分に歯止めが利かなくなっているような気がして、踏み止まった。

 とても大きな分岐点に自分がいるような気がしてならない。アモーに行くか、ここに残るか。

 もし残ったなら、二度とアモーに行くことは無いだろう。そして東大に合格し、遥香と再開する。それ以上の事があるのだろうか。それで十分ではないか。勤はそうやって自分に言い聞かせるように、心の中で唱えた。

 しかし胸のモヤモヤは収まらない。本当にそれで良いのかと。せっかく頼ってもらったお願いを勝手に反故にして、遥香に顔向けできるのか。

 結局愛の悩みは何一つ聞き出せてはいないじゃないか。このまま放置してもいいのか。

 心臓がドクドクと波打っている。胸のモヤモヤは晴れるどころか、考えれば考えるほど大きくなっていく。

 遥香の顔が頭に浮かんだ。

「お願い、愛ちゃんを助けてあげて」

 そんな声が聞こえてきたような気がする。

 勤はそこで席を立つと、後ろの席の裕介に耳打ちした。

「体調が悪いから早退する。先生に伝えておいてくれ」

 裕介は突然声をかけられたことに驚いたようだが、

「お、おう」

 と返事を返してくれた。

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