第16話
勤はチェキを撮った後、すぐに帰宅する。もともと今日は息抜きがてら様子を見に行くだけのつもりだったが、冬美のおかげと言うべきか思わぬ進展があった。
日が傾き始めた頃、靴を脱いでリビングに入ると、ダイニングで父親が本を読んでいるのが目に入る。
アモーに行ったのは、家を出たかったからという理由もあった。一日中この父親と同じ屋根の下に居れば、どうかしてしまうような気がしたのだ。
「早いじゃないか」
キッチンで手を洗おうとダイニングを通った時、父親が声をかけてくる。
「もう勉強が終わったとは言わせないぞ」
鋭い目つきで、父親が勤のことを睨みつけてくる。
勤は家を出る時、図書館で勉強してくると嘘をついた。確かに、勉強して帰って来るには時間が早すぎたかもしれない。
アモーの帰りに図書館へ寄ればよかったとも思うが、慣れないことをしたせいか疲れていて、一度部屋で休みを取りたい気分だった。
「集中力が切れたんです」
父が眉間に皺を寄せる。勤の言っていることが理解できないと言わんばかりの表情だった。
「情けない」
父親が本を置いて腕を組んだ。
勤はその仕草をぼんやりと眺める。眠気が襲ってきていて、頭の中に靄が溜まったような感覚があった。
「受験生と言うのは、飯と風呂以外勉強するのが当たり前じゃないのか」
「はい。そう思います」
「なのになんだその体たらくは。もっと背筋を伸ばしてシャキッとしろ。そんなダルそうな姿勢をとっているから、集中力も続かないのだ」
父親の口撃が始まる。
だが勤は上の空だった。ただただ、眠い。
このところ、ベッドに入ってから遥香とLINEをするというのが日課となりつつあった。そのせいで深夜まで起きていることに加えて、寝る直前まで頭を使うため睡眠の質、量ともに低下してしまっている。
朝歯を磨こうと鏡を覗き込み、目の下にクマが出来ていたのを発見した時には驚いた。人生で初めて自分の顔に現れたクマである。だが感慨深い思いなどある訳もなく、早く森へとおかえり願いたかった。
「なんだその目は」
そんなことを考えていると、父親の鋭い口調で意識が現実に戻って来る。
「すみません」
「なんでも謝ればいい訳じゃないぞ」
また意識が遠のいていく。欠伸を一つ噛み殺した。
「はい」
やがて視界が外側から暗くなっていく気がして、慌てて目を閉じると目の上に重りが置かれたかのように瞼が重くなる。
父親が何か言葉を発したようだが、それが何なのか聞き取ることが出来なかった。また欠伸が出る。今度は嚙み殺すことが出来たかどうかも分からない。
ガクンと首が揺れた。そこで勤はハッと目を覚ます。
父親が訝しげに、こちらを見ていた。
まさか自分は立ったまま眠りに落ちようとしていたのか。しかも父親の前で。
同級生たちが少し自慢げに電車で立ったまま寝そうになったと話していることを聞いたことはあった。勤はそれを誇張されたものとばかり思っていたけれど、まさか本当だったなんて。しかもそれを自分が経験する日が来るとは思っていなかった。
「お前、寝てないのか」
父親が冷めた声で言う。その目はまるで地球外の生物を見るような目だった。当たり前のように早寝早起きを日課としている父からすればあり得ない事なのだろう。勤も数日前まではそのように思っていた。
「すみません」
勤が言う。
「どういうことだ?何をしてたのか言ってみろ」
「どういうこととは?」
「夜、何をしていたかだ。なぜ、寝不足なんかに陥っているのか原因を説明しろと言っているんだ」
「………」
勤は必死に頭を回そうとした。いつもならすんなり出てくるはずの言い訳や嘘が、今日は何一つ出てこない。思考の流れが、大きな壁によって堰き止められているような気がした。
父親の鋭い視線が、勤を射抜く。
そこでついに堪えきれなくなって、両手で口元を隠すと音を立てずに欠伸をした。
眠気が和らいだ代わりに、不安と焦燥感が込み上げてくる。
父親は原因が遥香とのLINEにあると分かれば、連絡先を消すかスマホの使用を禁止するくらい、いとも簡単にしてしまいそうだった。それも強引にではなく、もっともらしい論理を組み立てて勤を説き伏せた上で遂行するだろう。
先のことまで考えて、勤は背中に嫌な汗が流れるのを感じた。粘度の高い、皮膚を逆撫でするかのような汗である。
「ところでお前、塾はどうしたんだ?」
父が突如として言った。
「今日は休みのはずですけど」
「そんなことはないだろ。毎週火曜日は放課後に塾があったじゃないか。今日だけないなんてことがあるのか」
父が眉根を寄せる。
確かにそう言われてみればなんで今日は講習がないのだろうか。勤は不思議に思って、足元の鞄を開いてスマホを取り出すとスケジュールを確認する。
………………。
授業は普通にあった。休みなのは明日である。どうやら今日が文化祭で休みだったことから、勘違いをしてしまったらしい。
まさかこんなミスをしてしまうなんて。
勤の顔から血の気が引いていく。もう今から行ったところで、授業には間に合わない。
「どうした」
勤は溜息を吐く。そして授業があったことを正直に説明した。
父の表情が珍しく、怒気を含んだものになる。組んでいた腕の筋肉が僅かに盛り上がったような気がした。
「何をやってるんだ、お前は」
父が溜息を吐く。
「そんなことで東大に行けると思っているのか。あそこは俺が身を粉にして勉強しても受からなかった大学なんだぞ。受験生の時の俺は、お前の百倍は勉強していた。それでも落ちた。今判定が良いからって油断していると、簡単に足元すくわれるってことをよく覚えとけ」
父の言葉がチクチクと心に刺さる。自分は油断していたのかも知れなかった。もしくは、東大に受かれば遥香に会えるとばかり考えていたせいで、もう合格したかのような気になっていたのかも知れない。
気を引き締めなければ。勤はそう思って、唇をきつく結んだ。
そこで父がふと、鞄の方を指差す。勤もつられてその先に視線を移した。
「それはなんだ?」
見ると鞄から、細長い紙がはみ出している。スマホを取り出したときに、何かのレシートが飛び出してしまったようだ。
勤は深く考えず、そのレシートを拾い上げると父に渡した。父がそれに目を通し始めたのを見て、自身は鞄を拾い上げ自室に戻ろうとする。
しかし父の冷酷な声が、ダイニングに響いた。一瞬、あたりが水中のように静かになる。
「どういうことだ」
父は黒目を震わせながら、レシートを勤の眼前へと突き出した。
コンセプトカフェ「アモー」の文字がそこに表示されている。
それを見た瞬間、勤は固まった。言い逃れようとする気すら起きない。再び嫌な汗が全身から噴き出してくるのを感じる。
勤は突如、自分がとんでもない大罪を犯していたような気分になり、血の気が引いた。
「ふざけるなよ」
父が言った。その声が、怒りに震えたり大きくなったりすることはない。いつものように淡々と言葉を述べている。しかし内容が声のトーンに矛盾していて、それこそが勤の背中を凍り付かせた。
「何のために高い塾代を払っていると思っているんだ?」
父の冷淡な声が、勤の鼓膜に纏わりつく。あのときと同じだった。勤が父に泥団子を投げた日、一人で帰って来いと告げた父の表情が蘇る。
父がダイニングテーブルの横にあるサイドボードからパソコンを持ち出した。カタカタとキーボードを打つ音だけが静かな部屋の中に響き渡る。
大きな窓から差し込む夕方のぬるい日差しが、まるで勤を嗤うかのように纏わりついて来た。
やがて父がアモーのホームページを開き、目を通し始める。
表情一つ変えずに高速でホームページを閲覧した父は、背景に何人かのメイドさんが映っている画面を勤の方に示した。
「俺が一生懸命働いてお前の教育費を稼いでいる中、お前はメイドと戯れていたという事だな」
「違います、父さん」
そこで勤はやっとのことで、口を開く。
父親の目がいっそう鋭くなる。まるで獲物を狙う猛禽類のような視線だった。
喉がカラカラに乾く。いつもそうだった。父親に何か反論しようとして、この鋭い目つきに睨まれると、喉の水分が一瞬にして蒸発してしまう。
さらには胃の中に虫が入ったかのような不快感が押し寄せてくる。慌てて手をお腹に当てて抉るように擦ってみるが、違和感は収まらない。それどころか、次第に吐き気さえ覚えてくる。
そんな中、勤は消え入るような声を絞り出した。
「別に遊ぶためにあの店へ行っていたわけじゃありません。人助けのためです。数か月前、クラスメイトが不登校になって、その子がそこで働いているから様子を見に行って欲しいと頼まれたのです」
誰からとは言わなかった。
父はまだ疑わしそうな視線を勤に向けてくる。
「でもチェキなんか撮っているじゃないか」
今度は父がレシートを勤の眼前に、突き出してくる。
「それは、その子が俺のことを警戒して心を開いてくれないから、距離を縮めるために仕方なく撮ったんです。写真も、持って帰って来ていません」
それは嘘だった。鞄には冬美に押し付けられた写真がしっかりと納まっている。もし父に鞄を調べられたらお終いだったが、幸いなことにそうはならなかった。
「つまりお前は、その不登校のクラスメイトのために仕方なく店へ行っていたと?」
「はい」
父親の視線が目の奥を通って、胸に突き刺さる。これまでにないほど居心地の悪さを感じて、息を飲んだ。
「禁止だ」
数秒間、たっぷりと勤を睨みつけた後、父は言った。
「この、アモーとかいう店に行くのは禁止だ。今後、ここへ行っていたと分かったら、塾代も受験費も下宿代も出さない。以上だ」
そう言って、父は一方的に話を終えた。そして早くもパソコンをもとの位置に戻して読書を再開しようとしている。
それに対して勤は無意識のうちに口を開く。
「ちょっと待ってよ」
そう言った瞬間、父の動きがピタッと止まった。今まで結論を下した父に言葉を発したことなど無かったために、未知の反応である。
勤の心拍数が一段階上昇した。頭が高速で回転し始める。
「それじゃあ、不登校の子はどうすればいいのさ」
勤は鼻息を荒くしながら、捲し立てる。一方でそれを客観的にぼんやり眺めている自分もいた。
自分はなぜ父に意見しているのだろうか。おかしなことをしているなぁ、と。
「それはそいつに問題があるのだろう。お前が助けてやる義理は無い。第一、自分の事すらままならない奴に他人を助ける資格はない」
「それは違うだろ」
なぜか、勤の口はもう止まらなかった。
「誰かを助けるのに、資格なんていらないはずだ。弁護士のあんたがそんなことを言って良いのか。それに彼女はそこらの高校生よりよっぽど努力しているさ。問題がある?人間なら問題の一つや二つあって当たり前だろう」
勤は言い切ってから、はっと我に返って自身の口を塞いだ。
自分が言ったことが信じられない。父がどんな顔をしているのか知ることが恐ろしくて、目を合わすことが出来なかった。
父は声を震わせながら、勤に言う。その口調はかつてないほどに早口だった。
「明日から放課後は必ず塾へ行け。授業以外の時間は自習室で勉強だ。間違ってもあんな店には二度と行くな。そして閉館時間まできっちり塾で勉強していたという証拠を提示しろ。破ったら、東大どころか大学になどいけないと思え」
有無を言わせぬ口調だった。勤は父親がこんな風に喋るのを初めて聞く。
机の上に会った本が手に取られる音がした。
勤は顔を上げると、父はもう自分のことを見ておらず活字を追っている。これ以上何か言ったところで相手にしてもらえないことは明白だった。
溜息を吐きたいのを堪えて足元の鞄を持ち上げると、勤は自室へ戻る。
椅子に座るのも面倒で、部屋に入るなり立ったままスマホを取り出して遥香とのトーク画面を開いた。
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