第15話

「はい、もうこの話は終わり」

 冬美は座面の淵に手を置くと、首を伸ばして勤に顔を近づける。

「それより君、このままで良いの?」

 冬美は少し早口だった。無理やり話題を逸らそうとしている感じが伝わって来る。普段は冷静でこんな強引な事をしないだけに、少し焦っている冬美が面白かった。

「はい?」

 勤は聞き返す。

「愛ちゃんの事。もううちにきてから二週間以上経つけど、何にも進展してなくない?それとも距離は縮まったの?」

「確かに言われてみれば、愛には最初から拒絶されたままですね」

「だよね。じゃあ私良いことを思いついたから、やってみない?」

 冬美が普段のペースを取り戻して、挑戦的な笑みを向けてくる。

「良いこととは?」

「それは内緒」

 冬美はそう言うとさっと立ち上がり、カウンターに入ってさらに裏へと進んでいく。

 数分後、冬美は愛の腕を掴んで店内に戻って来た。

 愛はムスッとした表情で、全く勤の方を見ようとしない。意図的に避けていることは明らかだった。

「ほら、立ちなよ」

 冬美が言う。

 勤はなにが起きているのか理解出来ないまま、冬美の指示通り立ち上がった。

 冬美はそのまま愛の腕を引くと、店内の一角、派手な装飾の施されたスペースに愛を連れていく。

 勤は冬美の手にチェキを取るためのカメラが握られていることに気が付いた。

「ちょっと待ってください、どういうことですか?」

 勤が冬美に声をかける。

 すると冬美は満更でもなさそうに、返してきた。

「あれお客さんがハムちゃんとのチェキを注文されたから、呼んで来たんですけど」

 その一言で、勤は全てを理解した。どうやら冬美は勤が愛とのチェキを注文したということにして愛を呼び出してきたようである。ハムちゃんというのは愛のこの店での名前だろう。愛も仕事とあらば断わるわけにもいかなかったようだ。一応この時も、勤務時間内である。

「ほらハムちゃん、お仕事だよ。笑顔、笑顔」

 そう言って冬美が愛の顔を掴み、口角を半ば強引に上げてみせる。

 その手を振り払った愛は、今まで逸らしていた目線を一度勤に向けた。そしてその瞳の奥をきつく睨みつける。

「チェキ撮ったらもう一生関わらないで」

 愛が低い声で言った。

「無理だと言ったら」

「チェキなんて撮らないし、この瞬間からもう一生関わらなくなるだけ」

 勤は心の中で溜息をついた。どっちにしろ仲を深める気はないようである。ならば撮るしかないかと思うが、慣れない事であるだけに気が重い。

 だが冬美はすでにカメラを構えて角度を調整している。

 勤の脳裏に遥香の顔が浮かんだ。これも全て遥香のため。そう心の中で呟いた後、勤は冬美の指示する場所に立った。

 すると横に愛が並ぶ。肩が触れ合う程の距離に近づいた愛からは、甘いフルーツのような匂いがした。

 愛は腰を曲げて中腰の体勢をとる。勤もそれに合わせて腰を曲げた。愛の頭が近づいてきて、こめかみが触れ合いそうになる。

 勤は横目で愛の表情を伺うと、そこには満面の笑みが浮かんでいた。まるで恋人と写真を撮るかのような笑顔に勤は目を疑う。

 少なくとも数秒前自分を睨みつけていた人物とは全くの別人のように思われた。

 そこで冬美が言う。

「せっかくなんだし、ハートでも作ったら?」

 カメラに隠れてその表情は見えなかったけれど、きっと悪魔的に笑っているはずだった。

 勤は愛が拒絶してくると思ったけれど、仕事モードに入った愛は表情一つ変えず片手でハートの片割れを作って差し出してくる。

 別に何かいけないことをしている訳でもないのに、勤は心拍数が上がってしまうのを感じた。

 しばらくの間、差し出されたクエスチョンマークの上の部分のような形をした愛の手を眺める。

 冬美から声が飛んで来た。

「早くしなよ」

 そう急かされるが、勤の頭は高速で回転しすぎて空回っている。

 ふとどうして距離を詰めたがっている自分が戸惑っていて、関係を切りたがっている愛が手を差し出しているのかと考え始めた。

 いや、むしろ、だからこそなのかもしれない。

 果実の匂いが鼻腔をくすぐっている。

 勤は顔を歪めた。しかし直後に笑顔を作る。実際に作ってみて、冬美や愛が普段していることはとても難しいことなんだと分かった。

 勤はもう一度頭の中に遥香を思い浮かる。そしていくつか嫌味を投げかけた後、左手を愛の対称形になるようにして合わせた。

 その瞬間を待ちわびていたのか、冬美が楽しそうな声を上げる。

「じゃあ撮るよ~。ハイ、チーズ」

 冬美の指が動き、シャッターが切られたようである。しかしシャッター音が鳴らないため、いつ動いて良いのか分からない。愛も同じように思ったのかしばらく姿勢をキープしていた。

「はーい、撮れたよ」

 そこで冬美が声を上げ、カメラから顔を上げる。

 その瞬間、愛がまるで磁石が反発し合うかのように勤から離れるとそのまま裏へと逃げ帰っていこうとした。

 だが冬美が愛の背中に向かって言う。

「チェキは現像されるまでが、撮影会だよ」

 まだ仕事は終わってないということらしい。一度肩を落とした愛だったが、振り返る頃には笑顔に戻っていた。

 チェキはすぐにカメラの下から出てくるが、乾くまでに時間が掛かるらしい。

 冬美が、話すならチャンスは今だぞと言いたげに視線を送って来る。

 勤は意を決して、愛の目を見た。しかし距離を縮めると言っても、何を話せば良いのか分からない。こういうことを避けてきた宿命が、こんな所で現れるなんて。

 また再び頭を回転させるが、発すべき言葉は全く出てこない。そこで冬美が近づいてきて、耳打ちしてきた。

「頭で話そうとしちゃだめだよ。心で話さないと」

 言われて勤はハッとした。冬美の顔を見ると、不敵に微笑んでいる。意地悪をしてくる冬美だったが、こういう時はアドバイスをくれるらしい。

 心で話す。確かにそうかも知れなかった。勤はいつも誰かと話すとき、どう話すのが正解かを考えてしまう。でもそれでは、距離が縮まるはずがない。

 考えてみれば当然だけど、今まで考えたこともないことだった。

 冬美もきっと同じように苦労したことがあったのだろうと、勤は本能的に感じる。だからこそ冬美の言葉には重みがあった。

 勤は心の中でアドバイスを反復し、もう一度愛へと向き合う。

 思った事か………。

 愛は相変わらず百点の笑顔を顔面に張り付けていた。そこでふと心の中に一つの疑問が浮かび上がって来る。

 勤は思い切って、浮かび上がって来たものをそのまま口にしてみた。

「どうして、そんなに頑張れるんだ?」

 そう言った瞬間、愛が笑顔を崩した。言われたことが理解できないというように眉を顰めている。

 どうやら突然投げかけられた言葉が予想外であり、受け止めきれなかったようだ。

 勤は表現を変えて、もう一度伝えた。

「何がお前をそれほど突き動かすんだ?」

 今度はきちんと意味を理解したようだった。

 しかし愛は質問に答えようとはしない。代わりに、勤に対して言った。

「普通そういうことは自分から話すべきなんじゃないの?」

 勤は考えることを止めて、思い浮かぶまま言葉を口にする。

「自分から?俺は何を話せば良い?」

「私にどうして頑張ってるか聞きたいんでしょ。じゃああんたもどうして頑張ってるか、なんで私をわざわざ追い回しているのか、説明してよ」

「それは………」

 勤はそこで口籠る。心に浮かび上がった言葉をそのまま口にしようとしたが、習慣的にそれを阻止してしまった。

 遥香のためだ。

 心に浮かんだのはその一言である。だがそれを言って良いのかどうか。もう連絡を取ってないらしいが、愛の口から遥香にこの言葉が伝わる可能性は無いだろうか。

 ダメだ。また、考えてしまう。

 勤は体の横で、拳を強く握った。勉強に間違いが付き物なように、人生において失敗は避けることが出来ない。

 勤は拳にさらに力を籠めると、思考を振り払うように首を左右に振った。

 そして声を上げる。

「遥香のためだ」

 愛が納得したような笑みを浮かべた。もしかしたら、ある程度予想していたのかも知れない。

「遥香の事好きなの?」

 愛が少し遠慮しながら聞いて来る。

「ああ」

 それに勤は即答した。

 今度は愛が瞳孔を開いた。そして勤のことを凝視し始める。その答えの内容というよりも、あっさりと答えたことが信じられないようだった。

 言う前はあれほどびくびくしていたのに、口にすると不思議と恐怖や不快感はまったくない。むしろ達成感やスッキリした感覚が強かった。自然と笑みを浮かべたいような気分になる。

「じゃあ聞かせてもらおうか」

 今度は勤の番である。

 愛は勤から視線を逸らして、足元を見ている。腕を組んで逡巡するように視線を泳がせていた。

 店内の電球が眩しく光る。

 やがて愛は意を決したようで、遠慮がちに顔を上げた。上目遣いで勤を見る。

「私は、夢のため。私、アイドルになりたいの」

 愛はそう言い切るのに全ての酸素を使ってしまったかのように、息を大きく吸った。一瞬、間が空く。店内は静寂に包まれた。

 勤はすんなりと愛の言葉が入ってきて、頷く。アイドルになりたいと言われて納得がいった。

 だが愛は勤の表情を伺っている。

「どうした?」

 勤は愛の視線に気が付いて言った。

「いや、何か思うことは無いの。馬鹿だなとか愚かだなとか」

「夢というのはたいてい傍から聞けば愚かなものだ」

「それフォローしてるつもり?」

「アイドルになりたいと思ったきっかけは何だ?」

「きっかけって、そんなの興味あるの?」

「あぁ、ぜひ聞いてみたいな」

 勤が言うと、愛は再び顔を俯けて話し始める。

「別に大した理由なんてないよ。ただ憧れているだけ」

 愛は勤でも名前を知っている国民的アイドルの名前を口にした。

「初めてテレビでその姿を見た時、どうしてこの人はこんなにも輝いているのだろうかと思った。完璧な人間って本当にいたんだ。そんなことを自然に思うくらい私はテレビに見入っていた。でも知れば知るほど、あの笑顔の裏にはたくさんの苦労が詰まっていることを知って、私にもチャンスがあるように思えたの。努力すれば、あんな風に輝けるのかなって」

 愛は終始下を向いていて、言葉に詰まりながらも最後まで口にしてくれた。僅かな沈黙が訪れるが、気まずさはない。

 どうして愛が頑張っているのか。看板を持って外に立つ愛の姿を思い出す。

 勤は気遣いのつもりで震える愛に声をかけ、愛を怒らせてしまった。しかし愛の夢を知っていれば確かに自分の行動はお節介だったと分かる。

 勤はそのことを、今更ながら謝罪した。

「何謝ってんの」

 愛はそう言いつつ、僅かに表情を崩した気がした。

「はーい、写真出来たよ」

 そこで、今までチェキを乾かしつつ二人の会話を聞いていた冬美が声を上げた。そして出来上がった写真をひらひらとこちらに持ってくる。

 写真を見ると、思ったよりもレトロな雰囲気が出ていた。その中央に手でハートを作った愛と勤がいる。

 愛は完璧な笑顔を浮かべていて、勤の顔はぎこちなく歪んでいた。

 愛も勤の横で写真を確認すると声を上げる。

「じゃあ、私はこれで」

 そう言って愛はすたすたとカウンターの奥にむかって歩いていく。しかしその背中からは、前ほど強い拒絶の意志は感じなかった。

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