第14話
勤は木製のドアを開いた。するとアモーの室内が視界に現れる。店内には冬美と愛以外、誰もいないようである。
その愛も勤が来たと分かった瞬間、裏へと逃げて行った。
「いらっしゃい」
冬美がやって来る。
「今日は早いね」
そう言って冬美が壁に掛けられた時計を見る。
勤も釣られて視線を移すと、時刻は午後二時を回った所だった。確かに普段は塾終わりの夜八時頃に来ることが多い。塾の授業が無い日でも学校があるため夕方からだ。
しかし今日は文化祭だったので勤は欠席し、午前を自宅学習に当て息抜きがてらアモーを訪れたのである。
勤はそれを冬美に説明した。
「分かる。私もああいう行事ごと苦手だったな。結構憂鬱だった」
冬美が過去を懐かしむかのように目を細めた。
そこで勤は冬美が体育祭で満面の笑みを浮かべている写真を思い出す。その事を尋ねると、冬美は声のトーンを落として言った。
「そりゃぁ、みんなが楽しそうに笑ってる中私だけ暗い顔していられないでしょ」
つまりあの笑顔は作り物だったということか。
「すごいですね、楽しくもないのにあんな笑顔を作れるなんて」
「それ嫌味?私、年上なんですけど」
冬美が睨みつけてくる。
勤は「すみません」と言いつつも笑った。冬美も照れくさそうにしながら、笑っている。
勤はもはや定位置となりつつあるテーブル席へと腰かけると参考書を開いた。息抜きに来たと言っても、愛が居なければ他にやることもない。
冬美も暇なのか爽健美茶を持ってきてくれた後、そのまま勤の前に腰かける。
今日やるのは数学だった。朝からずっと考えているが、全く解法の見えてこない図形の問題に苦戦している。
勤はノートを取り出して、先ほどまでああでもないこうでもないと書き連ねた式を見直す。
すると黙ってその様子を見ていた冬美が声を上げた。
「その問題ならここに補助線引いて、余弦定理使えば解けるよ」
冬美は勤の手からシャーペンをひょいと抜き取ると、参考書に薄く補助線を引いた。
「まさか」
補助線という発想が勤には無かったため、本当に解けるのだろうかと疑問に思う。しかし、言われた通り余弦定理に当てはめるとさっきまで悩んでいたのが嘘のように数値が導かれていく。
xの値が出たところで、勤は答え合わせをした。見事に正解である。それも答えを見ると、そこにはゴリゴリに計算していく解法が載っていた。勤もその解き方をしていたのだが、どうやらどこかで計算ミスをしていて答えまで辿り着けなかったらしい。
その答えには、右端のおまけ欄にもっと簡単に解ける方法として冬美の解き方が説明されていた。
それを一通り読み終えたところで、勤は顔を上げる。
「よく分かりましたね」
勤が真顔で言うと、冬美は顔を逸らした。
「似たような問題を見たことがあるだけだよ」
「いやそれでもすごいです。似たような問題を解いたとしても、チラッと見ただけであんな解き方が思いつくなんて」
勤はお世辞でもなんでもなく、本心からそう言った。
「いやいやいや、そんなに褒めても何も出ないから」
冬美は手を顔の前に振りながら、そっぽを向いていた。でもその顔は全体的に赤くなっている。多少ひねくれている冬美でもやはり褒められると嬉しいようだった。素直に受け取れないのは冬美らしいけれど。
「先輩は、大学どこなんですか?」
冬美は手で顔を仰ぎ、火照った体を冷ますようにしながら勤に視線を戻した。
「○○大学だけど」
「学部は?」
「経済学部」
「そうですか………」
冬美の口から出てきたのは、かつて遥香も目指していた地元の国公立大学である。経済学部は文系の花形ではあったが、冬美の学力ならもっと偏差値の高い大学にも行けそうな気がした。
それを勤が口にすると、冬美が遠くを見つめる。金髪の長い髪が風になびいたかのような錯覚がした。
「確かにね、学力的にはもう少し上の大学を目指せたかも」
「学力的には?」
「そう。つまり学力以外に問題があったってことだよ」
冬美は飄々と言った。
「その問題って?」
勤は尋ねる。
冬美は遠くを見たまま、少し目を細めた。一体それはなにを見つめているのか勤には分からない。でもその目線はどこか諦めたような色を含んでいた。
「別に大したことじゃないよ」
冬美はそう言って口を閉ざした。
勤はアモーに通うようになって気が付いたことがある。
冬美はあまり自分の話をしたがらない。まるで冬美の見えている世界には冬美自身が存在していないようだった。
だから愛や遥香の話で盛り上がったり、勤の話を聞いてくれたりはするけれど冬美の話をしたことはない。
そのことに気が付くと、勤は決意を固めた。
「その大したことじゃない問題を教えてください」
勤は冬美の目を真っすぐに見た。
冬美は相変わらず遠くを見ていて、目線が合わない。
「いや」
冬美がはっきりと断って来た。
アモーは適温である。しかし冬美は体の前で腕を組み、冷房のきついカフェに入ったように腕を擦る。
「お願いします」
勤は頭を下げた。なぜ自分でもそこまでして、冬美の話を聞きたいと思ったのか分からない。でも冬美にはそうさせる魅力があるのだ。本人が隠せば隠すほど周りの人は知りたくなる。そんな魅力が。
きっと冬美自身は気が付いていないだろうけれど。
勤が顔を上げると、冬美は物珍しそうな視線を勤に向けていた。
そこで勤がもう一度言う。
「お願いします」
「どうしてそこまで」
「みんな知りたいと思いますよ。あなたのこと」
「そんな訳ないよ………」
すると冬美は恥ずかしそうに、目線を逸らして俯いた。どうやら自分のことを話すのが本当に苦手らしい。
勤は急かすことなく、黙って冬美が話し出すのを待った。
するとしばらくして諦めたのか、冬美は斜め下を見ながら話し始める。
「本当に大した話じゃないから」
冬美がそう前置きする。腕は体の前で組まれたままだたが、口は開かれていた。
「私には父親がいないの。詳しい話は聞いてないんだけど、私が産まれるって分かったら逃げちゃったらしい。それで私はずっとお母さんの女手一つで育てられてきた。お母さんは私のために仕事も家事も頑張ってくれたおかげで、私は特に不自由のない生活を送ってる。でもやっぱり遠くの大学で下宿はね」
冬美がぎこちなく笑った。それは全てを悟っているような笑みである。
「寮とか、奨学金とかもあったんじゃないですか?」
「まぁ確かに、方法はいくらでもあったかもしれない。でもなんかお母さんのことが心配だし、そこまでして行きたい大学でもなかったから。私は私の人生なんてどうでもいいんだ。チャップリンも言ってたでしょ。私たちには死と同じように避けられないものがある。それは生きることだって。だから私は生きている。私は別に人生が喜劇でも悲劇でもどっちでも良いけど、ただ私の周りの人には幸せになって欲しいと思う」
冬美の言葉にはいつもとは違う重みがある。
勤は知らない間に、冬美が語る言葉を聞き逃すまいと耳を傾けていた。冬美の根底にある想いを聞いた気がして、勤は言葉に詰まる。
冬美は言うのを嫌がっていた割に、さらっと語って見せた。それは冬美が常日頃から考えていることをそのまま言葉にしてくれた証拠のように思われる。
すると冬美は組んでいた腕を解き、勤に視線を戻した。
「はい、もうこの話は終わり」
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