第13話

 塾で授業を終えるとアモーに行き、相変わらず愛には拒絶されたまま勉強をして、勤は帰宅した。

 エネルギーを使い果たした脳を引っ提げ、靴を脱ぎリビングに入る。すると、ダイニングテーブルで父が何かの本を読んでいた。

 勤は挨拶だけを済まし、その前を通り過ぎようとする。

 しかし、父親は本から顔を上げないまま言った。

「おい」

 その声で勤は足を止める。もう疲れ果てていて、早く食事を済ませて寝たかった。しかしそんなことを口に出したところで意味の無いことはもう理解している。

「夏休みに模試があっただろ。あれの結果はどうだったんだ」

 父親は言った。そこで初めて父は本から視線を外し、横目に勤を睨みつける。

 勤は溜息をつきたいのを堪えて、鞄を置いた。その中から透明のクリアファイルを取り出し、先日返された冊子を父に手渡す。

 父は黙ってそれを奪い取った。

 そして本を読んでいた時の何倍も険しい表情で、模試の結果を睨みつける。

 勤は所在なくその場に立っていた。気を抜けば立ったままでも眠りに落ちてしまいそうである。

 実際に父が偏差値のあたりを睨んでいるときに、意識が一瞬飛んで頭がガクンと揺れた。

 父は視界の端でそんな勤の様子が目に入ったようで、軽蔑するような一瞥を送りつけてくる。

 そんな時間が数分間続いた。

 父は自分にも他人にも厳しい人物だった。昔から惰性を嫌い、常に意味のある行動を取っていなければ気が済まない、そんな性格である。勤はその考え方が嫌いではないが、他人に押し付けないで欲しかった。

 それも質が悪いことに、勤が何か叱られるようなしたことをした時、父は決して怒鳴らない。その代わりにねちねちと、勤の行動がいかに愚かだったかを事あるごとに論理立てて説き伏せてくるのだ。そうして勤に罪悪感や恥を植え付けて、もう二度と同じことをする気を失せさせてくる。

 そのせいで、勤は今までの人生で多くの物を諦めてきた。ゲーム、アニメ、遊び、友達………。

 父の価値観にそぐわないものを諦めるのが当たり前になっていて、それならば最初から望まない方がいいだろうという事も覚えた。

 しかしあとちょっとだけ自由な幼少期を送っていたら、自分はどんな風な人間になっていたのだろうかと思うことはある。決して口にはしないけれど。

 そこでようやく父が冊子から顔を上げた。

「どういうことだ」

 第一声は、この言葉だった。

「なんなんだ、この点数は」

 父親は冊子を捨てるように投げ、机の上を滑らせる。

 勤はそれを受け取るまでもなく、点数は完璧に把握していた。自己分析も済ませている。

 結論から言うと、今回の模試は悪くない、だ。偏差値で見ると確かに前回から下がってはいるがそれは微々たるものである。それは勤の点数が下がったと言うよりも、周りが上がったからだと思われた。

 勤としても苦手分野で点を取れていたし、東大の判定もAであり目立った問題点はない。

 だが父としては偏差値の推移を示すグラフが、僅かでも下降していることが許せないのだろう。そして、父がそう言ったからにはそれが正しいとされるのだ。

 どんな反論をしたところで、父を言い負かすことは出来ない。

 だから、勤は言った。

「すみません」

「お前、今が受験生にとってどれだけ大切な時期か分かっているのか。センター試験まですでに、七〇日を切っているのだぞ」

 父はいつもこういう話をする時、細かい単位を使う。例えば三か月を切っているではなく、七十日のように。その方が、説得力を持たせることが出来るようだった。現に、三か月を切っていると言われるより七十日を切っていると言われる方が焦りが生まれる。

 今日は、千六百八十時間を切っているのだぞと言われなかっただけましだった。

「はい。少し気が緩んでいました」

 勤は思ってもないことを口にする。

「お前のその一瞬の気のゆるみで一生を棒に振ることだってあるんだ。よく考えて行動しろよ」

「はい。気を付けます」

「いいか、かのアリストテレスはこう言ったんだ。怒ることはたやすい。しかし、適切な相手に………」

 それから父のありがたい言葉が続いたが、勤の頭には残らなかった。

 そこで洗面所から母がやってきて、言う。

「まぁまぁ、お父さん、本人も疲れてるだろうからその辺にしておいたら。夕食もまだだろうし」

「これは勤のために言っているんだ。勤はもっと人生を俯瞰できるようにならなければならない。こいつはちょっとした気の緩みがいかに人生へ悪影響を及ぼすか理解してないのだ」

 父は母に止められても怒る訳でもなく、淡々と言葉を返す。

「たまには気の緩みも必要じゃない。よく言うでしょ、張り詰めた糸は切れやすいって」

「時期の問題だ。緩めて良い時期とそうじゃない時期を見極めなければいけない。糸だっていつも緩んでいたら、ちっとも役に立たない」

「でもこんな夜遅くに話すこともないでしょう。勤が食べた後の食器を洗うのは誰だと思ってるんです。寝るのが遅くなるのは私ですよ」

 母は言った。すると父は言葉を失う。

 父は母の顔を見ながら小声でぶつぶつ何か言っていたが、やがて母に聞こえるか聞こえないかギリギリの声量で「すまない」と言った。

 そして机の上で忘れられていた本に手を伸ばすと、再び読み始める。

「分かったなら、もういけ」

 父親は勤のことを見るでもなく、そう言った。

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