第12話
愛は足早に駅のホームへと続く階段を上った。勤はまだ店に残っていたため、後ろから付いて来ているとは考えにくい。でも万が一追いかけられて、話しかけられでもしたら最悪の事態になりかねなかった。
今時、どこに誰の目があるのか分からない。
もし私がクラスメイトと話していたことがばれてしまったら………。
愛はその先を想像することも恐ろしくなって、首を思いっきり横に振る。それから、階段を駆け上がる足を早めた。
愛は昔から周囲に馴染むことがあまり得意ではなかった。理由は分かっている。
愛は頑固で、一度自分がこう思ったら何と言われても曲げないそんな性格だった。だから周りに合わせるとか、そういうのが苦手で一人でいる方が楽だったのである。
コンカフェで働くことは自分の意見を曲げなければいけないこともあるけど、仕事だからと割り切って自分じゃない自分を演じていた。
それも夢のためである。あの夢を叶えたいのなら、必ず自分じゃないキャラを演じなければいけない時が現れる。そのための練習だ。
ホームに出ると、十時を回っているという事もあり人はまばらだった。蛍光灯の眩しい光があたりを照らしていて、夜の中でこの駅だけが島のように浮かび上がっている気がする。
愛は階段を上がってすぐの所で電車を待った。今日も疲れて、頭がぼーっとしている。さらにいつもとは違って、気怠さのようなものも感じていた。どうしてだろうか?
原因はすぐに思い当たる。
勤のせいだ。
ある日突然アモーに現れたクラスメイト。あれは本当に唐突な出来事だった。
まだお客さんの少ない夕方、いつも通り冬美さんと雑談をしていると突如あの可愛らしい木製のドアが開いた。
そこに現れた真面目そうな眼鏡を最初は気にも留めなかったが、それがクラスメイトの勤であると分かった瞬間心臓が跳ねたのを覚えている。
それにしても勤はなぜアモーに現れたのか。目的は何なのか。
そのとき、脳裏に遥香の顔が浮かび上がって来た。胸がキューッと締め付けられる気がして、ハンドバックを握る手に力が入る。
ずっと孤立していた私を唯一受け入れてくれた存在。
そんな遥香が転校したことは知っていた。本当は会いに行きたかったけれど、どうしても出来ない。そんなことをしたら、夢が終わってしまう。
だから愛は心の中で何度も遥香に謝った。
もしかしたら、勤は遥香の指金ではないだろうか。ふとそんな考えが頭に浮かび、遥香なら私を心配して、勤を寄こすくらいしそうだなと思った。
そう思うと、胸が申し訳なさでいっぱいになる。
私は大丈夫だから。そう言えたら、どれだけ楽だろうか。
とはいえ、もうだれも信用することは出来ない。たとえ遥香に言われたとしても、勤に心を許すわけにはいかなかった。そもそも本来は関わること自体禁止されているのだ。
どうやったら勤を遠ざけることが出来るだろうか。
愛は考えを巡らせていたが、良い案はなかなか思い浮かばなかった。
そのときである。
背後から嫌な視線を感じて、ぞっと背筋が冷え渡った。全身から鳥肌が立ち、一気に目が覚める。本能が危険だと忠告するように、頭がガンガン鳴った。
まただ。誰かに見られている感覚。
ここ最近、時折感じる視線。それは決して羨望のような明るい眼差しではなくて、もっとねちっこいどろどろとした不快感を塗り付けてくるようなものだった。
ストーカー。変質者。そんな文字が頭に浮かぶのを必死にかき消していく。
愛は身の恐怖を感じて、首を回すことすら出来ない。振り向いたら誰かいるのかも知れない。でも確認する勇気なんて無かった。もし目でもあってしまったら、どうすればいいのか想像もつかない。
愛は一つ深呼吸をすると、会社帰りのサラリーマンらしき集団の傍へとさりげなく移動する。
そして相変わらず視線を感じる方を見ることが出来ないまま、一刻も早く電車が来ることを祈った。
大丈夫。きっと気のせいだ。振り返ったら誰もいなくて、拍子抜けするだけである。大丈夫だから。
愛は何度も自分に言い聞かせた。
勤は今日も寝る準備を整えてベッドに入ると、スマホを手に取った。
「今日もアモーに行ってきた」
「お疲れ様!わざわざありがとね」
今日も一瞬で既読が付き、返信が届く。
「どうだった愛ちゃんは?」
「相変わらず、まともな話は出来なかったかが」
勤はアモーで働くメイド服姿の愛を思い出す。
「愛はなんというか、頑張っていた」
「へぇ」
「なんだ」
「いや、辛口の勤が他人を褒めるなんて珍しいなーと思って」
確かに言われてみればそうだった。でもそれほどまでに、愛の働く姿には心打たれる部分があったのかも知れない。
震えながらも健気に看板を掲げる愛の姿が脳裏に浮かんだ。
「すごいと思ったものは褒める」
「むぅ、じゃあ私はすごいと思わないってこと?」
「そんなことはない。ただ」
そこまでメッセージを打ち込んだ後、勤は送信する前にメッセージを消した。ただ遥香のことを褒めるのは、気恥ずかしいだけだと言えるわけがない。
「そういうことだ」
代わりにそうやって送ると、遥香から顔を真っ赤にして瞳を燃やすキャラクターのスタンプが送られてきた。どうやらかなりお怒りのようだ。
それからまた雑談をしていると、時計の針は深夜の三時を回っている。めでたくも、夜更かしの新記録を樹立していた。
「おい、勤、大丈夫か、おーい、おーい」
そんな声が遠くから聞こえてくる。しかし勤はその言葉の意味が理解できなかった。ただの耳障りな音としてしか認識できない。
なんだか体がふわふわしていて、水の中にいるような感覚があった。
勤は目を覚ます。だがきっぱりと目が開くこともなく、まだ微睡の中にいた。ボーッとする頭が徐々にクリアになっていく。
そのとき、後ろから肩を鷲掴みにされ体を揺らされた。
一気に目が覚めた勤の視界に、教室が現れる。
はっと目を見開いた勤は、未だ体をうねらせてくる後ろの人物を振り返った。
「俺は、寝てたのか」
「お前にも睡眠が必要だったと知って安心したよ。これは世紀の大発見だ」
裕介が言った。
「いやー、それにしても、お前が授業中に居眠りするなんて珍しいな」
裕介はどこか嬉しそうに口角を上げている。さらに若干興奮しているのか、声が大きく、先ほどの台詞はおそらくクラス中に響き渡っていた。
その証拠に、クラスメイトの視線が自分たちに集まっているのを勤は感じる。
そこで黒板の前に立つ、二学期からこのクラスの英語担当になった木村先生が裕介にツッコミを入れた。
「おい裕介、お前が起きているなんて珍しいな」
その瞬間、クラス中から笑いが起こる。裕介はばつが悪そうに肩を竦めた。
木村先生は三十代前半でまだ若い。その上明るい性格であり、ユーモラスな人物だった。そのせいからか、生徒からの人気は非常に高い。特に女子生徒からの人気は校内でもトップクラスだった。
また体育教師と見間違うほど筋肉質であり、いつもシャツは筋肉でぴちぴちになっている。
「でも先生、こいつ三十分も寝てたんですよ」
裕介が苦し紛れに声を上げる。
「あぁ、最初から最後まで寝言で授業に参加していたどこかの誰かの半分だな」
そこでクラスから再び笑いが起こる。誰かとはもちろん裕介のことだった。
「もう、ふて寝します」
そう言って裕介が、後ろで突っ伏すような音が聞こえてくる。クラスは爆笑だった。
勤はすでに前を向いていたが、きっと裕介はしてやったりと嬉しそうなにやつきを浮かべている事だろうと想像する。
そこで木村先生が声を上げた。
「あぁ寝てろ、マージおばさんみたいな体型しやがって」
そこで再び笑いが起こる。しかし、時間が経つにつれ状況は変化した。冷静に生徒たちが先生の言葉を受け止めると、意味が分からないというようにはてなを浮かべ始める。
生徒たちの爆笑が失速し、愛想笑いへ、そこから失笑へと移っていく。さっきまで顔を上げて笑っていた生徒が気まずそうに、自分の手元を見始めたのが勤の視界に映った。
木村先生はユーモラスで、誰にでもフラットに接するため非常に人気である。しかし、唯一の欠点と言っていいのが、ハリーポッターオタクだった。
中学生で初めて読んだ時からあの魔法の世界に引き込まれたらしく、英語教師になったのもハリーポッターを原語で読もうとしたのがきっかけらしい。
その情熱の注ぎ方は異常な部類であり、授業で紹介する英語の例文は全て主語がハリーかロンかハーマイオニーに変換されていた。
それだけではなく、今のように時たま誰も分からないような例えツッコミをしたり、映画や小説に関する小ネタを長々と披露したりしては生徒をドン引かせている。
修学旅行でUSJに行った際は、自らハリーポッターエリアの見守りを申し出、バタービールを片手に杖を振り回して生徒の誰よりも楽しんでいたという逸話もあった。
しかし木村先生に熱を上げている生徒たちにとっては、そんな欠点も愛すべき要素らしい。むしろそれくらいの欠点がある方が人間、もといマグルらしくて良いなんて言う生徒もいた。
勤が時計を見ると、すでに授業の残り時間は僅かとなっている。本当に三十分ほど眠ってしまっていたようだ。
先生は案の定と言うべきか、残り時間など気にもせずハリーポッターについて語り始める。
こうなれば生徒は全員、耳を塞ぐ。それは勤も例外ではなく、ポケットからスマホを取り出して、机の下で来ていたメッセージに返信する。
冬美から、
「今日も来れる?愛ちゃん、二時から最後までだけど」
と来ていたので、
「行けます」
と答えた。
それから顔を上げると、勤は僅かな時間で必死に寝ていた分のテキストを読み込んだ。
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