第11話
勤はしばらく愛を眺めていた。どうやら愛は相当聞き上手なようで、キャストドリンクを入れた男性客が身振り手振りまで使って楽しそうに何やら愛に説明していた。愛はそれに適度な相槌を打ち、話を遮ることもなく聞いている。時に笑ったり、眉を顰めたりとリアクションも欠かさない。
学校にいた時の愛をよく知っている訳ではないが、思っていたイメージの中に聞き上手というものはなかった。また見ている限り愛は明るい雰囲気を纏っている。笑顔も心の底から笑っているように見えた。
ここでは意図的にそう振舞っているのかもしれないが、それならそれでかなりの努力が伺える。
そんなことを思っていると勤はふと自分も何か努力をしたいという気持ちが沸き上がってきて、脇に置いた鞄から参考書を取り出し机の上に広げた。
せっかくだから普段は後回しにしがちな世界史に手を付ける。この前の模試では古代ギリシャの範囲でかなり失点をしてしまったため重点的に復習を始めた。
古代ギリシャの範囲は世界史を習い始めて比較的すぐに勉強した内容であり、復習しなければ頭から抜けて落ちてしまうのである。
勤はしばらくマラトンの戦いやらサラミスの海戦やらプラタイアの戦いやらとペルシア戦争の流れを確認した。その後、ペロポネソス戦争へと進み歴史を追っていく。
そうして気づけば一時間近く、参考書を睨んでいた。顔を上げると、お客さんの顔ぶれが少し入れ替わっている。
そこで勤は勉強を中断して、本来の目的に戻ることにした。
愛を助ける。
まだ何をすればいいのかも分かっていない。そもそもどんな問題を抱えているのかさえ分からなかった。それにさっきお客さんと話していた時の笑顔を考えると、目立った問題を抱えているようには見えない。でも愛は不登校になった。
まずは距離を縮めなければ。
そう思って勤は、愛の姿を探した。ドリンクを運ぶメイド、客と話し込むメイド、裏から出てくるメイド、裏に帰っていくメイド。
また中には店内の装飾が凝らされた一角で、お客さんとツーショット写真を撮っているメイドもいる。勤はその一人一人を確認したが、愛の姿は無い。
勤は不審に思って、携帯で冬美から送られてきていたシフト表を確認する。するとシフトは九時四五分まで入っていた。今はまだ九時を回った所である。
どこへ行ったのだろうかと頭を悩ませていると、ちょうど冬美が裏から出てきた。
勤は目線で冬美を呼ぶ。
「どうかした?」
冬美がすぐに寄ってきて、勤に言う。
勤は聞きたいことがたくさんあったが、まずは視界の端に映る撮影会の方を指差す。
「あれは、なんですか?」
すると冬美も勤の人差し指の先を見た。
「あぁ、あれは、チェキだね」
「チェキ?」
「そう。撮った写真がその場でプリントされるやつ。注文すれば好きなメイドさんと一緒に写真を撮って、それを持ち帰れるってわけ」
「それはお金さえ払えば、誰でも撮ってもらえるのですか?」
「言い方悪いけど、まぁそういうこと」
勤は過去の愛の写真を見れば、何か感じるものがあるかも知れないと思った。そして、冬美に聞いてみる。
「過去の写真とかって見ることは………」
「うちの場合は、店のパソコンにデータが残ってるはずだけど、さすがにお客さんの情報もあるし、君には見せられないよ」
冷静に考えればそれもそうである。
勤は切り替えて、もう一つの気になっていたことを尋ねた。
「ところでさっきから愛の姿がないですけど、どこに行ったのですか?」
「あぁ~、愛ちゃんなら………」
冬美はそう答えかけて、突如口を噤んだ。
「どこだと思う?」
突然、質問が返って来る。
勤はそれが分からないから聞いているのだと言わんばかりに腕を組んだ。そして険しい顔を作る。
その様子を見て、冬美が楽しそうに笑っていた。
勤はさらに眉を寄せる。
「ふふっ、冗談冗談。君も結構可愛い所あるじゃん」
冬美はしばらく勤の困り顔を堪能した後、声を上げた。
「愛ちゃんなら、『お外』だよ」
冬美が勤に耳打ちする。
「お外?」
勤が聞き返すと、冬美はまたにやっと笑った。
「行ってみたら分かる」
そう言って冬美は勤に立ち上がるよう指示すると、そのまま半ば強引に店の外へと放り出した。
勤は突然西洋風の狭い廊下に追い出され、後ろを振り返るが、冬美が笑顔のまま手を振ってきて木製の扉が閉じられる。
「はぁ」
溜息をつくと勤は仕方なく廊下を進んだ。レンガを模した壁紙が所々剥がれている。
フロアをぐるっと歩いてみたが、愛の姿は無かった。どうしたものかと思ったが、冬美が『お外』と言っていたことを思い出し、外に出ることにする。
狭いエレベーターに揺られながらふと自分はなぜここにいるのだろうかと思った。しかし不思議と嫌な気分はしない。むしろ目まぐるしさの中に面白さを感じている。
以前は同じような毎日の繰り返しで、気づけば一日また一日と時が消化されていった。しかし夏休が明けてからはなぜか自分が今という時間を生きていると実感することが多い。まるで遥香がいなくなった日常の一部を埋め合わせようとしている風でもある。
そんなことを考えていたら、エレベーターが一階に着いた。
ドアが開くと薄暗い廊下が現れて、その先にビルの出口が見える。そこに看板を抱えてポツンと立っているメイドの後ろ姿があった。
勤はエレベーターから降りて廊下を進むと、その後ろ姿に声をかける。
「何をしてるんだ」
突然声をかけられたことに驚いたのか、愛は肩をビクッと震わせた。そしてこちらを振り返る。
勤の顔を見た瞬間、まるでガマガエルと目が合ったかのように愛は顔を顰めてきた。
「なんか用?」
愛は再び前を向き、幅の小さい路地裏の通りに視線を向けたまま勤に言う。とても低くて、軽蔑するような声だった。
「何をしてるんだ」
勤は同じことを尋ねる。
「見て分からないの?お客さん呼んでるだけだけど」
確かに愛は看板を掲げてビル前に立っているが、この前の道を人が通るとは思えなかった。例え人が通ったとしても、その人が愛の看板を見て『アモー』に行ってみようかなと思うことがどれくらいあるのか。
こんなことをしているくらいなら、SNSでの宣伝文句でも考えた方がよっぽど集客効果がありそうなものだが。
それに………。
勤は愛の全身を観察した。気丈に振舞ってはいるが、足や手を小刻みに震わせている。残暑が厳しいとはいえもう秋だった。夜になればそれなりに冷えるし、今日は特に冷たい風が吹いている。
愛の着ている服は二の腕から先や絶対領域が露出していた。震えてしまうのも当然と言える。
「上着を取って来る」
そう言って勤は後ろを振り向き、歩き出そうとする。すると、愛の言葉が後ろから飛んで来た。
「馬鹿なの?」
いきなり侮辱され、勤は眉を吊り上げる。
「なに」
「だから馬鹿なのって言ってるの。上着なんか来たらメイド服の意味がないでしょ」
「だからといって風邪でもひいたらそれこそ元も子もないだろう。馬鹿はどっちだ」
勤も愛に背を向けたまま反論する。
「私からしたら、わざわざコンカフェに来て勉強なんかしているそっちの方が馬鹿なんだけど。てか普通にありえないし」
そこで勤は反論に困った。言い返す言葉が咄嗟に思い浮かばなかったのである。
勤はゆっくりと呼吸を整えた。
「いいんだな?」
「は?何が」
「もう戻るぞ」
「なに、気持ち悪い。こっちの方からさっさと帰って欲しいんだけど」
勤は普段こうも直接的に侮辱される機会もないため、一瞬、ほんの一瞬であったが固まった。しかし石化の呪いを解くかのように眼鏡をくいっと持ち上げると、背筋を正して無言のままエレベーターへと歩いていく。
心なしか狭いビルに反響する足音が、普段よりも大きい気がした。
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