第10話

 勤はお風呂と歯磨きを済ませ、後は寝るだけの状態でベッドに潜った。部屋の電気を消し、眼鏡を外したところでスマホを手に取る。視力が悪い勤は眼鏡を外すと手元のスマホでさえ文字が見づらく、目を細めてスクリーンを睨んだ。

 冬美に送ってもらった愛のシフト表を確認して、次に訪問できそうな日をピックアップした後、勤は遥香とのチャット欄に移る。

「愛のカフェに行ってきた。しかし、まともに話してはもらえなかった」

 勤はメッセージを打ち込み、送信する。わざわざアモーに行くのは面倒だったが、こうして遥香と話せるのならやはり十分な価値があった。

 すると勤の送ったメッセージに、すぐ既読が付く。それは遥香がずっとこのチャット欄を開いていたのではないかと思われるほどの早さである。

 そして次の瞬間には返信がきた。

「そっかぁ」

 それから続けて、「どうしちゃったんだろ愛ちゃん」「心配だね」とメッセージが連続してポンポンと飛んでくる。

「そう言えば、冬美先輩にも会った」

 勤は冬美と話したことを簡潔に説明する。

「そうなんだ」

 またすぐに遥香から返信が送られてくる。

「あの人、素直じゃないところもあるけど、めちゃくちゃ優しい人だから笑」

「確かにちょっと変わった人だった」

 ―ね、ちょっとひねくれてるの笑

 ―でも、ダンスも運動も勉強も何でもできてもうホントに尊敬してる

 ―めちゃくちゃ頭いいから、勤とも話合うんじゃない?

 ―それにめちゃくちゃ可愛かったでしょ

 ―でも今は恋愛とか興味ないらしいから、早とちりしないようにね笑笑

 遥香から怒涛のメッセージラッシュが来る。

「別にそういうものじゃない」

 勤はそう返すと、それからは雑談に花を咲かせた。

 どうやら遥香は新しい環境でも上手くやっているらしい。早速、友達とまでは行かないまでも話を出来るクラスメイトは何人か出来たようだった。

 勤はホッとする半面、心がムズムズするような感覚を覚える。そして頭上にあるデジタルの目覚まし時計を見た。時刻を示す数字の下に、日付が表示されている。九月二十四日。

 受験が終わって東京に出ていくにしても、まだ半年近くある。その事実に勤はブランケットの下で体を丸めた。

 やがて遥香としばらくメッセージのやりとりを楽しんだ後、おやすみを言い合ってスマホを置く。

 急に視界が暗くなって、落ち着かない感じがした。時刻はすでに深夜の一時を回っている。でもなぜだか眠くない。

 ふとカーテンを開くと、夜の住宅街が見下ろせた。昼間とは違う景色の通り。そこに月明かりが降り注いでいた。こんな時間まで起きていたのは久しぶりで、ちょっとした背徳感を覚える。

 勤はふっと口角を開けてカーテンを閉めるが、しばらく寝付くことが出来ず寝返りを繰り返した。

 

 勤は塾での授業を終えると、自習室には入らず電車に乗った。そのまま家の最寄り駅の手前で降りて駅前商店街へと向かう。

 いかにも現代的な輝きを放つ焼肉屋の角を曲がった。メインストリートから逸れて細い路地に入ると、すぐに古びた褐色のビルが視界に入る。

 勤は迷うことなくビルの中へと足を進めた。

 頭上では、細くなった月が浮かんでいる。

 ファンタジックな木製のドアを潜ると、アモーは想像以上の喧騒に包まれていた。

「おかえりなさいませ………」

 そう言った冬美だったが、勤の姿を見ると急いで駆け寄って来た。

「とりあえず、空いてるとこ座っといて。何でも好きなの頼みな。奢るから」

 冬美はそれだけ耳打ちするとまたカウンターに戻っていき、何やらジュースを注いでいた。勤は店内を見回し、前回と同じテーブル席が空いているのを見つける。

 席に着くまでに愛の姿を探した。愛はお盆を脇に抱えてカウンターの中へ戻っていくところである。一度目が合ったがすぐに逸らされてしまい、愛はまるで勤のことなど視界に入っていないと言いたげに目の前を通過していく。

 勤は席に着くと近づいて来たメイドさんに、無難な麦茶を注文して店内を見回した。五席ほどあるカウンターは全てお客さんで埋まっている。驚いたのはその半分以上が女性であることだった。カウンターの奥から三席は二十代後半と思われる女性がジュースを口にしながら、楽しそうにカウンターの中のメイドと話している。

 今日はメイドさんの数も多く、愛や冬美を含めて六人のメイドさんが店内をいったりきたり忙しなく動いていた。

 テーブル席も半分以上が埋まっていて、こちらは男性客が多いようだった。BGMとしてヒットチャートが大音量で流れている。そのせいかお客さんたちもかなりの大声で話しており、勤は眉を顰めた。

 制服で来てしまったが、場違い感がすごい。あまり人の目を気にする勤ではないが、さすがに自分がこの店にとって異質な存在であることは理解できた。

 愛が再びカウンターから出てきて勤の斜め前の席に座っているお客さんの下へやって来る。お盆にはオムライスのプレートがあった。相変わらず愛は勤のことなど見向きもしない。

 勤は腕を組んで、愛のことを観察する。

 愛はプレートをお客さんの前に置いた。その際、プレートには視線を向けず、目尻に皺を寄せてずっとお客さんの顔を見ている。

 勤は無意識のうちに、良い笑顔だなと考えていた。

 さらに愛はお客さんと言葉を交わした後、ケチャップを取り出しオムライスにかけていく。

 何か文字やら記号やらを描いていることは勤にも想像できた。その顔は真剣そのものであり、とてつもない集中力でオムライスを見つめている。

 勤は気が付けばその真剣な眼差しを注視していた。

 やがてケチャップをかけ終えた愛は、ホッとする気持ちと達成感が入り混じったような

 笑顔になる。

 先ほどの作られた笑顔も魅力的だったが、この笑顔は自然に出来たもののようだった。

 お客さんも想像以上の出来に満足したのか、スマホを取り出し写真を撮っている。愛はもう一度笑顔でお客さんに何か言うと、そのまま颯爽とカウンターの中へ戻っていく。

 勤はなぜかそんな愛が輝いて見えた。

「あんまり熱心に見てると、ストーカーに間違われるよ」

 気づけばお盆を脇に抱えた冬美がそばに来ている。勤の前には店名の記されたコースターに、麦茶の入ったグラスが置かれていた。

「そんなに熱が入ってましたか?」

「うん。熱くて、名前を夏美に変えようかと思ったくらい」

「冬美の方が似合ってますね」

「それは誉め言葉という事にしておいてあげよう」

 冬美が脇に抱えていたお盆を、体の前に持ち帰る。

「思ったよりも愛が頑張っているように見えたので」

「愛ちゃんは頑張ってるよ」

「はい。頑張っていることは分かっているんですが、なんというか想像以上に真剣で」

「確かに愛ちゃんは真面目だし、それに夢があるみたいだからね」

「夢?」

「そう。目標とも言い換えることが出来るし、ただの妄想とも言い換えることが出来るあの、夢」

「どんな夢ですか?」

「それは愛ちゃんから直接聞き出したら?」

 冬美は外から見たら、普通にメイドさんが客に接しているような態度を取っていた。しかし、会話の内容は全くマニュアル通りではなさそうである。

「オレンジジュースは美味しくなかった?」

 冬美が悪戯っぽい笑みを浮かべて、勤に耳打ちする。

「別にそういうわけじゃ………」

「いいよ、正直に言って。私もあれは味が濃いだけで口の中に残るし、口当たりも悪いしであんまり美味しいとは思ってない。スーパーの安物だからね」

 そこで勤が冬美の背中越しにカウンターを伺うと、愛がそのオレンジジュースを飲みながらお客さんの前に肘をつき、何やら話し込んでいる。相手は三十代と思われる男性客だ。見えるのは後ろ姿だけで顔は分からないが、爽やかそうな雰囲気が伺える。

「あれは何ですか?」

 勤が聞いた。

 すると冬美が後ろを振り返り、愛の姿を確認する。

「あぁ、あれはキャストドリンクを貰ったんだね」

 勤が突如飛び出してきた単語を理解できず、眉を寄せていると冬美が説明してくれた。

「簡単に言うと、お客さんが私たちメイドに飲み物を奢ってくれて、その代わりにそのお客さんとジュースとかを飲みながらちょっと長めにお話したりするの。君も誰か話してみたいメイドがいたら、キャストドリンクを頼めばいいよ」

 なるほど、そういうものなのかと勤は納得する。知らなかったことを一つ知れた気がした。それは数学で今まで解けなかった問題の解法を思いついたときの感覚に似ている。

「先輩には何のドリンクも頼んでないですけど、こんなに話していていいんですか?」

「ほんとは駄目だね」

 そう言って冬美が勤の顔を覗き込んで来る。

「どれだけ見ても、入れませんよ。キャストドリンク」

「君は、面白みがないね」

 冬美はそう言うと、確かに長居しすぎたと思ったのか踵を返した。そして去り際に、ボソッと言葉を残していく。

「ちなみにお茶を頼むなら、私のお勧めは爽健美茶だよ。その麦茶は美味しくない」

 勤は冬美の背中を見送った後、グラスを手に取り麦茶を口に運んだ。確かにこの麦茶は味が洗練されておらず、ムラがある。特に後味で土っぽい風味がして勤は顔を顰めた。

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