第9話

 夏休みが終わりすでに二週間以上が経過していた。しかし地球はまだまだ夏気分のようで、勤は制服の内側に着ているシャツに汗をにじませる。

 遥香が引っ越してからも、勤の日常は変わらず進行し続けていた。寂しさを感じることが無いと言えば噓になるが、体は早くも遥香のいない世界に適応し始めている。

 人間とはそういうものなのかとも思ったが、よく考えれば勤の世界から完全に遥香が消え去った訳ではない。

 というのも勤は今、遥香から送られて来たLINEのメッセージを確認しつつ、駅前商店街の中を歩いている。

 メインストリートから逸れ、細い路地に入ると目的のビルが現れた。こじんまりとした、何の変哲もない褐色のビルである。それは横に新しく出来たガラス張りの焼肉屋に遠慮して肩を竦めるように立っていた。

 勤は遥香から送られてきた住所と照らし合わせて、間違いのないことを確かめる。そして薄暗い廊下へと足を踏み入れた。

 勤の下に突然LINEが送られてきたのは、遥香が引っ越してから約一か月後のことである。それまでは跨線橋での気まずさが残っていたせいか、お互いに連絡をしていなかった。

 遥香から送られてきたのは、短い一文である。

「愛ちゃんを助けてあげて」

 唐突に送られてきたメッセージに勤は戸惑った。柴田愛とは同じクラスであり遥香と仲が良かったことは知っているが、個人的な繋がりは皆無である。それこそ、遥香を通して数回会話を交わした程度だった。

 だが話を聞くにつれて、なんとなく事情を掴む。今年の六月頃、愛が学校に来なくなったことはクラスメイトとして把握していた。いじめがあったということが通説とされていたが、遥香は納得していないらしい。

「愛ちゃんが、いじめられたくらいで私に何も言わないまま不登校になるのはおかしい」

 遥香はLINEでそう言ってきた。そして、どこからか愛が学校に来なくなってから始めたというアルバイト先のカフェの情報を入手したらしく、様子を見てこいというのがメッセージを送って来た目的らしい。ご丁寧にそのカフェの住所などが載ったURLまで送って来ている。

 さらに言えば、愛が抱えている問題を聞き出し解決しろということのようだ。

 勤は受験勉強があったため一度は断った。

 しかし遥香から秒で返信が飛んできたのだ。

「お願い。このまま愛ちゃんとの関係が終わっちゃうのってどうしても納得出来なくて。こんなこと頼めるのは、勤だけだから」

 周りに気遣いが出来る遥香にこれほど強くお願いされたことは初めてのことである。それに自分だけだと言われると、悪い気はしなかった。

 再び遥香と話す話題が出来たと思えば、勤にとっても悪い話ではない。遥香の望みを叶えれば、距離を縮める契機にもなり得るだろう。

 そう思って勤は遥香のお願いを承諾し、今に至る。

 勤は裕介が乗ったら他には誰も乗れないのではないかと思う程狭いエレベータに乗り込むと、愛の働いているカフェがある三階のボタンを押した。

 エレベーターが開く。三階の廊下は照明が付いているものの薄暗く、埃っぽい印象を受けた。本当にカフェがあるのか疑問に思えてくるほどである。

 雰囲気は洋風に統一されているのか、壁から柱まで全てレンガの壁紙が貼られていた。柱に着いた照明も、黒いランプのような仕様になっている。

 勤は廊下の奥まで進むと右手側に見えてくるドアの前に辿り着いた。まるでおとぎ話の絵本に出てきそうな木のドアである。ドアには目の高さに、『AMO、アモー』と書かれたプレートが提げられていた。それがこの店の名前らしい。

 勤は取っ手に手を伸ばし、ドアを押した。

「おかえりなさいませ、ご主人様」

 部屋の内側から、高い声が響いて来る。

 思わず、勤の足が止まった。

 廊下と同じく、洋風の店内。見てくれだけは、普通のカフェまたはバーといった感じである。しかし、カウンターの奥にいる二人に嫌でも視線を奪われてしまう。

 フリフリのメイド服に長いストレートの金髪。さらにはカチューシャに白い手袋。これこそおとぎ話に出てきそうな人物が、現実世界の中にいた。

 どうやらこのアモーという店は普通のカフェではなく、コンセプトカフェ、いわゆるコンカフェであるようだ。

 まだ時間帯が早いせいか、お客さんの姿は見当たらない。

 勤が入り口で固まっていると、金髪の女性がカウンターを出てきて、勤の下へとやってくる。

「お好きな席へどうぞ」

 この世に理不尽など一切ないとでも言いたげなほど、明るい声である。

「いや、俺は客でないんです」

 勤は言った。すると、女性が怪訝そうに顔を顰める。そして上目遣いで勤の顔を覗き込んできた。女性はしばらく勤の顔を眺めると、何かを発見したかのように口角を上げ、一人でに頷いている。

 勤は無意識のうちに、つばを飲み込んだ。

「こちらに、柴田愛さんはいますか?」

 勤がそう言うと、女性はカウンターの方を振り返った。

 すると同じくメイド服を着、紺色に染めた髪をツインテールにしている人物がカウンターの内側でこちらの様子を伺っている。

 女性が手招きをすると、カウンターの内側にいた人物がぴょこぴょことこちらへ近づいて来た。

「愛ちゃん」

 金髪の女性が、やって来た紺髪の人物を掌で示す。紺髪の女性は、いきなり名前で呼ばれたことに驚いたようだ。こういう店では普段、別の名前を使っているのだろう。

 勤は紺髪の女性の顔をよく見た。濃いメイクで一瞬誰だか分からないけれど、愛と言われればその面影がある。元々愛は可愛いとクラスメイトに噂されるくらいの美貌ではあったが、今ではまた系統の違う愛らしさのようなものを醸し出していた。

「ちょっと話があるんだが、いいか?」

 勤は愛の目を見て言った。

 愛はそこで勤が誰なのか思い当たったようである。その途端に目を見開くと、口に手を当てて勤のことを睨みつけてきた。

「悪いけど、私に関わらないで」

 驚くほど低い声で言い放った愛は勤を睨みつけると、踵を返しカウンターの奥にある扉へと姿を消してしまう。

 勤はいきなりの拒絶に為すすべもなく、立ち竦んでしまった。

 最初から悩みの相談をしてもらえるとは思っていなかったが、こうも壁を作られてしまうとは。溜息を必死に堪える。

 これはまた面倒なことを頼まれてしまったようだ。

 そのとき、耳元で声がする。

「振られちゃったね」

 金髪のメイドである。

「いや、別にそういう意味じゃ………」

「分かってるよ」

 金髪のメイドは先ほどまでの高い声から徐々にトーンを落としている。

「とりあえず、どっか座りなよ」

「いえ、俺はこれで失礼します」

 勤はそう言って、金髪のメイドに背を向けた。そして木のドアに手をかけたところで後ろから声が飛んでくる。

「本当に、このまま帰っちゃっていいわけ?」

 勤が振り返ると、金髪の女性は挑戦的な笑みを勤に向けてくる。こちらは愛ほどメイクが濃くないが、モデルと見間違えるほどの美貌だった。顔は勤の見てきた人の中でもダントツで小さい。それにも関わらず、瞳は大きく柔らかい丸みを帯びていた。

 どこかで見たことがあるような気が………。

「私には、簡単に引き下がれない理由があるように見えたけど?」

 女性が言う。

「田中、勤くん」

 その一言に、勤は眼鏡の奥の瞳孔を開いた。どうして、この人は自分の名前を知っているのだろうか。

 勤は訝しげに目の前の女性を見るが、女性はニヤニヤとしているだけである。その表情の奥で何を考えているのか、全く見えてこなかった。

「とりあえず、座りなよ。ジュースくらい奢るよ。どうせこの時間帯は滅多にお客さんなんてこないし」

 勤は折れて、二人掛けのテーブル席に腰かけた。海辺のカフェテラスにありそうな白いテーブルである。

 金髪の女性がオレンジジュースを運んできてくれた。女性はそのまま勤の前に腰かけると、カチューシャを外してサラサラの長髪を靡かせる。

「私の名前は、冬美。店ではウィンターって名前を使ってる。冬美だからウィンター、単純でしょ」

 冬美がまた不敵な笑みを浮かべる。

 勤は名前を聞いて思い出した。去年まで高校の中に生徒なら誰でも知っている話のタネがあった。それは勤たちの一つ上の代にとても可愛い先輩がいるというものである。その美しさから、モデルだとかアイドルをやっているだとか様々な噂が飛び交っていた。

 中には先輩を一目見るために教室を覗きに行く生徒まで存在した。さらに誰が撮ったのかも分からない先輩の体育祭での笑顔の写真は、誰もが見たことがあるというほど校内で拡散されていたのである。

 勤も何度か廊下ですれ違った際、裕介に肘で突かれて、

「おい、あれが噂の」

 と言われたことを思い出す。勤は全く興味が無かったが、顔は覚えていたようだ。疑問が一つ解決し、勤は顔を綻ばせる。

「君、最近図書館来てないよね?」

 勤がオレンジジュースを口にすると同時に、冬美が言葉を発した。緩んだ表情が、一瞬にして引き締まる。勤は味の濃いオレンジジュースをむせ返しそうになった。

 なんとか口のジュースを飲み込むと、勤は質問に質問を返す。

「どうして俺が図書館に通っていることを?」

「単純な話だよ。私もよく図書館には行くからさ、昔はよく見かけたんだけど最近は会わないなと思って」

 普通、図書館で何度かすれ違ったくらいならよほど特徴的な人でもない限り相手のことを認識しないだろう。つまり、冬美は勤の顔を知っていたということになる。

 勤はまた答えの見えてこない疑問にぶつかり、貧乏ゆすりを始めた。

 しかしそれを表情には出さず、冷静に言葉を返す。

「塾に通い始めたので」

「へぇ、塾か。君、勉強好きそうだもんね」

「先輩は嫌いなんですか?」

 勤は声に出してしまってから、あっと口を閉ざした。つい有名人だったから先輩と言ってしまったが、冬美からしてみれば怪訝に感じるかもしれない。

 そのことを謝罪したが、冬美は笑顔のままだった。

「大丈夫、写真が出回ってるのは私だって知ってたし」

「じゃあ、遠慮なく先輩と言わせてもらいます」

「ふふ、いいよ。それで、勉強が嫌いかだっけ?私は別に嫌いじゃないかな。知らないことを知るたびに、今までの私が壊される気がして。だから本を読むことも好きだよ」

 冬美はテーブルに肘をつくと、勤の腹の内を探るかのように視線を送って来る。普通深い関係でもない人間に顔をまじまじと見られたら不快に感じるだろう。しかしそうさせないのがこの冬美という人間の大きな武器であるようだった。

「どうして、俺の名前を知っていたんですか?」

 勤は考えても答えが出ないと諦めて、気になっていたことを口にした。

 しかし冬美はあっさりと、勤の質問を躱してしまう。

「その前に、君は愛ちゃんに何の用があったの?」

 冬美がまた挑むような笑みを浮かべてくる。どうやら勤がモヤモヤしていることに気が付いて、それを楽しんでいるようだった。

 貧乏ゆすりが、速くなる。

「愛は一学期から不登校で、俺がクラスの室長として様子を見に行く必要があると判断しました」

 アドリブにしては筋が通っていたのではないだろうか。

 しかし冬美は態勢を変えることなく、口だけを動かして言った。

「嘘。君はそれほど他人に興味がある人間には見えない」

 ズバッとした物言いに、勤は冬美の表情を伺った。しかし冬美は首を傾けて、挑発的に笑うだけである。

「安心して、別に非難している訳じゃないの。私もあまり他人に興味が無い側の人間だから」

 勤は返す言葉もなく黙り込む。オレンジジュースのせいで口の中がべたついていて、不快だった。

「で、どうしてここに来たわけ?」

 冬美の大きな瞳が、勤の眼鏡の奥を射抜いた。前のめりに覗き込んでくるせいか、白くてきめの細かい額が強調される。

 勤は溜息をつくと、この人に半端な嘘をついたところで意味がないことを悟った。

「とある人に、頼まれたんです」

「とある人って?」

 勤が濁そうとしたことを、冬美はすぐに追及してくる。結果、問い詰められるままに勤は遥香のことを話した。

「なるほど、つまり君は遥香のことが好きなんだね~」

「え?」

 先輩は楽しそうに何度も頷きながら、笑っていた。

「どうしてですか?」

「いや、話聞いてれば誰でも分かるでしょ。受験生の君がわざわざ時間を割いてこんな所に来ているのがその証拠だよ。君は遥香じゃなかったら絶対にそんなお願い、承諾しなかったでしょ」

 勤は観念した。張っていた肩がストンと落ちる。

「そうかもしれません」

「事情は大体分かったよ。私も愛ちゃんから学校についての話は聞いたことが無い。それとなく探ってみたこともあるけど、上手く躱されちゃった。だから何か手伝えることがあったら、何でも言って」

「ありがとうございます。それから………」

 勤がお礼を言い、その先を続けようとすると冬美の手が勤の言葉を遮った。

「分かってる。何で君の名前を知ってるか、でしょ。これも単純な話だけど、遥香は私の後輩だから」

「後輩?」

「そう、ダンス部の」

 それを聞いて勤は思い出した。そう言えば、冬美はダンス部だったのである。一度裕介に連れられ、遥香に招待されたこともあり発表会を見に行ったことがあった。その際、勤は遥香に意識を向けていたが、それでも印象に残るほどの存在感を示していたのが冬美である。

 二人は接点があったのだ。

 そんなことにも思い至らなかった自分が情けなく感じる。これは反省し、次に活かさなければ………。

 そんなことを考えていると目の前の冬美が途端に笑顔を消し、真剣な表情になった。

 その瞬間、場の空気感が一変する。空気が引き締まって、密度さえ増したように思われた。冬美の周辺には独特の世界観が表出し、勤は一瞬にして引き込まれそうになってしまう。

 その翳りの差した表情を見て初めて、先ほどまでの笑顔が作られたものだったことを知る。そして冬美が現在覗かせている表情は、間違いなく素のままの冬美の世界を表しているのだと直感的に確信できた。

「私友達とか基本的にはいないけど、同学年も含めてダンス部の中で唯一遥香とだけはLINEしてる。あの子、面白いね」

 冬美は勤の目を見ることもなく、勤の後ろを漠然と眺めている。後ろの壁には店のオーナーの趣味なのか、アイドルの写真が飾ってあったがそれを見ている訳ではないことは確かだった。

「明るくてめちゃくちゃ良い子で可愛いんだけど、どこか繊細で脆さを持っている。なんだか昔の私を見ているみたいで、守ってあげなきゃって思うんだよね」

 冬美は勤に語り掛けている風でもなく、ボソッと独り言を言うかのようなトーンで話した。それから腕をぐぅーっと上に伸ばす。

「それで、遥香から連絡があってここに来たんだよね?」

 冬美がさっきまでの笑顔とトーンを取り戻して言った。

「はい」

「あの子勇気出したんだね」

「え?」

「あ、いや、何でもない。それで遥香は何て言ってた?」

「確か、愛を助けて欲しいと」

「それだけ?」

「そうですけど、何か?」

「いや、…………、そう。それより、もう一回愛ちゃん呼んでこようか?」

「いえ今日のところはとりあえず帰ります。どうせ何も話しては貰えそうなさそうだったので」

「こっぴどく、フラれてたもんね」

「えぇまぁ」

「またいつでもおいで」

 そう言って冬美が立ち上がった。

「あ、あと一応LINE交換しておく?」

 冬美がメイド服のポケットからスマホを取り出し、勤の前でフリフリと振って見せる。

「分かりました」

 冬美と連絡先を交換し、勤はアモーを後にする。

 塾からの帰り道、勤はふと冬美からメッセージが送られてきていたことに気が付いた。その時に判明したことだったが、冬美のアイコンはスコティッシュフォールドだった。

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