第8話

 耳を澄ませば、遠くの方から鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。しかし、かつては虫の大合唱だった夏の夜も、随分と静かになってしまった。

 そんな中で勤はパソコンから顔を上げる。映像授業の視聴を終え、予習復習をしていたら気が付けば時刻は十時を過ぎてしまっていた。

 お腹が空いていたけれど、遥香との約束を思い出し慌ててスマホを手に取る。しかし、遥香から連絡は一切来ていなかった。

 勤は焦って何度もパスワードを打ち間違えながらもスマホを開き、遥香に電話をかける。

 コール音が耳元で繰り返された。それに比例して、心臓の鼓動が早くなっていく。

 しかしいくら待っても遥香は電話に出なかった。もう寝てしまったのだろうか。それにしては早い時間な気もするが。

 確認しようと思い、窓際に行ってカーテンを開けると遥香の部屋は明るかった。一応LINEでメッセージを送ってみるけれど、既読は付かない。

 勤は仕方なく、部屋を出た。母親にご飯をどうするか聞かれたが、後で食べると言った。父親はリビングのソファで本を読んでいて、勤のことなど視界に入らなかったようである。

 鍵とスマホだけを持って家を出たは良いものの、勤は立ち止まった。こんな時間にインターフォンを鳴らす訳にもいかない。

 そう思って遥香の部屋を見上げていると、ちょうどカーテンが開いた。そこから遥香が顔を覗かせ、目が合うと笑顔を見せてすぐに部屋の中へと戻っていく。

 数秒後、遥香の家の玄関が開いた。

「ごめん、結構待った?」

 遥香は裕介と並んで歩いていた時と同じ格好だった。手に何か紙袋のようなものを提げている。

「いや、今出てきたところだ」

「ほんと?よかったぁ。私、携帯失くしちゃったみたいでさ、今日名古屋行ってたんだけど、電車に置いて来ちゃったのかも」

 あぁ、知ってる。何しに行ってたんだ。

 という言葉はギリギリのところで飲み込んだ。その代わり、どうりで連絡が付かなかったわけだ、と返しておく。

「ねぇせっかくだし、散歩しながら話さない?」

 遥香が言う。疑問形を使ってはいたものの勤の意志は関係ないようで、後ろで手を汲み歩き始めた。

 普段とても気遣いが出来る分、強引な遥香は珍しく感じる。そんなことを考えているときでも、裕介の姿が脳裏に浮かんでしまい、納得してしまう自分が嫌だった。

 あぁ、もう気遣うべき相手は自分ではなく裕介なのかと。遥香は好きじゃない男にもちゃんと気を遣える人だと分かっている。何なら遥香は自身を攻撃してくる人にさえも優しさを向ける。そう分かっているのに嫌なことを考えてしまった。

 勤は頭を振って、慌てて遥香に追いつく。

「跨線橋まで行くけど、いいよね?」

「あぁ、構わない」

「ふっ、勤ならそう言うと思ってたよ」

 そう言って遥香は肩を軽く小突いて来る。どうやら今日はテンションが高い日らしかった。

 それから主に遥香の主導で会話を楽しみつつ、二人は跨線橋の下まで辿り着く。街灯の光によってこの周辺だけが夜の街から切り取られているようだった。

 遥香が何も言わず、跨線橋の階段を上る。勤も黙ってそれに続いた。踊り場で向きを変え、さらに階段を上る。

 やがて橋の上まで来ると遥香が欄干に寄りかかり、遠くの方を見始めた。勤も横に並ぶ。眼下には四本の線路が延びていて、それはどこまでも続いていくかのように暗闇へと消えていっていた。

「もう、しばらく会えないね」

 遥香がさっきまでのテンションを捨て去ったようで、しみじみとした声で言う。

「確かに、そうだな」

 勤は東大のことが頭に浮かんだが、「またすぐ会える」とは言わなかった。逃げるように線路の先にある暗闇へと目を凝らす。

「些細なことで、この街にいられる時間が少なくなっているのを感じてさ」

 遥香が唐突に話始めた。

「私最近よく、これまでの人生を振り返ってみたりするんだ。勤は、そういうことってしたりする?」

「俺はあんまり昔のことを考えたりはしないな。むしろこれからどうするべきが、何をするのが正解か、そればかりを考えている気がする」

「確かに、なんか勤ってそんなイメージある」

 そこで一瞬会話が途切れ、沈黙が生まれたが遥香がすぐに続けた。

「でも私はやっぱり、過去のこと思い出しちゃってね。それでよく考えたら、私ずっと勤に助けられてばかりいたなーと思って」

「そんなことはない」

「ううん。そんなことあるよ。何か困ったことがあった時、勤に頼んだらなんでも解決しちゃうんだから」

 勤は胸の内側が毛布でくるまれたようにポカポカと温かくなっていくのを感じる。

「今まで勤がそばにいるってだけで、私はすごく心強かったし、とても安心できてたってことに気が付いた。勤が近くに居たからこそ、自分に自信を持てたような気がするの」

「それは………、買いかぶりすぎだ」

 遥香が首を横に振る。

「だから私は怖いの。引っ越して勤と離れ離れになったとき、私は上手くやっていけるのかなって思って。でもそれと同時に、勤に頼ってばかりの人間じゃなくて、ちゃんと自立して時には私が勤のことを助けてあげられるような人間にならないといけないっていう想いもあるの」

「俺は今でも十分遥香に助けられていると思っているが、そういうことじゃないんだな?」

 遥香は頷いた。

「それでね、最後になるかもしれないし、これだけは伝えておかないといけないと思って………」

「なんだ?」

 横に並んで、遠くの方を見ていた遥香が首をがくんと落とした。項垂れるように、下を見つめた後、思いっきり空気を吸う気配が伝わって来る。

 遥香は息を吸い込むと、空気の入った風船のように背筋を伸ばし勤の方に向き直った。

 勤も遥香の方を向く。目が合った。

「今まで、ありがとね」

 遥香が笑顔で言う。それから数十秒の間二人は黙って見つめ合っていたが、先に遥香が視線を逸らし、元の体勢に戻った。

 それから体の空気を抜くように、溜息をつく。

「ふぅー、緊張した」

 勤の頭に「ありがとう」と言った遥香の笑顔が刻み込まれる。勤はしばらく動くことが出来ず遥香の横顔を眺めた後、横に並んで遠くを見た。

「自分の素直な気持ちを喋るのって、大変だね」

 遥香は肩の荷が下りたようにリラックスした口調で言った。

「でも、本当に感謝してる。ありがとね、勤」

 今度は遠くの方を見たまま、さらっと言ってきた。

「あぁ」

 勤はそう返すことしか出来ない。胸の中に込み上がてくる何かに溺れてしまいそうだった。心が温かいものに満たされていく。こんなに幸せを感じて良いのだろうかとさえ思えてきた。

 そこで勤はビクッと、肩を震わす。

 状況を理解するより先に、体が反応してしまった。遥香の柔らかい手が、勤の肩に乗せられている。温もりが共有されるような気がした。

「ねぇ、もうしばらく会えないってことで、最後に一つだけ聞いても良い?」

 勤の肩に手を置いた遥香が、勤の顔を覗き込む。目が合っただけではなく、勤は瞳の奥を見透かされている気がして、心臓が早鐘を打ち始めた。

 遥香の頬が微かに赤くなっていることが、街灯の光で分かる。そして、遥香は視線を逸らすことのないまま、息を飲んだ。

 風が吹く。夜とはいえ、真夏の風は生暖かい。空に星でも見えれば良かったかもしれないが、生憎夜空は紺一色に染め上げられていた。

「私の事どう思ってる?」

 遥香が言った。一息で言い切ったようで、想像以上に早口である。でも、勤の心にはしっかりと届いた。

 勤の心臓が跳ねる。

「どう思ってるとは?」

 勤が聞き返して、視線を斜め下へと逸らす。

 しかし遥香は逃がしてくれなかった。遥香はまた勤の顔を覗き込むと、同じ質問を繰り返す。

「どう思ってる?」

 質問の意味は理解していた。要は遥香のことを恋愛対象として好きかどうかを問われている。それは十二分に理解していた。

 勤は眼鏡を持ち上げる。心が暴れ馬のように鼓動を鳴らしていて、思考を邪魔していた。そんな中でも必死に考える。今、どうすることが正解なのか。

 遥香は上目遣いで勤を見上げたまま、口を真一文字に閉じている。勤の答えを聞くまでは、何も言わないつもりらしい。

 頭がくらくらしてきて、眩暈を感じる。一年分の疲れが一気に襲い掛かって来たかのようだ。勤は欄干に寄りかかった。

 ぼんやりする頭の中で勤は思う。もういっそ想いを打ち明けてしまおう、と。幼い頃からずっと秘めてきた想いだったが、これ以上隠す必要もないのではないか。なにより、この想いを打ち明けてしまえばどれだけ楽だろうかと思う。

 勤はシミュレーションした。もし、今ここで告白したならば、遥香はどのように反応するだろうか。

 いつもならどんなことにでも、ある程度予想を付けることが出来る。しかし、遥香がどう答えるかまるでイメージが湧いてこない。何も見えない暗闇の中、砂漠に埋まったビー玉を探し出すようである。

 じゃあ、仮にOKされたとしたら。突如、勤の脳裏が信じられないほど明るい光で満たされる。目を開けていることさえ憚られるような眩しい光は、それがあるだけでもう他には何もいらないような気分さえ沸き上がらせた。

 しかし、もし拒絶されたら………。

 その先は、想像さえしたくなかった。これまで頑張って勉強をしてきた時間は一瞬にして意味を失い、勤の中には無のみが残る。

 そして絶妙なタイミングで、裕介の姿を思い出してしまった。あれが今朝のことであることが信じられない。もう遠い過去の出来事のようだが、記憶は全く色褪せていなかった。

 裕介の横に並んだ遥香のはにかむような笑顔。あんな顔を勤は見たことがなかった。つまり裕介といる時だけに見せる表情。それが、全てを物語っている気がする。

 その瞬間、勤の体が震えた。暑かったはずの夏の夜が、一瞬にして極寒の地に変わったような気がする。寒気がしたというレベルではなかった。

 自分はとんでもない愚行をしようとしていたのではないか。

 そんな思いが頭に浮かぶ。正解は分からない。もしかしたら告白することは正しいことだったのかもしれない。

 でも勤の頭はもう考えることを拒否していた。頭痛がする。もうこれ以上考える気力も体力も残っていない。だから早く結論を出せと言わんばかりに、頭がガンガン揺れる。

 そして勤はそれ以上思考を更新することさえ出来ないまま、結論を出した。

 振られると分かっていて告白することは愚かな事である。俺はもっと賢くあらなければいけない。

 それが勤の出した答えだった。

 真夏の冷たい風が吹き込んで、勤はさらに体を震わせる。全身に鳥肌が立っていた。そしてそれを均すように腕を擦っていると、胃がキリキリと痛み始める。

 答えが出てから勤の体は信じられないほど迅速に動いた。勤は気づけば、口を開いている。

「別に、普通だ」

 勤はそう言い切ってから、自分が言葉を発したのだと気が付く。

 遥香は最初、何を言われたのか理解出来ないといったような具合に目をパチパチと見開いた。

 しかし数秒の静寂の後、ようやく笑顔を作る。

「そう、だよね。ごめん………変なこと聞いちゃった」

 そう言ったきり、遥香は勤から視線を逸らした。そしてもう二度と合うこともない。

 二人はしばらく黙ったまま線路の行く先を眺めた後、どちらからともなく歩き出し帰宅した。何をしゃべったのか記憶にないが、おそらく会話らしい会話はなかったはずである。

 勤は結局、遥香が提げていた紙袋の中身を知ることは無かった。

 そして跨線橋の欄干の上、手すりの部分にある水滴の痕が真夏の夜の風にさらされ、消えていく。

 遥香と会ったのはそれが最後だった。遥香は東京へと引っ越し、勤の世界から色彩が一つ失われた。勤の世界に会った唯一の色彩が。その後の勤は夜の湖面に浮かぶ船のように、ただ穏やかな波に身を任せ漠然とした日々を送った。

 それから一か月後のことである。遥香から一件のLINEが届いたのは。

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