第7話
遥香は帰宅すると、深い安堵の溜息をついた。二階に上がって自室に入ると、部屋着に着替えるのも億劫で、そのままベットの上に仰向けに転がった。天井に浮かぶ慣れ親しんだ模様を見る回数も、残り少なくなってきている。
夏休みに入ってからは、たくさん遊んだ。数少ない友達はみんな受験生であるにも関わらず、遥香が最後に思い出を作りたいというと快く応じてくれたのである。
しかし心残りはやはり勤だった。勤にだけはなぜか、断れてもまぁいっか、というテンションで遊びに誘うことが出来ないのである。
仮にOKされたとしても、勉強を頑張っている勤に申し訳ない思いがして気が引けるのだ。
だがこのまま別れる訳にもいかない。そのためにも今日、名古屋に向かったのではないか。
遥香は部屋の入口あたりに置いた紙袋をふと眺めた。中にはボールペンが入っている。勤に今までのお礼ともう一つの意味を込めてプレゼントするつもりだった。
そうだ………やっぱりそうしなきゃいけない。
そこでキッチンで夕食の準備をしていたお母さんが、部屋をノックする音が響いた。
「はーい」
遥香は返事をしながら、上体を起こす。
「遥香、どうするかもう決めたの?」
エプロン姿のお母さんが、眉を顰めて遥香に尋ねる。
遥香は首を横に振った。
「もうちょっとだけ待って」
「おばあちゃんの家に行くにしろ、東京に来るにしろ準備とか色々あるんだからね。早く決めなさいよ」
お母さんはそう言うと、部屋のドアを閉じた。そして、階段を下っていく音が聞こえてくる。階段の数は十二段だ。
遥香にはお父さんの配慮で二つの選択肢が用意されていた。一つは父と母について東京に行く。そしてもう一つは、しばらく隣町のおばあちゃんの家から今の高校に通い、大学進学と共に一人暮らしをするというものだ。
遥香は後ろを振り返り、カーテンを開く。すると窓ガラスの向こうに勤の家が見えた。まだ塾に行っているのか、勤の部屋は電気が点いていない。
遥香は暗い勤の部屋の窓を見つめながら、覚悟を決める。
もし勤に告白されたなら、ここへ残る。そしてそうならなかったなら、東京に行き勤のことはもう………。
すると通りの端から心なしか肩を竦めて歩いて来る勤の姿が見えた。いつもなら自習室の閉まる十時ぎりぎりまで勉強していると言っていたのに珍しい。
でもちょうど良かった。
遥香はベッドから飛び降りると、十二段の階段を駆け下りる。
「ちょっと、どこいくの?」
キッチンに戻ったお母さんの声に、遥香は玄関に走りながら答える。
「すぐそこ」
そう言って遥香は家を飛び出る。
勤はちょうど自身の家の前に差し掛かった所だった。
「勤!」
遥香が名前を呼ぶ。すると勤が驚いたように振り返る。
遥香はすぐに駆けていった。勤の顔が近くで見える。その表情は相変わらず読めないけれど、どこか全体的に疲れているようだった。特に眼鏡の奥の瞳は、いつもの鋭い眼光を失っている。
「大丈夫?」
思わず、そんな声が出た。
「あぁ、大丈夫だ。それより、どうした。何か用か?」
遥香は息を整える。
「あー、えっとー」
勤に問い返されて初めて自分が何も考えず飛び出して来てしまった事に気が付く。それに気づいた瞬間、頬のあたりが熱くなってきて心臓が早鐘を打ち始めた。
「あのぉ」
突然俯いてたじろぎ始める遥香に、勤が不思議そうな視線を送る。
「今日の夜、空いてる?」
遥香の口から咄嗟に言葉が零れ落ちた。自分が発した言葉であるにも関わらず、理解するのに数秒を要する。
その後、遥香はさらに顔を赤らめた。
「あっ、あの、別に変な意味はなくて、ちょっと話したいな~と思って」
勤は一人あたふたする遥香を遠くから眺めるような視線で、見つめていた。
「電話でいいのか?」
平坦な勤の声が返って来る。
「うん。あっ、いや、出来れば会って話したいかも。また後で家出てこれる?」
「映像授業が残っているから遅くなるかもしれないぞ」
「あぁ、うん。私は何時でも大丈夫だから」
遥香は早口で捲し立てた。ちょっと走って家を出てきただけなのに、なぜかまだ肩が上下している。
いつもなら普通に見られるはずの勤の顔に視線を向けることが出来ない。
「じゃあ、また後でね」
遥香はそう言って、勤に小さく手を振り背中を向ける。まだ胸の中がざわついていた。こんな風にあたふたしてしまったのはいつぶりだろうか。
何を焦っているのだろうか、私は。
そう思いながら遥香は玄関まで辿り着き、扉を引く。ふと勤の家を振り返って見たけど、勤はもう家の中へと入ってしまったようだ。
誰もいない家の前の通りを、一匹のトンボが通り過ぎて行った。
勤は玄関の扉を閉めると、靴も脱がずに座り込んだ。頭が揺れていて、ひどく気分が悪い。
結局、何も頭に残らなかった夏期講習を終えると、自習室に行く気力もなく勤は直帰したのだった。
帰りの電車でも寝落ちしてしまったようで、乗り過ごさなかったことだけが幸いである。
だが僅かに残されていたエネルギーも、遥香の前で平静を装うのに全て使い果たしてしまった。
鞄を下ろす気力さえなく、膝に腕をついて項垂れる。
「おかえり、どうしたのあんた?」
母が玄関から勤が出てこないのを不思議に思ったのか、様子を見に来た。
「あぁ、ちょっと疲れたんだ」
勤が言う。すると母親は言った。
「上手く息を抜くことも、勉強の一つなんじゃないの。ゴール前でガス欠起こしたら、それまでどれだけ早く走っていても意味ないでしょ」
勤はそれには答えなかった。もう、声を出すのも億劫に思えてくる。
すると母は踵を返し、
「もうすぐご飯できるよ」
とだけ言って戻って行った。
遥香が後で会いたいと言っていたことを思い出す。
いったいなんだと言うのだろうか。
勤は今朝の光景を再生する。高島屋に入っていく遥香と裕介の後ろ姿。それは数時間前の出来事であるにも関わらず、黒い靄が掛かったように曖昧な記憶だった。
遥香と会う約束をしたことは嬉しい半面、どう接すれば良いのか分からない気持ちもある。
俺はまだまだ遥香に見合うような存在じゃなかったのかもしれない。
そう思うと、肩に背負ったままのリュックが十トンの重りに変わったような気がしてくる。
「はぁ」
勤はいつぶりかの深い溜息をつくと、体に鞭を打って立ち上がった。遥香に振り向いてもらえないのなら、嫌でも振り向かざるを得ないくらいの男になればいい。口で言うのは簡単だが、いったいいつになったら目標は達成されるのだろうか。考えても仕方ない。
とりあえず今は、やはり勉強あるのみだ。
勤は太ももを強く叩くと自室に入り、映像授業を視聴した。
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