第6話
夏休みに入った。と言っても、勤は学校の授業が塾の夏期講習に変わっただけで、相変わらず勉強漬けの生活を送っている。
今日も朝七時には起床して、準備を整え家で前日の講習の復習を済ませた後、電車へと乗り塾へと向かっていた。
東大の対策をしてくれる塾は近くには無いため、電車で一時間ほど揺られながら都会の方へと出なければいけない。
その間も、単語帳を頭に入れることを勤は欠かさない。今日は英語ではなく、古文の単語を眺めていた。
しかし今日は朝から頭がパッとせず、常にぼんやりとしている感覚が抜けきらないでいる。さっきから、同じ単語の意味が何度読んでも頭に入らず、ページを進めたり戻ったりを繰り返していた。
お腹が鳴る。幸い平日の中途半端な時間なため周囲に人は少なく、誰かに聞かれた訳ではなさそうだ。しかし、人前でお腹が鳴ったのはいつぶりだろうかと思う。
駅に着いたら、コンビニに寄って何か食べよう。たまには、寄り道しても問題ないだろう。そう思って、単語帳に視線を戻すと気が付けば眠ってしまっていた。
「まもなく、終点、名古屋、名古屋です」
車内アナウンスで勤は、うっすらと目を開く。気づけば、車内は混み始めており立ち上がっている人もいた。
勤は膝の上に落ちていた古文の単語帳を見て、自分が眠ってしまっていたことに気が付く。こんなこと経験が無かった。
なぜだか朝から調子がおかしいことを感じつつ、ドアが開いたので勤は荷物を持って慌てて電車を降りる。
気怠くて、足取りが重い。
金時計のあたりに出たところで再びお腹が鳴り、勤は近くのコンビニへと入った。
栄養補給の出来るウイダー、飲料水、それから糖分をとるためのチョコレートをレジ袋に下げ、勤は店を出る。太閤通口の方へと向かおうと、足を踏み出した。
しかし踏み出した足は数歩進んだだけで止まってしまう。
名古屋駅は平日の昼間とはいえ、人で混みあっていた。
そんな中でもはっきりと見覚えのある人影を見つけてしまう目を勤は恨んだ。金時計の奥の方、高島屋へと入ろうかという所に勤は遥香の背中を見つける。
顔はよく見えないけれど、それが遥香であることは疑う必要のないことに思われた。遥香を見間違えるはずがない。
それだけならまだ良かった。たまたま名古屋駅で遥香を見かけた。その程度の事なら次会った時、話のネタにでもすればいい。
しかし勤は遥香の横に並んで歩く人物の姿を見つける。そしてそれが誰か分かってしまう自分が嫌だった。
裕介である。
脂の乗った体を揺らしながら、楽しそうに遥香の横を歩いていた。当然ながら遥香も裕介も私服であり、認めたくない事実が付きつけられた気がする。ふと、屋上で見た光景が思い浮かんだ。
二人が高島屋へと入っていき、すぐのところを左に曲がる。そのとき、遥香のはにかむような笑顔が見えてしまった。
勤は胸にチクリとした痛みを感じ、それからモヤモヤとした気持ちが全身へ広がっていく。名古屋駅の喧騒が、遠くに聞こえるようだった。
勤は頭を左右に振る。そしてすぐに二人から視線を逸らした。このままでは心の中の何かが暴れ出してしまいそうな気がして、心に蓋をするように鞄を持つ手に力を籠める。
そこで勤は再び歩き始めた。いやむしろ歩いているというより、走っている速度に近い。まるで競歩の選手のように速足で人々の間を抜けていく。
コンビニのビニール袋が揺れ、カサカサと音を立てている。しかし勤の耳には、自身の心音以外何も届いていない。
視界は焦点が合わず、輪郭の朧げな世界の中を勤は出口を求めて彷徨った。
どの道をどう辿ったのかも分からないまま、気づけば塾の前へと来ていた。勤は聳え立つビルを睨んだ後、自動ドアを潜る。
入館証を取り出しゲートを通って、予め確認して置いた教室へと向かう。エレベーターがあったが、立ち止まって待っていることを苦痛に感じ階段を使った。
息が上がるのにも構わず五階まで駆け上がると、廊下に出る。ちょうど前の授業が終わった所なのか、教室から生徒たちが続々と出て来ていた。
それをかき分けるようにして勤は進む。だれも勤のことを気に掛ける人はいない。
やがて目的の教室に辿り着くと、勤は窓際の一番端の席に腰かけた。まだ他に学生は誰も来ていない。
ふと窓の外を見ると名古屋駅が見えて、その中で遥香と裕介がショッピングをしていると考えると、焦燥感が洪水を起こしそうだった。
遥香の眩しい横顔が脳裏に浮かぶ。それを振り払うのに勤は授業開始までの時間を全て費やした。
呼吸が荒く、体が熱い。
自分はここにいて本当に良いのだろうか?
様々な疑問が頭の中を泳いでおり、考え始めればキリが無かった。どの公式を当てはめても解けない問題ばかりである。
それからのことはあまり記憶になかった。ただ、東大対策講座の内容が何一つ頭に入らなかったことだけが事実として残っている。
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