第5話
遥香と別れてから時間を潰しがてら図書館で勉強した勤は、午後九時前に家へと帰った。玄関で靴を脱いでいると、母親の声が飛んでくる。
「おかえりぃ」
リビングの戸を開けると、奥のダイニングテーブルに腰かけた父親が勤の方をちらりと見た。
「おかえり」
「あぁ、ただいま」
勤は二階の自室に上がって鞄を置くと、再び一階に戻って来る。
「さっさと手、洗ってきなさい」
母親に言われ、洗面所へ向かう。
ダイニングに戻ると、父とは対格の位置にカレーが置かれていた。そこが勤の定位置である。父はテレビでニュースを見ながら、黙々と口を動かしていた。
「父さん」
勤はカレーに手を付ける前に、口にした。普段父と最低限以上の会話を交わすことが無いからか、緊張する。
しかし、何度も頭の中でシミュレーションしたように言葉を繋いだ。
「ちょっと話があります」
そう言うと、父はテレビを消して勤の方を見た。弁護士らしい鋭い眼光が、勤を射抜く。
「なんだ」
父があまりにも真剣な顔でこちらを見てくるため、自信が無くなって来る。しかしここで怯む訳には行かない。
勤は眼鏡を持ち上げると、平静を装った。
「いや別に大した話じゃないですけど………」
そう前置きして、勤は大きく息を吸う。
「俺、東大に行くことにしました」
瞬間的に、ダイニングが静寂に包まれた。父は真一文字に口を閉じたまま、勤のことを睨みつけている。
一瞬だったはずの沈黙がとてつもなく長く感じられたのは勤だけだろうか。勤は、間に耐えられず、声を上げた。
「それなら、父さんも納得ですよね」
声が震えてしまったかもしれない。
父は勤から視線を外して、再びテレビを付けた。ニュースキャスターの機械的な音声が流れ込んできて、勤も肩を下ろす。
「あぁ、東大だったら文句は言わん。下宿代も出してやる」
父はテレビに視線を送ったまま、口だけを動かして言った。そして再びカレーを口に運び始める。
勤もそこでカレーの存在を思い出し、スプーンを手に取った。我が家のカレーは定番の食材に加えてオクラが入っていることが特徴的である。
そのオクラと肉を掬い、白米に絡ませて口に運ぶと、ほんのりとした辛さと肉の旨味、それからオクラの粘り気がいいアクセントになって一気に副交感神経が優位になっていく気がする。
するとキッチンの方から話を聞いていたらしい母親が現れて、勤の前、父親の隣に座った。
「なに、なんで急に東大に決めたわけ?」
母親はダイニングテーブルに肩肘を付くと、面白そうに勤の顔を覗き込んだ。
勤はカレーのルーが気管支に入りかけ咳き込んでしまう。
「あら、大丈夫?」
母親に差し出された水を受け取り、咳を落ち着かせると勤は質問に答えた。
「そろそろ志望校を決めようと思った時、一番実力に見合った大学だと思っただけだ」
勤は淡々と説明する。思ったよりもすんなりと嘘が出てきて安心した。
遥香が東京に行くからとは口が裂けても言えない。
「そう」
母親が疑い深げに勤の顔を覗き込んで来るが、勤はカレーに集中するふりをしてやり過ごした。
父親はもう勤から興味を失くしたのか、ニュースに集中していてこちらの会話など聞いていないようである。
「東大に行くなら、塾も行かないとね」
母親が言った。なぜだか勤よりも張り切っているように見える。
「どうして?」
「だって、東大に行く人はだいたい塾へ通っているらしいわよ」
勤は今まで塾に通ったことはなく、常に自学自習で勉強してきたがそう言われると不安に思えてくる。
「良いの?」
塾代は安くはないはずで、大丈夫かという意味で勤が尋ねた。
すると母親は胸を張って返してくる。
「あんたが、行きたいなら。ねぇお父さん」
母親は父親に同意を求めたが、父親はちらっと視線を向け「あぁ」と返すとまたニュースへと意識を戻した。
それでその日の会話が終わり、勤は居心地が悪くなったのと早く勉強したいという想いに駆られて、カレーをかき込んだ。
遥香は教室に戻ると、腕を組んで机に突っ伏した。今日がこの学校に通う最後の日になるはずなのに、あまり実感が湧かない。
あるのはちょっとした寂寥感と、世界がくすんで見える虚しさのようなものだけだった。机の上で組んだ腕に額を当てて目を瞑った時、やっぱりこんなことをしていては勿体ない気がして顔を上げる。
先ほど一学期の終業式を終えた。
このあとホームルームが終われば、今日はすぐに放課となる。その後、仲のいい友達がお別れのパーティーを開いてくれることになっていたが、参加するのは女子たちと裕介だけだ。
夏休みに入ってからもしばらくはこっちにいるため会うのが最後ではないだろうけど、もう制服姿の勤を見るのは最後かもしれないと思うと胸に込み上げてくるものがある。
遥香は片腕を机の上にだらんと寝かせそこに顔を乗せるようにして、ぼんやりと隣の席を眺めた。
勤は相変わらず参考書に向かって、ペンを動かしている。最近は塾に通い始めたらしく一緒に帰ることも少なくなっていた。
裕介が大きな欠伸をする音が聞こえてくる。ふとそっちを見ると、何やら分厚い本を読んでいるようだった。珍しい。
「何読んでるの?」
遥香は聞いてみる。
裕介は表紙を遥香の方に突き出してきた。
「これからはAIの時代だ」
裕介が言った。なぜか声が得意げである。
どうやら読んでいたのは人工知能に関連する本のようだ。遥香は理系であるにも関わらずそういうことはさっぱりなので、眉をハの字にする。
すると裕介は胸を張って言った。
「人口知能はすごいんだぜ。二〇〇六年にディープラーニングが誕生してからコンピューターが自ら学ぶ方法を覚えて、分野によってはすでに人間の頭脳を遥かに凌駕しているんだ」
「はぁ」
遥香の眉が戻ることはなく、ただ楽しそうに語る裕介を羨ましく眺めた。
裕介は話していて得意げになったのか、勉強をしていた勤の肩に手を回してしゃべりかける。
「何も考えず机に齧りついてばかりいると、AIに職を取られるぞ」
裕介は憎たらしい笑顔を、勤へと向けた。
しかし勤は参考書から顔を上げない。裕介の声が耳に届いていたのかすら疑問に思う程だが、ちゃんと聞いていたようだ。
「机に齧りついて勉強することすら出来ない奴はAI以前に、人間に職を取られるだろうな」
勤が表情一つ変えずにそう返すと、裕介は何か反論したそうだったが、すぐに諦めたようで口をすぼめて乗り出していた体を引っ込めていった。
何度も見た当たり前の光景も今日で最後かと思うと、ふと瞼の端に涙が浮かぶ。鏡を見なくても目元が赤くなっているのが分かった。
なんだか最近、涙もろいな私。
遥香は心の中で呟くと、瞼の端を指で拭った。涙を見せる訳には行かない。遥香は真剣に問題を解く勤の横顔を見つめた。その目は一点の曇りもなく参考書へと注がれている。
それだけ集中しているということなのだろう。その眼差しはいつまででも眺めていたくなる半面、どこか物足りなさのようなものを感じてしまう。
たまには私のことを見てくれたっていいじゃないか。
遥香は出かかった溜息を飲み込んで、素早く勤から視線を逸らした。
そして行き場のない視線を彷徨わせていると、ふと前方にある一つだけポツリと空いている席に目線が行ってしまう。まるで押し入れに眠る玩具のように、そこだけ時間に取り残されているような気がした。
かつて愛ちゃんが座っていた空席を挟んで、男子二人が笑いあっている。それを見ていると、まるでその席には最初から誰も座っていなかったかのような気がしてきて、胸が締め付けられる心地がした。
愛ちゃんとはこのまま会うこともなく、別れることになってしまうのだろうか。
放課後に教室で恋バナをしてみたり、文化祭で一緒にアニメキャラのコスプレをしたり、修学旅行の清水寺で写真を取ったり、「本当は彼氏と来るはずだったのにね」と笑いながらイルミネーションを見るため町を歩いたり………。授業中とか廊下ですれ違った時とか、目が合うたびにこっそりウインクをしてくれた愛ちゃんの顔が頭に浮かぶ。
時々思い詰めて涙を流してしまうこともあったけれど、記憶の中の愛ちゃんはいつも笑顔だったはずなのに。
もう会えないのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気がしてしまう。
本当はもっと期待とかワクワクを抱えて東京に出ていくつもりだったのに。どうして気が付けば、マイナスの事ばかり考えてしまうのだろうか。
そう思うと、頬の筋肉がぴくぴくしてきて、遥香はやっぱり机に突っ伏したのだった。
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